天草コレジヨはどこに
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天草コレジヨはどこに
2020-06-06 20:18:00 | 日記
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天草コレジヨはどこに
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1 西日本新聞 「天草コレジオ」河浦に イエズス会の古書に記述 60年の論争決着へ
2020/5/11 6:00
西日本新聞 熊本版
天草の研究会再び確認
約430年前にキリシタンの最高学府「天草コレジオ」が、カワチノウラ(河内浦)、現在の熊本県天草市河浦町にあったことを示す古書がオーストリア国立図書館に所蔵されていることが、地元の「天草キリシタン研究会」(浜崎献作会長)の調査で分かった。コレジオの所在地を巡っては、河浦にあったことを示す古文書が英国の大英図書館に所蔵されていることが2月に判明している。「河浦説」を裏付ける文書が相次いで見つかり、60年以上続いた論争に決着がつきそうだ。
【関連】「ありがとう」笑顔で逝く 天草コレジオ「河浦説」提唱の鶴田さん
同研究会によると、この古書は1617年、イエズス会宣教師のルイス・ピニェイロ(生没年不明)がスペイン語で出版した「われわれの聖信仰が日本諸王国において得た成果の報告」。12~14年の日本での布教状況や、江戸幕府による弾圧について記述。巻末にイエズス会が日本に所有していた駐在所などの施設の一覧があり「En Cauachinoura Reyno de Fingo,Colegio.(肥後国、河内浦にはコレジオ)」と書かれている。
浜崎会長らは3月初め、インターネットで世界の国立図書館のデータベースを調べ、オーストリア国立図書館のサイトで古書の内容を把握。キリシタン研究の第一人者である高瀬弘一郎・慶応義塾大名誉教授に照会して、天草コレジオの所在地を示す史料であることを確認したという。日本で京都外国語大がフランス語版(1618年発行)を所蔵していた。
天草コレジオの所在地を巡っては、市町合併で天草市になる前の旧河浦町と旧本渡市のどちらにあったか論争が続いていた。古書には、本渡には駐在所があったことだけが書かれている。高瀬氏は「この文書の存在は知らなかったが、天草コレジオが河浦に所在した証拠の一つになる。跡地論争に関しては、もはや議論の余地はなくなった」と話している。 (金子寛昭)
2 西日本新聞 どこにあった?「天草コレジオ」の謎に決着か 論争60年超、英国に古文書
2020/2/9 6:00 (2020/2/10 13:51 更新)
西日本新聞 社会面
熊本県天草地方に1591~97年にあったとされるキリシタンの最高学府「天草コレジオ」の所在地について、現在の同県天草市河浦町にあったことを示す古文書が、英国の大英図書館に所蔵されていることが分かった。具体的な地名に言及した文書が確認されたのは初めて。天草コレジオの場所は、キリシタンへの迫害から逃れるために当時の宣教師の書簡にも残っておらず、市町合併で天草市になる前の旧河浦町と旧本渡市のどちらにあったか論争が続いていた。
古文書は、イエズス会のフランシスコ・ロドリゲス神父が書いた1601年9月30日付の同会年報。同会日本管区代表を務めた人物で、地元の郷土史家らでつくる天草キリシタン研究会(浜崎献作会長)が昨年11月、大英図書館所蔵の年報の存在を知り、東京大学史料編纂(へんさん)所から画像を入手。キリシタン史に詳しい慶応大の高瀬弘一郎名誉教授に解読を依頼した。
高瀬氏によると、年報にはラテン語で「天草の内のカワチノウラという地では彼らは慰められた。そこは迫害の時に、永年にわたりコレジオがひっそりと存在した地であった」(同氏訳)との記述があった。「カワチノウラ(河内浦)」は現在の河浦町を指す。
同時期の年報はイタリア・ローマのイエズス会文書館にもあり、これには天草コレジオに関する記述はないという。高瀬氏は「2冊の年報を子細に調べないと語ることはできない」とした上で「大英図書館の年報は、天草河内浦にかつてはコレジオが隠れて存在していたことを、重要な事実として言及している」と強調する。
東大史料編纂所の五野井隆史名誉教授は「大英図書館の年報の署名は、ロドリゲス神父本人のもの。イエズス会所蔵分は年報の書式体裁から逸脱しているので、書き改めたものかもしれない」と指摘。「(大英図書館所蔵の年報の)信頼性は高い」とみる。
地元の天草ではコレジオは本渡城下にあったとする説が主流だったが、郷土史家が1958年、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが書いた「日本史」などの記述から天草コレジオは河浦町にあったと主張、論争に火が付いた。しかし、具体的な地名を記した文書が見つかっておらず、長年の謎となっていた。
論争の経緯に詳しい天草市の郷土史家堀田善久さん(99)は「今後は、遺物発見による天草コレジオの実像解明に期待したい」と話した。(金子寛昭)
【天草コレジオ】キリシタンの最高学府。1591(天正19)年、長崎・加津佐から天草に移転。当時、天草地方を治めた豪族・天草氏が誘致したとされる。97(慶長2)年、長崎に移転した。天正遣欧少年使節が欧州から持ち帰った金属活字印刷機を使い、日本で初めて「イソップ物語」や「平家物語」が印刷された。これらは「天草本」と呼ばれた。
3 西日本新聞 「ありがとう」笑顔で逝く 天草コレジオ「河浦説」提唱の鶴田さん
2020/5/11 6:00
西日本新聞 熊本版
天草コレジオの所在地論争を提起したのは、一人の郷土史家だった。
4月に死去した熊本県天草市出身の鶴田倉造さん(享年97)。中学教諭だった1959年、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが記した「日本史」などを読み解き、「天草コレジオは旧河浦町にあった」とする説を発表。歴史家を二分する論争に発展した。
【関連】「天草コレジオ」河浦に イエズス会の古書に記述 60年の論争決着へ
鶴田さんらが「河浦説」を提唱するまで、現在の天草市の中心地である旧本渡市にコレジオがあったとする説が有力視されていた。関係者によると、鶴田さんは、「日本史」などで天草地方を治めた豪族天草氏の「首都天草」の場所が「河内浦」と書かれていることから、本渡説に疑問を持ち、河浦説を発表したという。鶴田さんの知人は「本渡説の人とお互い一歩も譲らず、口角泡を飛ばして議論していた」と当時を振り返る。
高齢の鶴田さんは熊本市内の病院に入院していたが、4月22日に亡くなった。家族によると、大英図書館で見つかった河浦説を裏付ける史料を握りしめて、かすかな声で「ありがとう…」と笑顔で語ったという。家族は「父が生涯をかけた長い論争がやっと終わった。最高の宝物を最後にプレゼントしてもらった」と声を詰まらせた。
高瀬弘一郎・慶応義塾大名誉教授は「尊敬申し上げる先生をまた一人失った」と惜しんだ。東大史料編纂所の五野井隆史名誉教授は「長年にわたって天草キリシタン史の研究を牽引(けんいん)されてきた鶴田先生の存在はたいへん貴重だった」と悼んだ。
4 オーストリア国立図書館に所蔵!河浦に天草コレジオ ... - YouTube
-www.youtube.com/watch?v=PnGtqrGXOKw
オーストリア国立図書館に所蔵!河浦に天草コレジオ ... - YouTubeの画像
今年2月にも同地にあったと書かれた古文書が英国の大英図書館で見つかっており、 天草コレジオは河浦にあっ ...
