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世界遺産 崎津教会 大江天主堂 イルカ ハイヤ 気嵐
切支丹館 殉教公園 天草・島原の乱 天草松島 Ama-Biz

午後の呟き

2018-07-26 15:16:04 | 日記
下のキーワードを検索して下さい。
1 RKK 化石採集クルージング

化石採集クルージング 
2018年07月26日 11:55 現在
恐竜の島として知られる天草市御所浦町で「化石採集クルージング」の体験会が開かれました。
御所浦町の「化石採集クルージング」は毎年、夏休みにあわせ実施しているもので今年は28日から始まります。
船に乗りガイドの説明を聞きながら肉食恐竜の足跡の化石がある島や天草で初めて恐竜の化石が見つかった場所などを巡り、さらに、採石場では化石探しに挑戦します。
「これが貝の断面、縦に割れてるよね」
(化石探しは)初めてです。あとの方でたくさん見つかりました。化石がいっぱい見つかって良かったです。(参加した男の子)
「(化石採集は)自分で発見できる喜び、自分でいろんなものを見つけられると言う所が楽しいんだと思います。」(御所浦ジオツーリズムガイドの会 島田一良会長)
この化石採集クルージングは9月24日まで行われています。

2 KKT 天草産の天然クルマエビ

天草産の天然クルマエビ
(熊本県)
天草郡苓北町で今、特産の天然クルマエビの水揚げが盛んに行われている。クルマエビは苓北町沖で底引き網漁で獲られていて今が最盛期。富岡漁港には、前日夕方から漁に出た漁船が夜明け前に帰港し水揚げしていた。水揚げされたクルマエビは重さで選別され、仲買業者を通して、その日のうちに全国へ出荷される。天然クルマエビは大きいもので体長25cm、100gあり、仲買業者によると天草で獲れるクルマエビは色合いが良く身が引き締まっていて甘みも強いことから人気が高いという。今年はやや小ぶりだが天草漁協苓北支所では1日に80~100kg水揚げされていて9月末頃まで続く
[ 7/26 12:04 熊本県民テレビ]

3 新潟市、ふるさと納税の返礼品を企業から公募
日本経済新聞 · 19時間前

北関東・信越 2018/7/25 19:26

 新潟市は25日、ふるさと納税の返礼品を市内企業などから公募すると発表した。農産物や加工品、工芸品などおよそ30品目を採用し、11月上旬から取り扱いを始める。独自性のある返礼品の種類を広げて、市の魅力の発信力を高める。

 返礼品の募集期間は8月1日~同31日まで。市内に本店や支店、工場などを持つ企業が応募できる。書類審査などを経て11月上旬に公表する予定。

 同市はこれまで、市主催の土産品コンクールの受賞品や、スイカや洋ナシ「ル レクチエ」といった農産物を中心に扱ってきた。「幅広い業種からアイデアを募り、他地域との違いを出したい」(担当者)という。

4 国東市ふるさと納税 返礼デジカメ再開 - 大分のニュースなら 大分合同新聞プレミアムオンライン Gate
大分合同新聞 · 1日前

国東市ふるさと納税 返礼デジカメ再開
2018/07/24 15:30
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 国東市がキヤノン製デジタルカメラをふるさと納税の返礼品に6月から再び加えている。同制度を巡っては総務省から「換金性が高い」「制度の趣旨に反する」との指摘を受けて昨年10月、デジカメを除外した経緯がある。三河明史市長は「電化製品を返礼品にしている自治体もあったため再開した。地元産品に変わりはなく、雇用創出にもなる」と説明している。
 ふるさと納税は2008年に始まった。個人が自治体に寄付することで住民税などが軽減され、確保した財源は各自治体が子育てや教育、町づくりに活用する。一方で返礼品を充実する自治体が増え、返礼品競争が過熱。転売目的で利用するケースもあるという。
 総務省は昨年4月、強制力はないものの、資産性の高い商品の全廃を求め、返礼品の調達額を寄付額の3割以下とする目安を設定。今年4月にも返礼品を地場産品に限るよう通知を出した。
 除外した際に三河市長は「他の自治体でデジカメなどの電化製品を出し続けていれば再開する」と県の担当者へ告げていたという。
 長崎キヤノンがある長崎県波佐見町は16年度から、カメラを返礼品に加えた。同町担当者は「国や県から個別に直接指導を受けてはいない。これからも続けていく」と話す。
 同省市町村税課は「返礼品が豪華になり過ぎていることは問題。だが返礼品一つ一つに対して良い悪いを決めることはできない。自治体の判断に任せている。良識を持って対応してほしい」とくぎを刺した。
 国東市は15年度途中から返礼品にデジカメを追加。受け入れ額は14年度の916万円から11億827万円に伸びた。その後も16年度で24億9268万円、昨年度は32億3919万円と県内トップとなっている。

