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1 潜伏キリシタンの祈り伝える 天草市で特別展・信仰具など展示 | 熊本のニュース | ニュース
熊本日日新聞 · 2時間前
潜伏キリシタンの祈り伝える 天草市で特別展・信仰具など展示
潜伏キリシタンが信仰した信心具など110点が並ぶ「受け継がれた祈りのかたち」展=天草市
天草市河浦町の「崎津資料館みなと屋」で28日、世界文化遺産登録記念特別展「受け継がれた祈りのかたち-信仰具からみた天草のキリシタン史」が始まった。9月17日まで。
禁教期に崎津集落の潜伏キリシタンを指導した「水方[みずかた]」の子孫、宮下家に残るメダイ(メダル)など祈りに使った信心具[しんじんぐ]30点を初公開。大江(同市天草町)の水方子孫、山下家の信心具や、天草地方で大量の潜伏キリシタンが発覚した「天草崩れ」(1805年)の調書の一部など計110点の貴重な史料をそろえた。
市のキリシタン関連3資料館と連携し、長崎市の日本二十六聖人記念館などの協力も得て実現。天草市世界遺産推進室の中山圭学芸員(41)は「キリスト教伝来期の16世紀のメダイから潜伏期の信仰物までが一同にそろうのは貴重。信仰を裏付ける天草崩れの調書もあり、見どころは多い」と話す。
開館は午前9時~午後5時。期間中は無休。入場無料。同館TEL0969(75)9911。(谷川剛)
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2 フロイス - イエズス会日本管区
https://www.jesuits.or.jp/nenpyo/Frois.html
在日イエズス会はザビエル以来日本の政治・文化の中心地として都(京都)地方を重視していたが,フロイスは64年末にここに派遣 ... 年秋,長年の日本研究と文才が評価されて《日本史》の編纂を命じられた。87年準管区長クエリョに同行し豊臣秀吉と大坂城中で会見した。 ... 同年10月バリニャーノとともにマカオへ行き,3年余り秘書を務め,95年長崎へ戻った。97年二十六聖人の殉教を目撃して報告書を書き,同年7月長崎で没した。
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Jesuits of the "Christian Century" in Japan
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フロイス Luis Frois 1532‐97
ポルトガル人のイエズス会士。リスボンに生まれ,1548年イエズス会入会。同年10月ゴアに到着し,聖パウロ学院に入学。修練期間中,来日前のザビエル や日本人アンジローらに会った。50年末からイルマンとして,インド,マラッカで布教に従事した。61年ゴアで司祭に叙階され,63年(永禄6)7月に来 日した。12月度(たく)島(平戸市)に渡り,ザビエルの同行者であったフェルナンデスから日本語および風習,習慣などを学んだ。在日イエズス会はザビエ ル以来日本の政治・文化の中心地として都(京都)地方を重視していたが,フロイスは64年末にここに派遣され,76年(天正4)まで12年余り滞在した。 1566年から都の地区長を務め,69年3月,前年入京した織田信長と会い,知遇を得たことはキリシタン教会発展の基となった。同年夏,岐阜に信長を訪 ね,72年には通訳として布教長カブラルに同行し信長を訪問した。76年オルガンティーノに地区長の職を譲り,77‐81年まで大友宗麟支配下の豊後地方 の地区長を務めた。1580年日本巡察使バリニャーノが来日して上京するさい通訳として同行し,信長から歓待された。バリニャーノは日本視察後年報制度 (一定の書式で定期的にする布教報告)を設けたが,フロイスは準管区長の下で《イエズス会日本年報》の執筆者になった。83年秋,長年の日本研究と文才が 評価されて《日本史》の編纂を命じられた。87年準管区長クエリョに同行し豊臣秀吉と大坂城中で会見した。同年伴天連追放令後各地を移転し,90年長崎に 居を定め,92年(文禄1)2月および7月に開催された準管区総会議では書記を務めた。同年10月バリニャーノとともにマカオへ行き,3年余り秘書を務 め,95年長崎へ戻った。
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97年二十六聖人の殉教を目撃して報告書を書き,同年7月長崎で没した。
滞日三十数年,信長,秀吉らの激動の時代を生き,彼らと も接触して中央政界の事情にも社会,文化にも詳しい日本通の宣教師であった。著書《日欧文化比較》(1585。《大航海時代叢書》所収),《日本二十六聖 人殉教記》(1597)のほか年報,書簡多数がある。 岸野 久
『百科事典』より
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フロイス
97年二十六聖人の殉教を目撃して報告書を書き,同年「1597年」7月長崎で没した。
豊臣秀吉
死亡: 1598年9月18日, 京都府 京都市 伏見城
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あ サン=フェリペ号事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/サン=フェリペ号事件
サン=フェリペ号事件(サン=フェリペごうじけん)は、文禄5年(1596年)に起こった日本の土佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件。豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害である日本二十六聖人殉教のきっかけとなったとされる。 .... その後、1597年9月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン=フェリペ号の積荷の ... ルイス・フロイス書簡 長崎発 1597年3月15日、出典:松田毅一、『秀吉の南蛮外交』、256頁。
含まれない: 死
い 日本二十六聖人 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本二十六聖人
日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人の ... しかし、1596年10月のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はイエズス会の後に来日したフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に ... パウロ三木は死を目前にして、十字架の上から群衆に向かって自らの信仰の正しさを語った。 .... ルイス・フロイス 『日本二十六聖人殉教記 1597 | 聖ペトロ・バプチスタ書簡 1596-97』 純心女子短期大学長崎地方文化史研究所編、 ...
含まれない: 1598
う 日本26聖人 ( 宗教 ) - honky tonk manの黙示録 - Yahoo!ブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/honkytonkman_2/30138603.html
2012/05/02 - 豊臣秀吉の命令によって長崎で処刑された26人のカトリック信徒。 ... 26聖人殉教を引き起こした」といわれることがあるが、このような「発言」は1598年に長崎でイエズス会員たちが行った「 ... 26聖人殉教は、サン=フェリペ号事件が直接的に引き起こしたという単純なものではなく、都周辺での活動を自粛していた ... 戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて(秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた)、市中引き回しとなった。1597年1 ... パウロ三木は死を目前にして群集に自分の信仰を語った。
え 二十六聖人の殉教事件。裏側・その後。 | Food Red Guide Book - 楽天 ...
https://plaza.rakuten.co.jp/kcma4985/diary/201004280001/
2010/04/29 - 1597年2月5日、ルイス・フロイスの「日本史」に書かれてある最後の大きな記録。二十六人の ... が日本人だ。 サン=フェリペ号事件により、フランシスコ会の布教活動が「挑発的」と見た秀吉は、京都奉行の石田三成に指示し、キリスト教徒全員を捕えた後に死刑にす… ... 二十六聖人の殉教事件。 ... 二十六人の中の一人、パウロ三木は死を目前にして群集に「私はキリスト教を信じたというだけで殺されるのである。
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