再生時間:9:33
投稿日:2020年4月19日
5 天草テレビ・amakusa.tv 天草コレジオはどこに?/60年以上も ...
-www.amakusa.tv/news_collegio2.html
グーテンベルク式の金属活字印刷機 (複製=河浦町「天草コレジョ館」), 天草コレジオ で印刷された「羅葡日対訳辞書」 ... の結果が出たが、製作年代が不明のため、イギリス の国立博物館でビクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)に鑑定を ...
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天草コレジオはどこに?
60年以上も論争 決定的な証拠見つからず
~天草キリシタンの謎シリーズ(1)
★最新情報 「天草コレジオは河浦に!/跡地論争に終止符か/大英図書館に場所を示す古文書」(2020/2/19)
ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が2019年11月23~26日にかけて来日した。さらに「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録され1周年を迎え、キリシタン文化や史跡が再び、脚光を浴びようとしている。天正遣欧少年使節は1585年に当時のローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。帰国後はキリスト教布教、聖職者養成の神学校で「天草コレジオ(学林)」で学んだ。
しかし、その跡地について60年以上も前から論争が続いている。邪馬台国所在地論争にも似て、天草市(熊本県)合併前には旧本渡市にあった、いや河浦町だ!と1958年から郷土史家を中心に論争を展開。市議会でも取り上げられ、市の政策にも影響するほど過熱した。天草のキリシタン史上、最大の謎で、避けては通れない問題となっている。合併後すでに13年。一体、どうなったのか、論争の行方を追った。
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コレジオはキリシタンの最高学府。1591(天正19)年、天草の地にできたコレジオでは天正遣欧少年使節らが持ち帰ったグーテンベルク式の金属活字印刷機が使われ、「羅葡日対訳辞書」や「平家物語」「イソップ物語」などの文学書や信心書など12種類が日本で初めて印刷された。
キリシタン研究の第一人者で慶応義塾大の高瀬弘一郎名誉教授が一昨年に上梓した「キリシタン時代のコレジオ」(八木書店)によると、ポルトガルなどヨーロッパ人に混じって日本人もラテン語(文法と古典学)や日本語の学文(文字と文書体)、哲学と神学の要綱などを学んだ。コレジオと修練院が同じ建物で教室、個室、共同部屋などがあり、さらに用務部屋には食糧倉庫、調理・食堂など、そして印刷所があった。創建時にはイエズス会士は司祭職のパードレ、それを補佐するイルマン合わせて約60人で、同宿、従僕などを入れると120人を超える規模だったという。(1)
しかし、天草のどこにあったかとなると謎で、本渡町の丸尾ヶ丘と河浦支所横の公園(旧河浦中学校校庭)には、それぞれ天草コレジオ跡を示す記念碑が建てられている。これまで本渡城下やその周辺にあったとするの説に対し、1958年に故今村義孝秋田大学元名誉教授や郷土史家の鶴田倉造さん(97)がルイス・フロイスの「日本史」などから当時、宣教師たちが指す「首都天草」は本渡ではなく、河内浦(河浦)だった。そこに天草久種(洗礼名=ドン・ジョアン)が誘致したとする河浦説を提唱した。「日本史」の翻訳をした故松田毅一京都外国語大学元名誉教授も同調。中央の学者も巻き込み、論争を展開した。(2)
85年には本渡町本戸馬場の河内山ため池から十字架を刻んだ石碑が見つかり、天草郷土資料館の故錦戸宏元館長がコレジオ跡地ではないかと新聞に発表。故錦戸元館長は「天草郡資料」の天草家乗誌第4号知行目録類の本砥(本渡)百姓中にあてた小西行長花押の書簡に「天草殿(現河内浦城主)を本砥(本渡)の代官にしたからその下知に従え」とある。さらに日本イエズス会第2回総協議会で「天草の全諸島の中央に位置する本渡の城下に本拠を置く」との決定事項から、小西行長の家臣団に組み込まれた後は河浦から本渡に中心が移り、コレジオができたのではないかと主張した。
その後、故錦戸元館長は95年、地元紙に「本渡説の消えない理由として、河浦説の最大の泣き所は地形で、あそこはほとんど湿地帯ばかりで、壮大な学林を入れるスペースがない。それを支える米や松材など産業も不足している」と指摘した。(3)
また、天草郷土資料館所蔵の「コレジオの鐘」については東向寺からの出土品ではないこと、さらに19世紀に製作されたものだとして、後に否定している。(補足)
そして論争はついに市議会にまで発展。本渡市議会の93年6月定例会の議事録を見ると、質問に立った金子悟郎市議(当時)は91年に発行された「本渡市史」に「学林(コレジオ)は河内浦にあったと断定している。断定の根拠は、調査をしたところどうしても納得できない」と発言。さらに市総合計画の第2期基本計画ではコレジオの里建設計画があったのに、第3期計画で消滅していることを指摘。「この計画を捨て去ったのは、一部学者の河浦説による変更ではないのか。重大な損失である」と追及した。
これに対し、久々山義人市長(当時)は「学説が2つある中で断定をした記述を載せたことは、非常に手落ちだった。当然2つ載せるべきだった。解明していただき、本渡説が確立できるよう、努力をお願いしたい」と答えた。