※この記事は、7月24日大分合同新聞夕刊11ページに掲載されています。


潜伏キリシタン関連遺産

2018-07-26 10:41:20 | 日記
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1 世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(1) ひそやかに維持 ...
https://www.asahi.com/and_travel/articles/SDI2018062922041.html

世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(1) ひそやかに維持された信仰 
文・写真 城郭ライター 萩原さちこ
2018年7月2日
天草市五和町にある「鬼の城キリシタン墓碑公園」。五和町内に点在するキリシタン墓碑を集めて整備した

6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されることが決まった。

潜伏キリシタンとは、キリスト教が禁じられていた17〜19世紀の日本において、忍びやかに信仰を維持し続けた人々のことだ。宣教師との接触を断たれながら、既存の社会や宗教と共生しつつ地域ごとに独自の信仰形態を育み、250年にも及ぶ伝統をつくり上げた。

潜伏キリシタンの伝統の証しとなる12の資産群には、実は城がひとつ含まれる。ひそかな信仰がはじまるきっかけの舞台となった、長崎県南島原市の原城跡(構成資産①)だ。日本列島は大航海時代のアジアにおいてキリスト教宣教の東端にあたり、なかでも集中的に宣教が行われたのが長崎と天草地方だった。関連する城を通して、世界遺産の歴史と意義を読み解いていこう。

長崎県南島原市の口之津港緑地公園に建つ、イエズス会巡察師のアレッサンドロ・バリニャーノの像。1579(天正7)年に口之津港に上陸、有馬のセミナリヨを造り、天正遣欧少年使節を派遣した

潜伏キリシタンの歴史は、おおまかに「始まり」「形成」「維持・拡大」「変容・終わり」の4段階に分かれる。

1638(寛永15)年に原城での籠城(ろうじょう)戦で終息した島原・天草一揆が、潜伏キリシタンの「始まり」だ。キリシタンを中心に約3万7000人の一揆軍が結集した原城は、12万余人の江戸幕府軍に攻撃され落城。一揆軍のほとんどが殺されるという壮絶な結末を迎えた。幕藩体制を揺るがす大事件となり、幕府は海禁体制を確立。鎖国へと突入し、ポルトガル船の来航は禁止され、最後の宣教師も殉教した。ここから、幕府の探索をかいくぐり信仰を続ける、潜伏キリシタンの歴史が始まるのである。

島原・天草一揆の舞台となった原城跡

原城の本丸に建つ、天草四郎の像。一揆軍の首領とされた16歳の少年で、救世主としてカリスマ的な存在だった。父がキリシタン大名・小西行長の遺臣といわれる。本名は益田時貞

長崎県島原市にある島原城。1616(元和2)年に領主となった松倉重政が領民に増税と過酷な労働を強いた島原城築城も、島原・天草一揆の一端といわれる

潜伏キリシタンは各地に存在したが、17世紀後半に「崩れ」と呼ばれる幕府による大規模な摘発が繰り返されるうち、潜伏キリシタンの集落は長崎と天草地方に限られていった。この地域で潜伏キリシタンが途絶えなかったのは、もともと宣教の拠点であり、長期にわたる宣教師の指導によって組織的な信仰の基盤が整えられていたからだ。キリシタンであることを選択した人々は、発覚しないよう秘匿を基本とする信仰形態を取った。これが、潜伏キリシタンの「形成」段階である。

