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夕方の呟き

2018-07-30 20:56:54 | 日記
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1 潜伏キリシタンの祈り伝える 天草市で特別展・信仰具など展示 熊本日日新聞
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潜伏キリシタンの祈り伝える 天草市で特別展・信仰具など展示
潜伏キリシタンが信仰した信心具など110点が並ぶ「受け継がれた祈りのかたち」展=天草市
 天草市河浦町の「崎津資料館みなと屋」で28日、世界文化遺産登録記念特別展「受け継がれた祈りのかたち-信仰具からみた天草のキリシタン史」が始まった。9月17日まで。

 禁教期に崎津集落の潜伏キリシタンを指導した「水方[みずかた]」の子孫、宮下家に残るメダイ(メダル)など祈りに使った信心具[しんじんぐ]30点を初公開。大江(同市天草町)の水方子孫、山下家の信心具や、天草地方で大量の潜伏キリシタンが発覚した「天草崩れ」(1805年)の調書の一部など計110点の貴重な史料をそろえた。

 市のキリシタン関連3資料館と連携し、長崎市の日本二十六聖人記念館などの協力も得て実現。天草市世界遺産推進室の中山圭学芸員(41)は「キリスト教伝来期の16世紀のメダイから潜伏期の信仰物までが一同にそろうのは貴重。信仰を裏付ける天草崩れの調書もあり、見どころは多い」と話す。

 開館は午前9時~午後5時。期間中は無休。入場無料。同館TEL0969(75)9911。(谷川剛)

※※※
勝手に端折り年表

1582 天正10 ・ヴァリニャーノ神父、遣欧少年使節団を伴って長崎港を出航。
・本能寺の変。織田信長 細川ガラシャの父、明智光秀に討たれる。
・天草鎮尚死去。

1583 天正11 ・アルメイダ神父、天草河内浦において病没。

1587 天正15 ・天草五人衆、島津氏の軍に入り戦う。
 島津氏撤退し、天草衆、一万田城に孤立。キリシタン部将の志賀親次に救われる。

・天草五人衆、秀吉と面会、領地安泰を約される。

・秀吉、伴天連追放令を出する
 
1588 天正16 ・秀吉、肥後を二分し、加藤清正と小西行長に与える。

1589 天正 17 6/15フロイスが本戸に滞在する。
・小西行長、五人衆に普請役を命ずるも拒否。
 小西・加藤の連合軍、天草島の志岐氏、天草氏を攻める
(天正の天草合戦)。

・志岐城、本渡城陥落。
 木山弾正討たれる。

・天草は、小西氏の支配下に入る。
 
1590 天正18 ・秀吉、全国平定
・7月21日天正遣欧少年使節がヴァリニャーノ神父とともに長崎に帰着。
 金属活字、印刷機を持ち帰る。

1592 天正20 ・文禄の役。(第一次朝鮮侵攻)
 天草諸豪も小西行長に従い、朝鮮へ渡る。
※※
・イスパニア船サン・フェリペ号、土佐に漂着。
※※※
・26聖人、長崎で殉教する。
1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。 .... 日本二十六聖人は近世においては、日本よりもヨーロッパにおいてよく知られていたが、それはルイス・フロイスなどの宣教師たちの報告書によるところが大きい。1862 ...
‎経過 · ‎二十六聖人の氏名 · ‎日本二十六聖人に捧げられ ... · ‎脚注

フロイス 死亡日: 1597年7月8日 死亡地: 長崎県 長崎
   26聖人の処刑を見届け記録に残して・・・没す

1598 慶長 3 8/18豊臣秀吉没
死亡日: 1598年9月18日 死亡地: 京都府 京都市 伏見城 死因: 腺ペスト
※※
豊臣秀吉の命令で26人が処刑され、それも見届けたフロイスが記録に残し没す。
命令を下した豊臣秀吉が翌年死に・歴史は関ケ原の戦いへ・・