コレジオの里建設計画は殉教公園が手狭で十字架を刻んだ石碑が発見された西の久保地区のテーマパークをメインにし、キリシタン館、殉教公園をサブにし12億7千700万円かけて整備しようという計画だったが結局、普通の「西の久保公園」になてしまった。また発見された十字架が刻まれた石碑は、河浦説を支持する郷土史家などの反対で展示もされず、市本渡歴史民俗資料館の収蔵庫の外に放置されたままになっている。(4)
一方、河浦説も候補地だった中学校校庭は洪水被害が頻繁に起こり、ここは不適だと撤回。鶴田さんと市文化財保護審議会の川崎富人元会長(82)は町中心部にある安養寺(真宗)ではないかと推定。「90年、再建のため境内を整地したところ、河内浦城から出土したものと同じ中世の土師器や青磁、白磁の破片などが出土した。残念ながらキリシタン遺物は出なかった」と川崎元会長はいう。
また墓地には島原・天草の乱後のものだが、キリシタン様式の墓碑と推定される1667(寛文7)年没と刻まれた青木源太夫の墓もあることから今後の調査に期待をよせる。市文化課学芸員は「キリシタンの考古学遺物は寺の改築や、開発などにより、偶然に発見されるケースがほとんど」だと話し、今のところ発掘調査の予定はないという。(5)
結局、本渡説の根拠とする小西の書状は、河浦説では久種は本渡に在地しなかった、またイエズス会第2回総協議会の決定事項もコレジオは除外されているし、本渡が天草の中心になる企画だったが、ドン・ジョアンが没落のために実現しなかったと反論。いや、その通り実行された!と両説ともに譲らず、文献の解釈をめぐり、水掛け論の様相だ。
これについて東大史料編纂所の五野井隆史名誉教授によると、シュッテ神父編纂の『MONUMENTA HISTORICA JAPONICA I TEXTUS CATALOGORUM JAPONIAE 1553- 1654, Roma, 1975』に、1592年11月とされる同宿数の名簿rolがあり、
Collegio de Maqusa 24 ( p,295 ), tres Residencias (三つのレジデンシア)ーSomotto, Conzura, Oyano(p.296 )の記事がある。また、1587年以降に破壊された教会については、
Residencia de Fomdo, com dezoito igrejas 本渡のレジデンシア、18教会(p.299)
とある。1590年(7月以降)の協議会で、本渡がカーザ・レジデンシアの統合地に決定されたが、天草一揆による破壊により変更された。またコレジオ誘致は天草氏の要請であったという。(6)
そこにこれを読めば反論するなにものもない、河浦説に決定される!という冊子「天草コレジョ」を長崎市の日本二十六聖人記念館の故結城了悟元館長が01年に発刊。それによると長崎にコレジオが移された4年後の1601年9月30日、その年の年報にフランシスコ・ロドリゲス神父が「天草では迫害の時、長い間コレジオがひっそりと置かれていた河内浦という町に、一人の神父が着いたある日、、、(後略)」と書かれているという。
しかし原典の引用先にその記事は見つからず08年、結城元館長は亡くなる。本当に存在するのか、信用できる史料なのかと疑問の中、河浦説を支持する人たちもその原文を見ることなく"証拠不十分"のまま、現在に至る。(7)
ローマ・イエズス会文書館には当時、宣教師たちが日本から本国に宛てた数多くの書簡が残る。生涯をかけ、キリシタン史を研究してきた高瀬名誉教授に、天草コレジオは河内浦にあったと明記した原史料はあるのかと聞いてみた。「それは私は存じません。河内浦にあったか否かの問題はコレジオの天草移転に深く関わった天草殿ドン・ジョアンが、河内浦を本拠とする天草久種か否かの問題と結びついているのではないか。
1. 鶴田倉造「天草キリシタン史の一問題――天草殿ドン・ミゲル及びドン・ジョアンは誰か」(『キリシタン文化研究会会報』7-2,1963年10月)
2.鶴田倉造「天草学林河内浦説の提唱」(『天草学林 論考と資料集』天草文化出版社、1977年)
上記二編により、鶴田さんの河内浦説に賛同する」とし、「松田毅一氏も、『フロイス日本史』の註で、同じ趣旨を記しているまた、シュッテ神父も依拠する史料を明示してはいないようだがMonumenta Historica Japoniaeで、コレジオを河内浦に移した旨明記している」と答えた。
1936年に天草中学校(現天草高校)に赴任して以来、研究を続けた秋田大学の故今村義孝元名誉教授は著書「天草学林とその時代」の中で河浦を推定しているものの「併しながら、外国文献を裏付ける国内史料が余り稀少であることに、多くの誤りをおかしているのを恐れる」と最後に書き残した。前述の故結城元館長も同様で、「ひょっとすると私が間違いをしていて当時の未完の記録が別のことを知らせるかもしれない」と不安を隠せないまま、亡くなった。また故松田氏も著書「南蛮巡礼」の中でイエズス会文書館に残る宣教師の報告書には「河内浦とはっきり書かれており、近くその詳細がローマの研究所から公表されるという」と書いたが、52年過ぎた今でもその史料は出てこない。(8)
これまでの論争を見てきた"生き証人"の天草文化協会の堀田善久元会長(99)は「事実は一つしかない。一番納得のゆく学説が定説となるが、決して判決ではない。今後は遺物発見による実像の解明に期待を膨らませる」と語り、河浦説を支持する立場ながら「私も本渡地区の人間だから、本渡にあって欲しいと思うが、、、」と笑って話した。