潜伏キリシタンは、信仰を維持するためにそれぞれの集落に共同体を形成し、宣教師に代わる指導者を中心に儀礼や行事を行った。その信仰の仕方は地域によってさまざまで、平戸の聖地と集落(構成資産②③/長崎県平戸市)のように自然崇拝に重ねて山岳やキリシタンが処刑された島を崇敬することもあれば、天草の﨑津集落(構成資産④/熊本県天草市)のように生活や生業に根ざした身近なものを信心具としたケースもあった。外海(そとめ)の出津(しつ)集落(構成資産⑤/長崎市)では聖母マリアなどの聖画像に祈りを捧げ、外海の大野集落(構成資産⑥/長崎県長崎市)では古来の神社に自分たちの信仰を重ねていた。

やがて幕府側も、本人が信仰を表明しても社会秩序を乱さなければ処罰しない黙認の姿勢を取るようになった。「秘匿」と「黙認」の絶妙な均衡によって、歴史は重ねられていった。

﨑津集落。漁村特有の信仰形態を育んでいた。1805(文化2)年の「天草崩れ」では7割の村人が検挙された

18世紀の終わりになると、人口増加に伴う五島列島への移住協定が大村藩と五島藩の間で結ばれ、外海の潜伏キリシタンたちは信仰を続けるために戦略的に離島を移住先として選んだ。これが「維持・拡大」の段階である。黒島の集落(構成資産⑦/長崎県佐世保市)、野崎島の集落跡(構成資産⑧/長崎県小値賀町=おぢかまち)、頭ヶ島(かしらがしま)の集落(構成資産⑨/長崎県新上五島町)、久賀島(ひさかじま)の集落(構成資産⑩/長崎県五島市)がこの時期の構成資産だ。

長崎県五島市にある水ノ浦教会。外海から移住した潜伏キリシタンたちが、キリスト教が解禁された後に建立した。沖合に望める現在は無人島となった姫島も、潜伏キリシタンの移住先だった

幕末になると、「変容・終わり」の段階を迎えた。幕府が下田、函館に次いで長崎を開港し鎖国が終わる。宣教師によって外国人居留地に大浦天主堂(構成資産⑫/長崎市)が建設されると、潜伏キリシタンのひとりが大浦天主堂の神父に自分たちの存在を告白。1865(元治2)年に起きたこの「信徒発見」という出来事を契機に、各地で宣教師との接触が図られるようになった。

信徒発見後も弾圧は続いたが、1873(明治6)年には禁教高札が撤去された。宣教師の指導下に入ることを決めて洗礼を受けた人々によって、やがて祈りの場に変わる教会堂が各所に建てられた。奈留島の江上集落(構成資産⑪/長崎県五島市)もそのひとつで、人里離れた谷間に移住した潜伏キリシタンによって、カトリック復帰後に建てられたのが江上天主堂だ。まさに、伝統の終わりを象徴的に示す存在だった。

長崎県五島市にある堂崎天主堂。キリスト教が解禁された後、五島に初めて建てられた教会堂。1908(明治41)年に年改築された

熊本県天草市の大江天主堂。キリスト教解禁後に天草で最初につくられた教会堂だった。現在の建物は1933(昭和8)年にフランス人宣教師のガルニエ神父により築かれた

世界でもまれな日本独自の信仰の形態は、このようにして形成された。次回は、その舞台のひとつとなった天草を歩こう。

熊本県天草市の本渡城山公園内にある、殉教戦千人塚。島原・天草一揆の戦没者がまつられる。公園内には城山公園キリシタン墓地もある

>> 世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(3)島原・天草一揆ゆかりの城
>> 世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(2)﨑津集落を歩く
(つづく。次回は7月9日に掲載予定です)


2 世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(2)﨑津集落を歩く ...
https://www.asahi.com/and_travel/articles/SDI2018070634561.html

世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(2)﨑津集落を歩く
文・写真 城郭ライター 萩原さちこ
2018年7月9日
チャペルの鐘展望公園から見下ろす﨑津集落

〈長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(1)から続く〉

世界遺産登録が6月末に決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する12資産のひとつ、﨑津集落(熊本県天草市)。キリスト教が禁止されていた江戸時代、潜伏キリシタンがひそかに独自の信仰を維持していた場所だ。