1600 慶長5 ・関ヶ原合戦。
ガラシャの夫細川忠興は徳川につき、ガラシャは豊臣側の石田三成の人質となる。
細川ガラシャ 「明智光秀の娘」 死亡日: 1600年8月25日 死亡地: 大阪府 大阪市 中央区 死因: 殺人
…事実上は家来に介錯させた自殺・・
・小西行長処刑される。
・天草は加藤清正領となる。
細川忠興は息子の一人を豊臣、一人を徳川につけた。
徳がアwに着いた細川忠利は加藤清正の孫が改易されたのちに肥後城主となる。
一方、 豊臣についたもう一人の息子は京都で死んだことになっているが、天草の五和に逃れて、後に大庄屋になったとの説が多くの人に支持されている。

 細川忠興次子興秋(熊本藩初代藩主忠利兄)、豊臣に組みしも破れ、
天草に逃れる。
細川興秋は、細川忠興の次男として天正12(1584)年に大阪で生まれた。母は、玉子即ちガラシャである
御領組大庄屋の始祖。

1603 慶長8 ・江戸幕府開府。家康、征夷大将軍
・肥前唐津城主寺澤広高は天草を加増され、清正に替わり、兼帯支配を始める。
 ・・天草は寺沢広高(唐津藩)の領地となる・・。
寺沢広高、富岡に新城を築き番代を置く。 検地をする。(4万2千石?)、

1605 慶長 10 徳川秀忠、将軍就任。
 広高キリシタン弾圧強める

1611 慶長 16 加藤清正死去。
1611 慶長16 ・領主細川忠利、禁教に転ずる。
1613 慶長 18 家康禁教令・宣教師国外追放。
1614 慶長 19 島原・天草はじめ全国でキリシタン弾圧が始まる。アダム荒川処刑さる。
※※
1616 元和 2   家康死去
死亡日: 1616年6月1日 死亡地: 静岡

松倉重政、島原城主となる
1617 元和3 ・天草のキリシタン指導者14か村59名イエズス会文書に記載。
1618 元和4 ・松倉重政、森岳城(島原城)の築城に着手。
・宣教師への宿提供を禁ずる触れが出る。禁を犯した者は火刑に処し、宣教師の発見者には銀30枚を与える、とある。

1620 元和6 ・天草河内浦において「竹の籠の獄舎」迫害。

・富岡番代として、三宅籐兵衛が赴任。
1622 元和8 ・天草四郎、益田甚兵衛の子として宇土で出生(推定)。
1621 元和 7 三宅藤兵衛(2,500石・1000石とも)富岡番代となる。
※※※
1623年
1873年「明治6年」「キリスト禁教令が解かれる」から250遡るとこの年になる

加藤忠広配流「加藤清正の孫、品行不漁につき改易」。
細川忠利、熊本藩主。

1633 寛永 10 第1回鎖国令(海外渡航禁止)
 中浦ジュリアン(少年使節)、長崎で倒し倒吊りの刑を受け殉教
1634 寛永 11 この年より天草・島原に不作続く・幕府、酒造高の半減を命ず・細川藩、年貢の減免を命ず
1635 寛永 12 大火や地震、大風が相次ぎ、7月には肥後だけで34,000戸の民家が倒壊
1636 寛永 13 春は長雨、夏は干天

1635 寛永1 ・7月幕府、鎖国令を出し、日本人の出入国禁止。
・寺請制度全国的に実施。
1636 寛永13 ・幕府最初の鎖国令発布。

1637 寛永14 ・島原・天草の乱勃発。
 三宅藤兵衛討死。
1638 寛永15 ・原城落ち、天草島原の乱終結。
・天草四郎ら出島で獄門。
・富岡冬切りで、キリシタン残党処刑される。
・寺沢堅高、天草領を召し上げられる。
 替わって、山崎家治、天草支配者となる。

1641 寛永 18 鎖国体制完成
 山崎家治、讃岐丸亀へ移封、

1641 寛永18 ・天草は天領となり、鈴木重成が初代代官として着任。
 諏訪宮本渡へ移転、本渡の市始まる

1642 寛永 19 幕府、九州諸藩に天草への移民命じる
 熊本藩は頭百姓50人、男女170人、馬2匹提供する。
1642 寛永19 ・鈴木重成、兄正三の協力を得て、各地に数年かけて寺社建立を行う。
・初めて絵踏み行われる?。
1643 承応2 ・鈴木重成病死。
※※
1805 文化2 ・大江、崎津、今富、高浜で5000余人の隠れキリシタン発覚(天草崩れ)。
 心得違いとして、穏便に済まされる。
 