1591年、長崎の加津佐から天草へ移転。そして再び長崎へ移って行く1597年までの6年間、本渡と河内浦の名は、迫害のため場所を隠蔽する必要からか、宣教師たちの書簡などから消える。また国内の古文書も、小西、天草両氏共に滅亡し、記録はほとんど残っていない。さらにキリシタンの迫害、島原・天草の乱の結果として関係資料は煙滅して研究をさらに困難なものにしている。研究者の多くが河浦説を支持し、いまのところ有利とはいえ、文献や考古学資料の決定的な証拠は未だ、示されていない。市文化課の学芸員は「公式見解は持っていない」と判断を避けている。
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旧本渡市と河浦町など2市8町が合併し2006年、天草市になった。論争はその後、どうなったのだろうか。
天草キリシタン館の緒方和雄元所長(70)は「この話はタブーになり、表立ってだれも話さなくなった。一部の研究者のみヒートアップして、一般市民の関心は低い」と指摘する。世界文化遺産の構成資産の一つ、崎津集落は登録後1年を経過して、集落を訪れる観光客数は前年対比の6割から8割程度と伸び悩む。市観光振興課職員は「天草が世界に誇れるのはキリシタンの遺産だ。貴重な観光資源に間違いない」と力説する。
また、「郷土史家の多くが亡くなり、熱心な研究家がいなくなった」と残念がるのはサンタマリア館の浜崎献作元館長(75)。本業は歯科医だが「天草の伝承キリシタンとオラショ」などの著書がある。また親子2代に渡り、民間資料館を経営した在野の研究者だ。コレジオの所在地以外にも、450年前に河浦でキリスト教の布教を始めたルイス・デ・アルメイダや領主、天草鎭尚の墓も不明のままだ。「天草氏の祈祷所跡や墓地推定地も木に覆われ、荒れ放題」と危機感を募らせる。このほど有志が集まり「天草キリシタン研究会」を立ち上げた。「きっとどこかに痕跡があるはず。謎だからおもしろい」と各地を巡り、情熱を傾けている。
pen記者備忘録
かつて司馬遼太郎が「街道をゆく」でキリシタンの遺品をのぞきながら「切支丹は、天草になにを遺したのだろう」と考え、「文化的残影がありはしないか」と思った。(9)
歴史の謎解きだけでは、関心を持つ人は、限られる。研究者も高齢化し、それに続く人も少ない。
430年ほど前に、天草にまぎれもなく存在したコレジオ。何でこんな辺ぴな所に、南蛮文化が花開いたのか?
専門家だけに任せず、自分たちの歴史を正しく理解し、次世代に伝えていかなければならないと思う。
(金子寛昭)
(2019/12/14)追記~2020/5/15。
(補足)(2020/4/4)
(続報)・「天草コレジオ(学林)」が河浦にあったとする学説を提唱した天草キリシタン史研究家で宇城市の鶴田倉造氏が2020年4月22日午前4時6分、老衰のため熊本市内の病院で死去した。享年97歳だった。
詳しく>>>
◎註:
(註1)高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年、218-368頁。慶応義塾大の高瀬弘一郎名誉教授 キリシタン史が専門。『キリシタン時代の研究』岩波書店(1977年)で日本学士院賞を受賞。
(註2)今村義孝「天草学林は河浦にあった、外国文献から推論」熊本日日新聞1958年12月3日より3回。
鶴田倉造「天草学林河内浦説の提唱」『熊本史学』第17号、1959年7月。
鶴田倉造「天草キリシタン史の問題-天草殿ドン・ミゲル及びドン・ジョアンは誰か」『キリシタン文化研究会報』第7年第2号、1963年10月。
郷土史家の鶴田倉造さん(97)天草市出身、元中学校教師。本渡市・宇土市・苓北町・不知火町等文化財保護委員など。『原史料で綴る天草島原の乱』など著書多数。
久種は相良家文書(1581年)に1回だけ登場するが、鎮尚(しげひさ=ドン・ミゲル)の花押とは違うため、家督を譲った子だとする説だ。
(註3)『天草郡資料』天草家乗誌第4号知行目録類の本砥(本渡)百姓中にあてた小西行長花押の書簡に「天草殿(現河内浦城主)を本砥(本渡)の代官にしたからその下知に従え」とある。737頁。
日本イエズス会第2回総協議会 「日本イエズス会第2回総協議会議事録と決裁」キリシタン文化研究会『キリシタン研究』第16輯、吉川弘文館、1976年、283頁。
天草毎日新聞「池の底から十字架の標識出現!天草学林跡かコレジョ本渡説浮上」1985年12月25日。
毎日新聞「コレジオ跡地論争に終止符?十字架刻んだ石碑本渡で発見」1986年1月3日。
読売新聞「歴史ロマン探る現地調査 十字架刻んだ石」1986年2月5日。
錦戸宏「天草学林と小西行長 本渡説の消えない理由」天草毎日新聞1995年1月1日。
天草郷土資料館の故錦戸宏元館長=天草毎日新聞元社長=天草のキリシタン史、天草の焼き物研究家。
(補足)
天草郷土資料館所蔵「コレジオの鐘」は東京国立文化財研究所の化学的分析で、鉛同位体比測定し、東アジア以外で作られたとの結果が出たが、製作年代が不明のため、イギリスの国立博物館でビクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)に鑑定を依頼したところ19世紀のもので、1840年~1860年に作られた青銅の鋳物であることが分かった。また後に、錦戸宏館長は鐘は古物商から購入したもので、東向寺(天草市本町)から出土したことを否定している。
(註4)市総合計画の第2期基本計画コレジオの里建設計画は1988年3月策定。観光レクリエーションの拠点都市として歴史的・風土的・文化的な独自性を高め、伝統的な文化スポーツ等レクレーションの場を整備し、島内はもとより広域かつ国際的な交流の場として施設の整備を図る計画。殉教公園が手狭で、十字架刻んだ石碑が発見された西の久保地区のテーマパークをメインにし、キリシタン館、殉教公園をサブにして整備しようという計画だったが結局、この計画は単なる普通の公園、現在の「西の久保公園」になってしまった。本渡市議会93年6月定例会議事録 121~134頁。