﨑津集落は、天草空港から車を40分ほど走らせた、天草諸島下島の南西部にある。フィヨルドのように海が入り組む羊角湾の入り江に位置し、現在は漁船が停泊する静かな港町だ。穏やかな人々の営みとともに、ゆったりとした時間が流れている。

﨑津集落。2012(平成24)年に「天草市﨑津・今富の文化的景観」として国の重要文化的景観に指定されている

構成資産としての﨑津集落の大きな特徴は、日本の伝統宗教とキリスト教を共生させながら信仰を維持していたことだ。潜伏キリシタンは、表向きは仏教徒として寺に所属し、﨑津諏訪神社の氏子となっていた。絵踏(えふみ)をしてキリシタンではないように振る舞い、「あんめんりゆす(アーメンデウス)」と唱えながら神社に手を合わせ、神社の儀式に自らの信仰をうまく擦り合わせていたという。驚くことに、かつての﨑津教会は﨑津諏訪神社に隣接していた(後に吉田庄屋役宅跡に移転)。集落の中央に神社とカトリック教会が隣り合って存在していたのだ。

キリスト教布教の中心地となった﨑津教会跡(左)と﨑津諏訪神社。﨑津諏訪神社は1647(正保4)年に豊漁と海上の安全を祈る地域の守り神として建てられた

﨑津集落の潜伏キリシタンのあつい信仰心を裏付けるエピソードが、1805(文化2)年の「天草崩れ」だ。幕府による「崩れ」と呼ばれる大規模なキリシタン検挙は天草でも行われ、四つの集落(﨑津・高浜・大江・今富)の全住民1万669人のうち、約半数にあたる5205人が摘発された。しかし﨑津では実に全住民の72パーセントが潜伏キリシタンであったため、村の存続を危惧して嘆願書が出され、「心得違い」として黙認されて重罪を免れた。

﨑津諏訪神社は集落の中心にあった

潜伏キリシタンは信仰の発覚を回避するため、さまざまなものを信心具の代用品としていた。漁村である﨑津集落で崇敬されていたのは、ロザリオやメダイ(メダル)のほか、アワビやタイラギなど身の回りのもの。貝殻の内側に浮き上がる模様を聖母マリアに見立てるなどしていたのだ。漁村の神である恵比寿神や大黒天をデウスとして崇敬していたともいう。

大江集落では、干潮時にしか行かれない海辺の洞窟に「穴観音」と呼ばれる観音像を据えたり、十字架やマリア観音像などを埋めて塚にした山中の「隠し御堂」を造ったりした。海や畑に働きに行くふりをしてこのような場所を訪れ、ひそやかに信仰を継続していたという。

旅館を改修した「﨑津資料館みなと屋」。﨑津集落の歴史や文化が紹介され、﨑津の生活や信仰がよくわかる

育まれた伝統は信徒発見により新たな局面を迎え、天草にも250年ぶりの夜明けが訪れた。キリスト教が解禁された後、天草ではフランス人宣教師のガルニエ神父が1933(昭和8)年に大江天主堂を建立。﨑津集落でも、フランス人宣教師のハルブ神父の依頼によって、1934(昭和9)年に現在の﨑津教会が完成した。

﨑津教会は、禁教期に絵踏が行われた庄屋役宅跡に建立され、教会の祭壇は、かつて絵踏が行われていた場所に設置されたと伝わる。教会をキリスト教復活の象徴としたいという、ハルブ神父の強い思いが込められているのだという。

﨑津教会。「海の天主堂」ともいわれる

さて、天草は潜伏キリシタン誕生のきっかけとなる島原・天草一揆の舞台でもある。1602(慶長7)年頃から寺沢広高が築いた富岡城(熊本県苓北町)でも、激しい戦いが繰り広げられた。

キリスト教の受容は、南蛮貿易の利益が本来の目的だった。戦国時代に天草を統治していた天草五人衆と呼ばれる領主たちはキリスト教を通じて西洋文化を取り入れようとし、相次いで改宗。これを受けて、最盛期には島民の80パーセントがキリシタンになった。