1864 元冶1 ・小山秀之進、長崎大浦天主堂を建てる。
※※ 明治 
1868 明治1 ・浦上のキリシタン、3400人が流罪となるる
※※※
1873 明治6 ・切支丹宗禁制の高札撤去。
・キリスト禁教令が解かれる。

・﨑津、今富で血税騒動。
1874 明治7 ・天草大江に仮説教所設置。
1879 明治12 ・天草、大江村の信者野端辰二郎(外90余名)キリスト教で葬儀を執行したため罰金の刑を受け、それを不服として大審院長に上告する。

・天草大江に古材による教会堂建設。
1882 明治15 ・崎津教会にフェリエ神父着任。
1887 明治20 ・フェリエ神父、今富の根引に孤児院開設(はじめは今富)。
※※
1892 明治25 ・ガルニエ神父、天草、大江崎津教会主任司祭として着任。
 
1907 明治40 ・五足の靴一行、大江のガルニエ神父を訪ねる。
 また、天草の旅を通じて、南蛮文学の発展に寄与する。
※※
昭和8年(1933年)天草への伝道に生涯を捧げたフランス人宣教師ガルニエ神父が地元信者と協力して建立した。
 
1934 昭和9 ・ハルブ神父、崎津教会建設。
 
1941 昭和16 ・ガルニエ神父死去。
 日本在住57年。
 
1943 昭和18 ・ハルブ神父死去。
 日本在住56年。
 
2018 平成30年 世界遺産に登録


午後の呟き

2018-07-30 16:25:31 | 日記
下のキーワードを検索して下さい。1 世界遺産スペシャル「潜伏キリシタン 250年の祈り」 - Gガイド.テレビ王国
https://tv.so-net.ne.jp › 番組表を見る

潜伏キリシタンは250年もの間、どのように祈りを守り続けたのか、篠原ともえさんと探る。 ... 世界遺産スペシャル「潜伏キリシタン 250年の祈り」 ウェブ検索: 7/31 (Tue) 2:30 ~ 3:15 (45分) この時間帯の番組表: NHK総合1・広島(Ch.1): ドキュメンタリー/教養 ...

世界遺産スペシャル「潜伏キリシタン 250年の祈り」
チャンネル[総合]
2018年7月31日(火) 午前2:30~午前3:15(45分)
世界遺産への登録が決定した「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。潜伏キリシタンは250年もの間、どのように祈りを守り続けたのか、篠原ともえさんと探る。出演者ほか【出演】篠原ともえ,大浦天主堂キリシタン博物館研究部長…大石一久,大村史談会会長…久田松和則,松川隆治,天福寺住職…塩屋秀見,九州大学大学院准教授…岩崎義則,新上五島町教育委員会文化財課…高橋弘一,村上茂則,岩元良介,【語り】野尻あかね 詳細今年の6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産への登録が決定した。250年もの間、宣教師不在の中、独自の信仰を育み、祈り続けた歴史は、世界的に見ても類を見ない文化として高く評価された。潜伏キリシタンの人々は、どのようにして祈りを守り続けたのか、タレントの篠原ともえさんとともに、大浦天主堂など長崎県のゆかりの土地を訪ねながら、探っていく。

見逃したくない!

この番組の放送予定をメールでお知らせします。(NHKネットクラブの無料会員登録が必要です。)

2 談話室 - 東京天草郷友会
amakusa-gouyuukai.com/keijibaniriguti.html

あまくさ談話室へようこそ. ここは、天草に関する話題を中心に情報交換をしていただくコーナーです。 天草郷友会の会員に限らず、多くの皆様に参加いただければと思います。 掲示板には、teacup掲示板を利用しております。広告が表示されることをご了承 ...