本渡市史編さん委員会『本渡市史』本渡市1991年。
金子悟郎元市議(78)獣医。2000年『天草学林』(天草民報社)を自費出版。
関連記事:「倉庫外に33年間放置したまま!/実は貴重な礼拝碑『カルワリオの十字架』/天草で初めて発見!史料的価値 高いと専門家」
(註5)川崎富人『川嵜家由緒書』イナガキ印刷、2001年、16頁。
安養寺(真宗)天草市河浦町河浦。
川崎富人、市文化財保護審議元会長。
キリシタン様式の墓碑と推定される1667(寛文7)年没と刻まれた青木源太夫の墓については、鶴田文史『天草の史跡文化遺産』天草文化出版社、1971年。63頁。
(註6)Schütte,MONUMENTA HISTORICA JAPONICA I TEXTUS CATALOGORUM JAPONIAE 1553- 1654, Roma, 1975
五野井隆史『島原の乱とキリシタン』吉川弘文館、2014年。146~147頁。
(註7)結城了悟『イエズス会宣教師の記録における 天草コレジョ』日本二十六聖人記念館、2001年6月29日発行。44頁に、「1601年9月30日、その年の年報にフランシスコ・ロドリゲス神父は疑問の余地がない言葉で次のように書いている『天草では迫害の時、長い間コレジオがひっそりと置かれていた河内浦という町に、一人の神父が着いたある日、志摩殿(寺沢志摩守)配下の役人が三人の信者を捕らえた。殿の命令に背いて森の木を伐採したので、彼らの首を切るように命令したところに、神父が未信者であった役人に、気の毒な信者のために取り次ぎを願って送ったメッセージだけで直ちに許された。』」とあり、原文の出典先は48頁にBritish Museum,Add.Mss.9857と記述されているが、そこに同文はない。他の研究者から、出典先が誤っていると指摘されている。原文を示して欲しいと言われて「友人から資料提供を受けた。その友人が亡くなり、連絡が取れないから」できないと関係者に言っていたというから、結城氏自身、この原文を見ていなかったのではないか、と推測される。
(8)今村義孝『天草学林とその時代』天草文化出版社、1990年、280頁。秋田大学元名誉教授。
結城了悟『天草コレジョ』日本二十六聖人記念館(長崎市)2001年、46頁。
松田毅一「南蛮巡礼」朝日新聞社、1967年、85頁。
(註9)司馬遼太郎『街道をゆく』17、天草・島原の諸道、朝日新聞社、1987年、187頁。
◎協力:
慶應義塾大 高瀬弘一郎名誉教授 『キリシタン時代の研究』(岩波書店)、『キリシタン時代のコレジオ』(八木書店)など多くの著書がある。
天草市河浦町「天草コレジョ館」0969(76)0388
◎関連記事:
○「天草コレジオはどこにあった?」八木書店公式サイト(2020/4/22)
○天草テレビ「鶴田倉造氏が死去 天草コレジオ河内浦説を提唱」(2020/4/22)
○天草テレビ「新史料再び発見!オーストリア国立図書館に所蔵!河浦に天草コレジオ」(2020/4/20)
○天草テレビ「天草コレジオは河浦に!/跡地論争に終止符か/大英図書館に場所を示す古文書」(2020/2/19)
○西日本新聞 「天草コレジオ謎のまま?跡地の所在 かつて大論争 合併で下火 郷土史家危機感」(2019年12月14日朝刊)
○「倉庫外に33年間放置したまま!/実は貴重な礼拝碑「カルワリオの十字架」/天草で初めて発見!史料的価値 高いと専門家」
○「新説を提唱!謎のキリシタン墓碑/新説を提唱!謎のキリシタン墓碑/イエズス会士のロペス神父か?」
○西日本新聞 「十字架刻む石碑 33年放置 天草市のため池から発見」(2019年12月7日朝刊)
○西日本新聞 「イエズス会神父埋葬か 地元の研究家が新説」(2019年12月3日朝刊)
○「白熱する論争の行方」天草テレビオピニオン(2002年1月)
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コレジオ Wikipedia
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1 コレジオ - Wikipedia
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天草でのコレジオの位置については、本渡、河浦など諸説あり、論争が続いてきた。 ... 迫害で失われたもの、その移動についての一覧の中に「肥後国、河内浦」には「コレジオ 」があったと書かれている。
コレジオ
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コレジオ(ポルトガル語: collegio、学林)は、聖職者育成のための神学校(最高学府)である。コレジヨともいう。狭義では、イエズス会によって1581年(天正9年)に豊後国府内(現大分県大分市)に設置されたものを指す。その施設は島原の加津佐(現長崎県南島原市)を経て、熊本の天草(現熊本県天草市)、その後長崎に移転した。
現在は、旧長崎大司教館に設けられたカトリック長崎大司教区が運営する司祭を目指す神学生の寄宿学習施設「長崎コレジオ」として名を残している。
目次 [非表示]
1 概要 1.1 府内・加津佐コレジオ
1.2 天草コレジオ
2 天草コレジオ跡地論争について・研究史
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
概要[編集]
天正遣欧少年使節の来訪を伝える印刷物、1586年(京都大学図書館蔵)伊東は右上、中浦は右下、千々石は左上、原は左下
府内・加津佐コレジオ[編集]