関ケ原合戦後、キリシタン大名の小西行長に代わり肥前唐津藩の寺沢広高が天草を拝領したことが、天草における大きな転機となった。広高が石高を実際の収穫量の倍以上で申告したため、農民たちは過酷な年貢徴収により困窮。さらに江戸幕府が禁教令を発布し規制を強めると、キリシタンは改宗を迫られ迫害も激化した。後を継いだ寺沢堅高も徳川家光の命令に従って弾圧を強化した。

悪政と弾圧、さらに大飢饉や拷問に耐えかねた天草の領民は、同じ状況にあった島原半島の領民とともに蜂起。キリシタン大名の元家臣も加わり、組織化された軍による島原・天草一揆に突入したのである。

船之尾町にある祇園橋。島原・天草一揆では川をはさんで一揆軍と唐津藩が激突した。全国的にも珍しい多脚式の石造桁橋で、国の重要文化財に指定されている

富岡城は、天草灘に飛び出す富岡半島に築かれた城だ。富岡半島は天草下島の北西部から砂州でつながり、その南東の丘陵に築かれた富岡城は、南は袋池が堀の代わりとなり、東は土塁のように城を囲い込む砂嘴(さし)に守られた城だった。攻め込む場合は陸続きに足場の悪い砂州を渡るしかなく、城としては望ましい立地といえよう。本丸からは砂嘴に囲まれた穏やかな巴湾(ともえわん)が見下ろせ、島原半島や東シナ海が一望できる。ふもとから見上げる姿も勇ましい。

富岡城からの眺望。巴湾が見下ろせる

富岡城は最も高い場所に本丸を置き、北東に二の丸と出丸が連なり、二の丸の南東下に三の丸が配されている

一揆軍は富岡城を落城寸前まで追い詰めたが、幕府の援軍が到着するとのしらせにより、富岡城を離れて島原半島へと渡り原城(長崎県南島原市)に籠城(ろうじょう)したという。城のふもとにある富岡吉利支丹供養碑は、一揆の戦死者を弔うべく建立されたものとされる。

一揆の終息後、富岡城は幕府の資金を受けた山崎家治によって大修復された。二の丸西側の石垣は三重構造であることが修復時に判明していて、もっとも奥は寺沢時代の石垣で、表面には一揆との攻防を示す焼けた痕跡が残っていた。この石垣を隠すために二重目の石垣が急造され、その上を山崎氏が新たな石垣で覆ったようだ。

修復された、富岡城二の丸西側の石垣。三重目の山崎時代の石垣は後に城を破却する戸田氏によって破壊された跡もあり、富岡城のさまざまな歴史を物語っている

>> 世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(3)島原・天草一揆ゆかりの城

>> 世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(1)ひそやかに維持された信仰

(つづく。次回は7月23日に掲載予定です)


3 世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(3)島原・天草一揆 ...
https://www.asahi.com/and_travel/articles/SDI2018071353591.html

世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(3)島原・天草一揆ゆかりの城
文・写真 城郭ライター 萩原さちこ
2018年7月23日
原城の本丸。原城は島原湾に突き出す標高約31メートルの山に築かれた。東・南・北面は有明海に面し、西側は低湿地に守られていた

〈長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(2)から続く〉

潜伏キリシタンの歴史は、原城(長崎県南島原市)を舞台にした島原・天草一揆の終焉(しゅうえん)とともに始まる。幕府の海禁政策によりキリスト教は禁止され、ひそかな信仰形態が生まれるのだ。


島原・天草一揆は突発的なキリシタンの反乱ではなく、長きに渡る迫害と窮乏の末路だった。日本の歴史を大きく転換する舞台となった島原へ、その歴史を感じる旅に出よう。

原城。右の高くなっている部分が本丸で、左が二の丸

原城を訪れると、まずその広さに驚く。城の周囲は約4キロ、総面積は41ヘクタール。谷も取り込むこの地域独自の構造ではあるが、それにしても広大だ。ほとんどの観光客が訪れるのは本丸のみで、このほかに二の丸、三の丸、二の丸出丸、鳩山出丸、天草丸などの曲輪(くるわ)が連なる。

原城を築いた有馬晴信は、南蛮貿易で財を成したキリシタン大名だった。晴信は、1599(慶長4)年に本格的な原城の改修を開始して日野江城(長崎県南島原市)から居城を移すのだが、まずこの日野江城が晴信の財力や豊臣秀吉政権との関係を教えてくれる。