3 RKK 台風12号通過 引き続き強風や高波に注意

台風12号通過 引き続き強風や高波に注意
2018年07月30日 12:30 現在

台風12号は、30日午前0時に天草市付近を通過しました。今後は台風の動きが遅くなり、引き続き、強風や高波など注意が必要です。

異例の進路で日本列島を通過した台風12号は、午前11時現在、屋久島の西の海上を南に進んでいます。
今後は動きが遅くなりほとんど停滞するため、県内は、31日にかけて影響が続く見込みです。
台風12号が通過した天草市では、29日夜の満潮の時間帯に潮位が高くなりました。
現在も、県内全域に強風注意報が出ていて、沿岸部では高波や高潮にも注意が必要です。

また、30日午前6時前、JR肥薩線の白石~球泉洞間で倒木があり、普通列車が接触する事故がありました。
JRによりますと台風12号による強風で倒れた可能性も「否定できない」としています。
乗客や乗員にけがはなく、倒木を撤去し午前7時46分に運転を再開しましたが、上下線あわせて4本に最大で1時間50分程度の遅れが出ました。


上沼恵美子 別居

2018-07-30 00:04:49 | 日記
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1 上沼恵美子の別居原因にも…。夫への不満で壊れそうな“夫 ... - 女子SPA!
https://joshi-spa.jp › エンタメ

上沼恵美子の別居原因にも…。夫への不満で壊れそうな“夫源病”の妻たち
上沼恵美子の別居原因にもなった「夫源病」妻たちが夫に抱えた不満
2018年7月27日 8時47分
ざっくり言うと

上沼恵美子が、結婚41年にして「夫源病」で別居したと報じられた
3年前に実母が亡くなったが、夫は慰めの言葉もかけてくれなかったという
熟年になってから夫婦関係が悪化し、離婚になるケースは少なくないそう

上沼恵美子の別居原因にも…。夫への不満で壊れそうな“夫源病”の妻たち

2018年7月27日 8時47分
女子SPA!

上沼恵美子の別居原因にも…。夫への不満で壊れそうな“夫源病”の妻たち
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 テレビ界で“西の女帝”と言われている上沼恵美子(63)が、夫(71)と結婚41年にして「夫源病」で別居と、26日発売の『女性セブン』が報じました。

「小さな不満が積もり積もって、熟年夫婦は危機を迎える」と語るのは、男女関係や不倫事情を長年取材し著書多数のライター・亀山早苗さん。テレビで見せる明るい姿の陰で、彼女が抱えていた深刻な悩みとは? 話題の報道を、亀山さんが読み解きます。(以下、亀山さんの寄稿)

◆夫がストレスで体調まで崩した上沼恵美子。過去には緊急入院も
 17歳から姉と漫才コンビを組み、’77年に関西テレビのディレクターだった上沼真平さんと結婚した上沼恵美子。一度は仕事を辞めて家庭に入ったが、翌年、専業主婦は耐えられないと本名で復帰、機関銃のような本音トークが受けて多くの冠番組をもつ名司会者となった。家事育児と仕事、常にパワフルにがんばってきたようだ。

 夫の定年後は、テレビでよく冗談めかして夫の愚痴をこぼしてもいたが、どうやら冗談ではなかった。’13年には自律神経失調症を患い、’14年にはウイルス性急性肝炎で緊急入院。いずれもストレスによってかかりやすくなる病気だという。8年前からめまいがひどく、かかった医師から夫をストレス源とする「夫源病」と診断される。家にいても家事ひとつしない夫に、ストレスはたまる一方だった。

 決定的だったのは、3年前に彼女を支えてきた実母が亡くなったこと。落ち込む彼女に、夫は慰めの言葉もかけてくれなかったという。(『女性セブン』8月9日号)

 夫には夫の考えがあるのかもしれないし、夫婦関係についてはたからとやかく言うことはできないが、熟年になってから夫婦関係が悪化したり家庭内別居状態、ひいては離婚になるケースは少なくない。いずれも女性たちが我慢を続けてきた結果である。

◆自分のことしか見えていない夫。ずっと不満が積み重なって
 子どもたちが独立したとき、夫に「もうあなたのめんどうは見ません」と宣言したのは、カズエさん(57歳)だ。下の娘が就職して3年後、ひとり暮らしを始めたのがきっかけだった。夫が定年退職して半年たったころのことである。

「再雇用という形で週に3日は会社に行っていますが、あとはほとんど家にいます。私は契約社員としてフルタイムで働いている。今までだって家事育児はほぼひとりでやってきました。立場が変わったので夫にも家の中のことを少しはやってほしいんですが、まったくやらない。いえ、やろうとしないんです」