1579年に巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、当時の日本地区の責任者であったフランシスコ・カブラルの方針を改めて、日本人聖職者育成のため各地に教育施設の設置を進めた。府内のコレジオは、1580年(天正8年)に有馬(現長崎県南島原市)と安土(現滋賀県近江八幡市安土町)に設立されたセミナリヨ、同年に臼杵(現大分県臼杵市)に設立されたノビシャド(修練院のこと)とともに、その一環として設けられたものである。
当時、府内はキリスト教の有力な庇護者であった大友義鎮(大友宗麟)の本拠地であり(ただし、宗麟は1576年(天正4年)に家督を息子の大友義統に譲り、臼杵の丹生島城に居を移して二元統治を行っている)、日本におけるキリスト教布教の拠点として、宣教師が滞在し、数多くの信者を抱えていた。
府内に開設されたコレジオでは、聖職者育成と一般教養の両方の教育が行われ、キリシタンに改宗した士族や宣教師を志す日本人・外国人に対して、キリスト教、ラテン語、音楽、数学などの講義が行われた。また、養方軒パウロなどにより外国人宣教師のための日本語の講義も行われたという。ポルトガル王国出身の宣教師・通訳で、日本に関する重要な著作を遺したジョアン・ロドリゲスは、臼杵のノビシャドを経て、府内のコレジオで学んだとされる。
しかし、府内は1586年(天正14年)に島津家久による焼き討ちに遭い、壊滅(豊薩合戦)。コレジオは、その後、1590年(天正18年)に島原の加津佐に移った。加津佐では日本初となる活版印刷機(グーテンベルク印刷機)を導入。以降、コレジオではキリシタン版の出版が行われた。
天草コレジオ[編集]
コレジオは1591年5月、さらに奥まったところに潜伏するために、加津佐から天草に移動した。この時の移動には、有力キリスト教徒領主等の勧めがあった。折からインディア副王への秀吉の返書を、少しでも教会に対して穏やかな内容に修正してもらう交渉をしていた最中であった。[1]「天草国人一揆(天正の天草合戦)」(1589年)で小西行長と加藤清正の連合軍に敗れた天草久種が、講和し、小西の家臣団に組み込まれた後、領地を安堵された。[2]天草コレジオは、天草氏が提供した家屋とイエズス会が所有していたカザを基に作られ、大村の修練院も同地に移された。[3]
コレジオが天草にあったのは1597年(慶長2年)9月または10月まで存在した。[4]天正遣欧少年使節の伊東マンシオ、原マルティニョ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルなどもそこで勉強した。
グーテンベルク式の金属活字印刷機で羅葡日対訳辞書や『平家物語』、『エソポのファブラス』(『イソップ物語』)、など文学書や信心書など12種類が刊行された。[5]その内、『平家物語』(ブリティッシュ・ミュージアム蔵)は序文の「読誦(どくしょう)の人に対して書す」から作者はイルマン・不干・ハビアン(ファビアン)[6]とされる。口語の対話体に編集され、一つの異本とされる。外国人宣教師などに、日本の歴史や日本語を習得させるために作成されたものという。[7]
天草コレジオの院長(レイトル)はカステリア人のパードレ・フランシスコ・カルデロン[8]そして1596年には副院長だったポルトガル人でパードレ・ディオゴ・デ・メスキタ[9]が就任した。1591年10月6日時点で、天草コレジオ居住者はパードレ・イルマン合わせて約60人。同宿・従僕合わせて60人以上で、合計120人を超える規模だった。(修練院所属の修練者も含まれる。)コレジオと修練院が同じ建物で教室、個室、共同部屋などがあった。また、用務部屋には食糧倉庫、調理・食堂などがあり、そして印刷所があった。[10]
教育内容はラテン語(含古典学)や良心問題、「要綱」(ラテン語の原文または主要部分の邦訳書)、日本語の学文(文字と文書体、日本の書籍)などを学んだ。[11]。
サン・フェリペ号事件を契機に始まった迫害への対策で、1597年(慶長2年)10月頃、天草コレジオを取り壊して、印刷機と共に長崎(トドス・オス・サントス)に移動した。[12]。
天草コレジオ跡地論争について・研究史[編集]
天草でのコレジオの位置については、本渡、河浦など諸説あり、論争が続いてきた。[13]
天草伊豆守種元の本戸(本渡)城下やその周辺にあったとするこれまでの説に対し、1958年に今村義孝氏が新聞に、また鶴田倉造氏が熊本史学に「天草学林河内浦説の提唱」を発表し、論争に火がついた。[14]それによるとルイス・フロイスの『日本史』など外国文献から当時、宣教師たちが指す天草は本渡ではなく、河内浦(河浦)であって「天草コレジオ」は河内浦に天草久種(ドン・ジョアン)が誘致したとする説だ。
1985年には本渡町本戸馬場の河内山ため池から十字架を刻んだ石碑が見つかる。天草郷土資料館の錦戸宏館長がコレジオ跡地ではないかと新聞に発表した。[15]錦戸館長によると、 (1)『天草郡資料』の天草家乗誌第4号知行目録類の本砥(本渡)百姓中にあてた小西行長花押の書簡に「天草殿(現河内浦城主)を本砥(本渡)の代官にしたからその下知に従え」とある。[16] (2)1590年の日本イエズス会第2回総協議会で「天草の全諸島の中央に位置する本渡の城下に本拠を置く」との決定事項がある。[17] このことから、天草久種は小西行長の家臣団に組み込まれた後、河浦から本渡に中心が移り、本渡にコレジオができたのではないかと主張した。
河浦説の候補地だった中学校校庭は洪水被害が頻繁に起こり、ここは不適だと撤回。その後、河内浦古城山の天満宮境内[18]や一町田の安養寺(真宗)ではないかと推定。安養寺は1990年、寺社再建のため境内を整地したところ、河内浦城から出土したものと同じ中世の土師器や青磁、白磁の破片などが出土したが、キリシタン遺物は出なかった。[19]また墓地に島原・天草の乱後のものだが1667(寛文7)年没と刻まれたキリシタン様式の墓碑と推定される青木源太夫の墓もある。[20]