発掘された大量の輸入陶磁器は、有馬氏の海外交流と貿易による成功の証しだろう。改修されたふもとの部分の構造は、秀吉や秀吉家臣の城と理念が一致し、技術的にも共通項がある。秀吉が使用に権限を与えていたとされる、金箔(きんぱく)瓦も発掘されている。

原城にも、秀吉流の城づくりの理念と技術が引き継がれている。たとえば、石垣を用いた枡形(ますがた)虎口もそのひとつ。また、本丸大手門が京間の寸法なのは、当時最先端だった近畿地方の技術に基づいた可能性がある。本丸正門で見つかった水路に当時は貴重だった瓦が敷き詰められていたのは、有馬氏の財力の裏付けといえるのだろう。

日野江城の上段の曲輪へつながる階段遺構(写真のように、現在は埋め戻されている)。海外の技術の影響と思われる、石材をパズル状に組み合わせた珍しい細工も見つかった

原城の本丸正門。写真中央に水路がある

〈長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(2)〉でも触れたように、キリスト教の受容は、南蛮貿易の利益が本来の目的だった。晴信が1580(天正8)年に受洗したのも、佐賀の龍造寺隆信に対抗するための経済的・軍事的支援を得るためだったと思われる。支援を得て1584(天正12)年に薩摩の島津氏と組んで龍造寺氏を倒したことで、イエズス会との絆はさらに深まった。領民にキリスト教が普及した背景には、こうした事情が隠されていた。

織田信長が没するとキリシタンへの風当たりは強くなり、秀吉は1587(天正15)年に宣教師の国外追放を命じるバテレン追放令を発布する。しかし完全に信仰を否定したわけではなく、キリスト教徒による神社仏閣の破壊や、日本人の奴隷売買を受けての国防政策だった。秀吉は南蛮貿易の利益を維持するために宣教師の布教活動を禁止しつつ、南蛮船の来航は認可。信仰そのものは黙認する姿勢を取っていたのだ。1612(慶長17)年には江戸幕府が禁教令を発令してキリシタン弾圧を本格化させるが、これも布教を通じた植民地政策やキリシタンの蜂起に危機感を覚えたためと考えられる。

原城の空堀。籠城(ろうじょう)時は非戦闘員が隠れていたという

有馬領における転機は、岡本大八事件による晴信の失脚だ。子の有馬直純は徳川家康の養女と再婚し所領を相続すると、すぐさま棄教。幕府の方針に従いキリシタンを厳しく取り締まった。

直純の転封後、1616(元和2)年に入部した松倉重政の悪政によって、領民は苦しめられた。重政は4万石の石高を10万石と申告し、明らかに身分不相応な島原城(長崎県島原市)の築城を開始。大幅な増税と過酷な労働を強いられた領民の生活は困窮を極め、3代将軍・徳川家光に取り締まりの手ぬるさを指摘された重政が残虐な拷問を行うと、心のより所さえも奪われた領民は追い詰められていった。

後を継いだ松倉勝家はさらなる暴政を行い、非人道的な弾圧を断行。凶作が続き飢饉(ききん)が発生すると領民の不満と怒りはピークに到達し、表向きには消滅していたキリシタンが棄教を悔い改めて、再びキリシタン信仰に立ち返った。一揆に加勢したキリシタンの多くは、一度は棄教した人々だったという。

埋門跡。かつては一番奥のように、幕府によって完全に埋め立てられていた。現在は、築石が落とされ並べられた状態(手前)、石垣の裏込石が詰め込まれた状態(中央)、土砂で埋め尽くされた状態(奥)の3段階が再現展示されている

一揆を鎮圧すると、幕府は反乱の拠点としての再利用を防ぐため、原城を徹底的に破却して一揆軍の遺体とともに埋め尽くした。この「破城」と呼ばれる城の破壊は各地の城で徹底して行われた。逆に幕府の命で、反乱に備えて強化された城もあった。

近年の発掘調査によって、地下深くに眠っていた原城の構造や籠城の実態が判明してきている。城内の石垣がかなり崩れているのは、破却の痕跡だ。隅角の石が崩れているのは、自然崩落ではなく人為的に壊された証。本丸の櫓台(やぐらだい)は隅角部がほぼ残っておらず、執拗(しつよう)なまでに破却されたようすがうかがえる。