 そんな夫の態度を見て、そういえば、この人はいつだって協力してくれなかった、なんでも私に押しつけてきたと過去の不満が頭をもたげてきた。

「上の子が2つくらいのときだったか、夜中に具合が悪くなったので抱き上げてあやしていたら夫も起きてきたんですよ。心配で寝ていられないのかと思ったら『明日は朝から会議なんだよ、泣き止ませてくれよ』って。こっちは救急車を呼ぶべきかどうか迷っているくらいなのに、よくそんなこと言えるわねと言い争いになりました。結局、救急車で病院につれていき、そのまま入院となったけど夫が来ることはなかった。

 考え始めたら、いくつもそういうことがあって……。私自身が無理やり、そういう不満を心の奥に封じ込めてきたんだとわかりました」

 定年後の夫がもしカズエさんをもっと手助けしてくれれば、封印した不満の箱は開かなかったかもしれない。だが、家にいながら「オレの昼飯、なに?」と出勤する妻に声をかける夫に我慢がならなくなり、ついに不満の箱が開いてしまったのだ。

「私はもうあなたの身の回りのことはしません。洗濯も食事も自分でやってと突き放しました」

2ページ

 夫は激怒したが、カズエさんはひるまなかった。もう子どもたちがいないのだから、たとえ別居となろうが離婚となろうがかまわないという気持ちだった。夫は食事はコンビニなどで買っていたようだが、洗濯は1週間たっても自分のものが洗われていないことに気づき、自分で洗濯機を廻し始めた。

「夫が定年になったことで、ひとりの男と女として向き合わざるを得なくなったんですよね。それは夫ともですが、自分自身とも向き合うしかなくなった。私の結婚は何だったのか、私の人生は何だったのかという問いです。子どもに恵まれたのはよかったけど、家庭生活は決して幸せとは言えなかった。それを認めるしかなくなったんです」

 自分から離婚を切り出す気はない。家をどうするのか、財産分与はどうするのかと考えると気が遠くなるからと少し笑った。

◆仲良し夫婦なんて嘘。完全な仮面夫婦で、夫の退職を待っていた
 一回り年上の夫が退職する前から別居、そして離婚したのはタカコさん(55歳)だ。結婚して30年、はたからは「仲のいい夫婦」と見られていたから、友人知人たちがひどく驚いたという。

「仮面夫婦だったんですよ。子どもが3人いたから、私は本当に大変な思いをしてきました。夫が浮気したのも知っているけど知らないふりをしていた。とにかく子どもたちが大きくなったら好きなように生きようと決めていたんです」

 ぐずる乳飲み子をあやしているとき、酔って帰宅した夫にレイプまがいに性行為を強要されたこともある。屈辱だった。夫婦の信頼関係はそこで崩壊した。それでも彼女は夫のみならず、夫の両親や親戚にも尽くしてきた。

「子どもたちが大きくなってからは、夫が夜中に酔いつぶれて私が車で迎えに行くこともよくありました。夫の行きつけの飲み屋さんからは『奥さんは妻の鑑(かがみ)だね』と言われたこともある。『そんなあ』と言いながら、あと何年って夫の退職を指折り数えて待っていました」

 それでも我慢ならず、夫の部下が酔った夫を連れてきてくれたとき自分から誘いかけて関係を結んだこともある。そうやって少しずつ鬱憤(うっぷん)を晴らしてきたつもりだったが、夫の定年半年前に彼女は、子どもたちの力も借りて家を出た。置き手紙ひとつだけ残して。

「夫は慌てたみたいですね。でも子どもたちが完璧に私をかばってくれて、『長年、ひどいことしてきたからおかあさんが愛想を尽かしたんじゃないの』と言ってくれた。夫がかなり疲弊してきたころ、離婚届にサインしてほしいと手紙を書いて。あとは子どもたちと弁護士さんがやってくれました。

 夫が最後にどうしても私と話したいと言うので会いましたが、私はまったく感情が動かなかった。夫が私をどれだけ傷つけたかを淡々と言いましたが、夫はほとんど覚えていないんですよね。私がどんな思いで我慢してきたか、彼にはまったくわからないんだ、私の人生は何だったんだろうと情けなくなりました」

 自分が壊れそうになるくらい不満をためていた妻と、そんな妻の様子にまったく気づかない夫。大なり小なり、こういうことはどの夫婦にもあるのではないだろうか。

<TEXT/亀山早苗>
【亀山早苗】
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数