一方、本渡説の候補地は、本渡町の丸尾ヶ丘[21]や本渡町本戸馬場の河内山ため池付近(西の久保公園)[22]、本町の東向寺(曹洞宗)などがある。東向寺出土とされていた天草郷土資料館旧蔵「コレジオの鐘」は同館の調査によると、東京国立文化財研究所の化学的分析で、鉛同位体比測定し、東アジア以外で作られたとの結果が出たが、製作年代が不明のため、イギリスの国立博物館でビクトリア&アルバート博物館に鑑定を依頼したところ19世紀のもので、1840年~1860年に作られた青銅の鋳物であり、天草コレジオとは一切、関係がないことが分かった。後に錦戸氏も東向寺出土を否定している。[23]
本渡町の丸尾ヶ丘と河浦支所横の公園(旧河浦中学校校庭)には、それぞれ天草コレジオ跡をうたう記念碑が建てられているが、天草市は「コレジオはここ、という公式見解は持っていない」との立場だ。[24]
しかし、2001年6月、長崎市にある日本二十六聖人記念館の結城了悟元館長が発行した冊子『天草コレジョ』に、フランシスコ・ロドリゲス神父[25]の記事の訳文を示し、河浦(河内浦)にコレジオがあったとして「疑問の余地がない」と発表。しかし出典先に記事はなく、原文の公開を求めても「史料を提供してくれた友人が亡くなり、連絡が取れない」との理由で、史料は公開されないまま2008年、結城氏は亡くなる。[26]
その11年後、地元の研究家らで作る天草キリシタン研究会(浜崎献作会長)が2019年11月から調査したところ、その古文書は大英図書館(英国)に所蔵されていることを突き止めた。[27]写真を入手し、慶應義塾大学の高瀬弘一郎名誉教授に解読を依頼。2020年2月9日、西日本新聞に発表した。同氏の訳によると「天草の内のカワチノウラ(河内浦)という地では彼らは慰められた。そこは迫害の時に、永年にわたりコレジオがひっそりと存在した地であった。」と書かれている。所在地について現在の熊本県天草市河浦にあったことを示す史料で、具体的な地名について言及した文書の原本が確認されたのは初めてとなる。[28]
さらに同会は翌3月にオーストリアのウイーンにあるオーストリア国立図書館で新史料を発見。2020年4月20日、天草テレビで、さらに5月11日に西日本新聞で発表した。この史料はイエズス会宣教師のルイス・ピニェイロが1617年にスペインのマドリッドで出版したスペイン語の書物「われわれの聖信仰が日本諸王国において得た成果の報告」。巻末にはイエズス会のパードレたちが日本に所有していたカザ(修院)、レジデンシア(駐在所)、および迫害で失われたもの、その移動についての一覧の中に「肥後国、河内浦」には「コレジオ」があったと書かれている。 一方、本渡は栖本、久玉、大矢野と同様にレジデンシアがあったことが書かれており、本渡にコレジオがあったとは書かれていない。[29]高瀬弘一郎名誉教授は「天草コレジオが河内浦に所在した証拠の一つになる。跡地論争に関してはもはや議論の余地はない」とした。フランシスコ・ロドリゲス神父の『1601年度イエズス会年報』とルイス・ピニェイロの著書この2つの史料は河浦説を決定づけ、60年以上続いた跡地論争に終止符を打った。[30]
また、1959年7月『熊本史学』に「天草学林河内浦説の提唱」を発表した天草キリシタン史研究家で熊本県宇城市の鶴田倉造氏が2020年4月22日午前4時6分、老衰のため熊本市内の病院で死去した。享年97歳だった。天草テレビは「面会した家族が証拠発見の知らせを伝えると、指でピースサインをした後『ありがとう・・』と微かな声で喜びを伝えた。そして2つ目の証拠が発見されたことを伝える天草テレビの番組が公開された2日後、結果を見届けたように息を引き取った。」と伝えている。[31]
今後はこれを裏付ける国内史料や考古学の遺物や遺跡発見が課題となる。
脚注[編集]
1.^ 高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 353頁。
2.^ 『天草郡資料』天草家乗誌第4号知行目録類の本砥(本渡)百姓中にあてた小西行長花押の書簡に「天草殿(現河内浦城主)を本砥(本渡)の代官にしたからその下知に従え」とある。737頁。
3.^ 高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 218-368頁。
4.^ 高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 218-368頁。
5.^ 公教要理〜1、信心書〜6、文学〜3、語学書〜2。この内国字、国文のもので現存は1。今村義孝『天草学林とその時代』天草文化出版社、1990年。131~157頁。
6.^ Ir.Unguio Fabiam,Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes,1549-1654,p.290. イルマン・うんぎょ・ハビアンIr.Unguio Fabiam 日本人、ラテン語を少し理解する。教師、日本語を教えている。高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 228頁。
7.^ 今村義孝『天草学林とその時代』天草文化出版社、1990年。141頁。
8.^ P.Francisco Calderón,Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes,1549-1654,p.288.