破城の痕跡が顕著に残る、本丸の櫓台跡。宣教師が残した報告書には三重の櫓が建っていたと記される。櫓台からは口之津や天草を見渡せる

すさまじく破壊された本丸正門付近では、焼けた門の瓦や石垣の石材のほか、刀傷が入った大量の人骨が土とともに埋められていた。人骨は女性や子供と断定できるものも含まれ、手足が多く胴体や頭部がそろっているものは少ない。約3万人の首は、長崎の出島や原城にさらされたと伝えられている。

一揆軍は極めて組織的で統制のとれた籠城生活を送っていたようで、等間隔で区画化された半地下式の住居も発見されている。ガラス製のロザリオや祈りの象徴であるメダイのほか、鉛弾を溶かしてつくった十字架も多く出土。遺物は遺体の顔付近から発見され、命を落とす直前に握りしめたり、口に含んだものと思われる。

全国には攻防が繰り広げられた城がたくさんあるが、戦場では後片付けが行われるため、武器や戦死者の遺骨など痕跡が見つかることはない。原城は、戦いの生々しい痕跡が残る唯一の城といえるだろう。それは目を覆いたくなるような事実ばかりだが、生命の尊厳をかけて戦った人々の声なき声に耳を傾けることもまた、私たちにとって大切なことであるように思える。

本丸門跡。本丸へつながる最後の門で、櫓門を抜けて階段を上って本丸へ続いていたと思われる。破却により礎石は一部しかなく、階段の踏み石もほとんど残っていない

現在の原城本丸からはどこまでもおだやかに広がる有明海が望め、壮絶な戦いがあったとは思えないほど、やさしい時間が流れている。本丸だけでも時間を要するが、時間に余裕を持って、まずは原城のスケールを体感してほしい。日野江城とセットで訪れれば、有馬氏の城づくりと時代背景の理解が深まるだろう。南島原市有馬キリシタン遺産記念館に立ち寄るのも忘れずに。

本丸から見渡す有明海
甬道(ようどう)。原城攻撃のために幕府軍がつくったトンネル

>> 世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(2)﨑津集落を歩く


>> 世界遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(1)ひそやかに維持された信仰

(この項おわり。次回は7月30日に掲載予定です)


4 西日本新聞 「原城跡」高台に慰霊碑 島原・天草一揆3万9000人追悼へ 観光施設20年に完成予定 [長崎県]

「原城跡」高台に慰霊碑 島原・天草一揆3万9000人追悼へ 観光施設20年に完成予定 [長崎県]
2018年07月26日 06時00分
原城跡から西側に望む観光施設の整備予定地(中央)。手前には既存の駐車場がある
原城跡から西側に望む観光施設の整備予定地(中央)。手前には既存の駐車場がある
 南島原市が、世界文化遺産の構成資産「原城跡」の来訪者向けに整備を計画する観光施設の概要が分かった。高台の展望広場に慰霊碑を建て、原城跡が舞台となった島原・天草一揆の戦没者3万9千人を追悼する。完成は2020年2月の見通し。

 整備する場所は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する原城跡から国道251号を挟んだ西側の丘陵。原城跡では一揆軍3万7千人、幕府軍2千人が戦死したとされ、敷地奥の標高約15メートルに造る展望広場では、慰霊碑そばに原城跡で出土した人骨の納骨施設も設置。高さ5メートルのやぐらも建て、周囲を見渡せるようにする。

 敷地は約8900平方メートル。中心に平屋の拠点施設を建て、島原手延べそうめんなど特産品を扱う物産館を開業。レンタサイクルの窓口の観光案内所も設け、原城跡の本城である同市の国史跡「日野江城跡」など周辺地域への周遊を促す。

 慰霊碑や物産館などは地元の商工観光団体を中心とする市世界遺産市民協働会議が16年7月、市に整備を要望。市の計画によると、総事業費は5億1300万円。18年度は実施設計などを進め、19年5月に着工する予定。

=2018/07/26付 西日本新聞朝刊=