9.^ P.Diogo de Misquita,Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes,1549-1654,p288. 1596年2月15日付け長崎発、ディオゴ・デ・メスキタのイエズス会総長宛書簡に、「私に関しては、現在セミナリオの聖務にあるパードレ・フランシスコ・カルデロンに代わって、このコレジオのすべての事柄が私に任されていることに対して(後略)」高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 321頁
10.^ 高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 218-368頁
11.^ 高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 218-368頁
12.^ 高瀬弘一郎「天草コレジオの活動」『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年 354頁
13.^ 鶴田文史 編集『天草学林 論考と資料集』天草文化出版社、1977年10月1日発行。西日本新聞 「天草コレジオ謎のまま?跡地の所在 かつて大論争 合併で下火 郷土史家危機感」(2019年12月14日朝刊、18日夕刊)天草テレビ ウェブサイト「天草コレジオはどこに? 60年以上も論争 決定的な証拠見つからず」
14.^ 「天草学林は河浦にあった、外国文献から推論」熊本日日新聞1958年12月3日より3回。鶴田倉造「天草学林河内浦説の提唱」『熊本史学』第17号、1959年7月。鶴田倉造「天草キリシタン史の問題-天草殿ドン・ミゲル及びドン・ジョアンは誰か」『キリシタン文化研究会報』第7年第2号、1963年10月。
15.^ 天草毎日新聞「池の底から十字架の標識出現!天草学林跡かコレジョ本渡説浮上」1985年12月25日。毎日新聞「コレジオ跡地論争に終止符?十字架刻んだ石碑本渡で発見」1986年1月3日。読売新聞「歴史ロマン探る現地調査 十字架刻んだ石」1986年2月5日。
16.^ 『天草郡資料』天草家乗誌第4号知行目録類の本砥(本渡)百姓中にあてた小西行長花押の書簡に「天草殿(現河内浦城主)を本砥(本渡)の代官にしたからその下知に従え」とある。737頁。
17.^ 日本イエズス会第2回総協議会 「日本イエズス会第2回総協議会議事録と決裁」キリシタン文化研究会『キリシタン研究』第16輯、吉川弘文館、1976年、283頁。
18.^ 鶴田文史「天草学林所在地論の真実」『河浦町郷土史第7輯』河浦町教育委員会、1995年、78〜81頁。
19.^ 川崎富人『川嵜家由緒書』イナガキ印刷、2001年、16頁。
20.^ 鶴田文史『天草の史跡文化遺産』天草文化出版社、1971年。63頁。
21.^ 梅住栄太郎「天草学林史蹟参考地 丸尾ヶ丘に就いて」鶴田文史 編集『天草学林 論考と資料集』天草文化出版社、1977年。17〜24頁。
22.^ 天草毎日新聞「池の底から十字架の標識出現!天草学林跡かコレジョ本渡説浮上」1985年12月25日。毎日新聞「コレジオ跡地論争に終止符?十字架刻んだ石碑本渡で発見」1986年1月3日。読売新聞「歴史ロマン探る現地調査 十字架刻んだ石」1986年2月5日。錦戸宏「天草学林と小西行長 本渡説の消えない理由」天草毎日新聞1995年1月1日。
23.^ 金子悟郎『天草学林』天草民報社、2001年。天草テレビ ウェブサイト「ニュース&トピックス 天草郷土資料館所蔵『コレジオの鐘』について」(Anthony North,Victoria and Albert Museum,3 August 1998.)
24.^ 西日本新聞 「天草コレジオ謎のまま?跡地の所在 かつて大論争 合併で下火 郷土史家危機感」(2019年12月14日朝刊、18日夕刊)
25.^ ロドリゲス神父は1560年、ポルトガルに生まれ、イエズス会に入り司祭として88年に来日。翌年、現在の長崎県大村市や92年、南島原市の八良尾にあったセミナリオで布教し、1603年に日本管区の代表としてローマに派遣された。P.Francisco Rodrigues S.J.,c.1560-1606 Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes, 1549-1654 pp.293,1283,414-415。 キリシタン文化研究会『キリシタン研究』第24輯 1984年 チースリク「マトス神父回想録」(40)86頁。
26.^ 結城了悟『イエズス会宣教師の記録における 天草コレジョ』日本二十六聖人記念館、2001年6月29日発行。44頁に、「天草では迫害の時、長い間コレジオがひっそりと置かれていた河内浦という町に、(後略)」この原文の出典先として48頁に、「British Museum,Add.Mss.9857」と記述されているが、そこに同文はない。
27.^ フランシスコ・ロドリゲス神父の『1601年度イエズス会年報』1601年9月30日付の古文書に書かれている。しかし、結城了悟『イエズス会宣教師の記録における 天草コレジョ』日本二十六聖人記念館、2001年6月29日発行、48頁の出典先は誤りで、また大英博物館(British Museum)ではなく、大英図書館(British Library)が所蔵している。
28.^ 西日本新聞 「天草コレジオ 謎に光 河浦示す古文書 英国に キリシタン最高学府所在地論争60年超」(2020年2月9日朝刊 社会面)天草テレビ ウェブサイト「天草コレジオは河浦に!跡地論争に終止符か 大英図書館に場所を示す古文書」(2020年2月19日)
29.^ スペイン語で出版された後、翌年にフランス語版がパリで出版され、オーストリア国立図書館のほかフランスのリヨン市立図書館などが所蔵している。天草テレビ ウェブサイト「新史料再び発見!オーストリア国立図書館に所蔵/河浦に天草コレジオ」(2020年2月20日)
30.^ 天草テレビ ウェブサイト「新史料再び発見!オーストリア国立図書館に所蔵/河浦に天草コレジオ」(2020年2月20日)西日本新聞「『河浦にコレジオ』新資料 天草の研究会 再び確認 イエズス会の古書に記述」(2020年5月11日朝刊・熊本県版)、朝日新聞「天草コレジオ『肥後国、河内浦に』 現在の河浦町 郷土史家らの論争幕 17世紀イエズス会の史料に記述 天草キリシタン研究会調査」(2020年6月4日朝刊・熊本県版)
31.^ 天草テレビ ウェブサイト「鶴田倉造氏が死去 天草コレジオ河内浦説を提唱 関係者から惜しむ声」(2020年2月22日)西日本新聞 「河浦説提唱の鶴田さん『ありがとう』笑顔で逝く」(2020年5月11日朝刊)
参考文献[編集]
高瀬弘一郎『キリシタン時代のコレジオ』八木書店、2017年。
Schütte,Monumenta historica Japoniae I
今村義孝『天草学林とその時代』天草文化出版社、1990年。
鶴田文史 編集『天草学林 論考と資料集』天草文化出版社、1977年。
鶴田倉造「天草学林河内浦説の提唱」『熊本史学』、1958年。
『キリシタン文化研究会報』7-2、1963年。
『天草郡資料』天草家乗誌第4号知行目録類
キリシタン文化研究会『キリシタン研究』第16輯、吉川弘文館、1976年。
鶴田文史『河浦町郷土史第7輯』河浦町教育委員会、1995年。
川崎富人『川嵜家由緒書』イナガキ印刷、2001年。
鶴田文史『天草の史跡文化遺産』天草文化出版社、1971年。
関連項目[編集]
セミナリヨ
ノビシャド
熊本県の歴史
カレッジ - 語源が同じ(ラテン語のcollegium )言葉。
外部リンク[編集]
天草コレジヨ館 - 熊本県天草市河浦町にあり、グーテンベルク印刷機の複製、古い楽器、その他の資料がある。
カテゴリ: キリシタン
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