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1月17日「日曜日」午後4時5分 テレビ熊本ドキュメンタリードラマ 郷土の偉人シリーズ第28作 宇良田 唯 

2021-01-17 01:00:24 | 日記
# テレビ熊本ドキュメンタリードラマ 郷土の偉人シリーズ第28作 宇良田 唯   #  宇良田唯に光を 結婚式から逃走 
1 医者としての使命に燃えて 
テレビ熊本は、平成5年(1993年)から毎年、郷土熊本の偉人の生涯を取り上げたドキュメンタリードラマ形式による特別番組「郷土の偉人シリーズ」を制作し、11月3日の文化の日を中心に九州全域で放送しています。 
このシリーズは、偉人の出身自治体の顕彰事業として、地方自治体が企画立案し、弊社が制作放送するものです。令和2年度(2020年度)はシリーズ28作目を迎えます。  
今回は、1873年に熊本県牛深村(現在の天草市牛深町)に生まれ、日本人女性として初めて西洋医学博士の学位を取得した宇良田 唯(うらた ただ)にスポットをあてます。  
同じく熊本出身で「近代日本医学の父」として知られ、新千円札の肖像画にも検討されている、北里柴三郎に学んだ宇良田 唯。  
女性が活躍の場を広げる現代において、唯のその波乱万丈の生涯は、一つのロールモデルとも言えます。

2 建 立 の 趣 意 明治維新後日本南西端の孤島牛深に、日本女性として初めて異境の地ドイツにれ留学し辛苦をしのいでドイツの医学博士学位号「ドクトル・メディツィーネ」を取得した人がいました。 
その人は日本眼科女医界の先駆けとなった宇良田タダ女史です。現在の熊本県牛深市牛深町船津に父宇良田玄彰・母キシの二女として誕生したタダは女医として当時寒村に過ぎなかった牛深村の病める人々を物心両面から助けました。 
また、結婚後北里柴三郎先生の助言をうけて中国の天津に雄飛した夫妻は、総合病院「同仁病院」を創設して成功しました。病院での患者に対しては、国籍や貧富の差を嫌って平等に接し、往診料を払えなかった患者さんには布団の下にそっとお金を置く事もあったそうです。 
このような大らかな行為は、自由民権の活動家として薩摩藩重鎮、西郷隆盛や大久保利通・黒田清輝らと親交のあつた父の豪放な性格にも似て、名誉よりも人間として尊い職業を志したすぐれた人徳であります。このことは「熊本県近代文化功労者」として認証されました。 
明治の黎明期にこの様に秀でた女医を輩出したことは牛深市民の誇りありますので、その存在を顕彰するとともに碑を碑を建立してその功績を讃え、後世に伝えることになりました。なお、碑の建立は趣意に賛同された有志の方々の浄財により竣工したものであります。  
足  跡   
明治6年5月3日(1873)  天草郡牛深村2511番地(船津)に誕生  
13年10月  (1880)  潮東小学校(牛深小学校の前身)入学  
25年10月  (1892)  19歳 熊本薬学校(後の熊本大学薬学部)卒業・薬剤師となる  
29年10月頃 (1896)  私立医学校済生学舎入学(卒業生に世界的に著名な細菌学者野口英世・東京女子医大創立者 吉岡弥生など)  
 31年6月  (1898)  25歳 医術開業試験(後期)に及第(官報第4480号) 医者となる 私立伝染病研究所(後の北里研究所)にて、北里柴三郎、浜田玄達らに学ぶ  
 32年6月  (1899)  医籍登録(官報官報第4777号)・後に約2年近く牛深で開業  
35年9月  (1902)  「帝国独逸学会特別会員」となる  
36年1月10日 (1903)  29歳 ドイツのマールブルクへ横浜から出発  6月1日     父玄彰逝去(享年63)・翌年日露戦争勃発  
38年2月  (1905)  31歳 マールブルク大学学位号「ドクトル・メディツィーネ」授与さる 論文名「いわゆるクレーデ点眼液の効果に関する実験的研究」 帰国後、牛深にて開業・後に東京神田連雀町にて「宇良田眼科医院」を開業  
40年3月  (1907)  33歳 恩師北里柴三郎夫妻の媒酌で中村常三郎(島原出身の北里研究所薬剤師)と結婚し中村タダとなる。
夫と中国大陸に渡り、天津に総合病院「同仁病院」開業  
昭和7年5月3日(1932)  59歳 夫常三郎逝去・翌年帰国して牛深の生家近く(岡四のナナ薬局の所)にて眼科・産婦人科医院を開く  
9年    (1934)  再度上京し池上洗足町にて「中村眼科医院」を開業  11年6月18日(1936)  〝日本と中国が戦争にならないこと〟を願いながら午前4時肝臓ガンのため東京にて永眠・享年63歳  
10年7月  (1937)  盧溝橋事件起きる 追    記  遺書にはお世話になった方々へのお礼や夫常三郎に何もしてあげられなかった後悔・父への思いなど連綿と綴られている 分骨は牛深小学校近くの山頂に父玄彰とともに眠っている 《戸籍名はタゝ゛・歳は満年齢》 
平成18年3月5 注 原文を損なわない範囲で、編集しました。 宇良田タダに関する資料 「宇良田唯」吉川茂文 「苓州」2号 天草の自然と歴史を語る会発行 に収載 『天草海外発展史 下巻」』「南船北馬」 北野典夫 葦書房 「新・天草学」海外雄飛群像-女医・宇良田唯 熊本日日新聞社 『天草五十人衆』「宇良田タゝ゛」 天草学研究会 弦書房

3 医師・宇良田唯に光を 結婚式から逃走、独で博士号 天草・牛深出身 2018/2/26 16:48  西日本新聞   
天津で開業した同仁病院。左から3人目が唯(吉川茂文さん提供) 

「お許しくださいませ」-。
1通の置き手紙を残して結婚式場から出奔。私費で単身ドイツへ留学し、日本人女性として初めて医学博士の学位を取得した天草市牛深町出身の宇良田唯(うらたただ)(1873~1936)。その波瀾(はらん)万丈の生涯を顕彰し、生家に残る蔵を保存・活用しようという動きが始まっている。 
郷土史家・北野典夫氏の「天草海外発展史」によれば、唯は商いや唐貿易、新田開発を行い、富を築いた大店(おおだな)「萬屋(よろずや)」の7代目、玄彰の次女として生まれた。19歳の時、村の豪商の若旦那と縁談が持ち上がる。 三三九度が交わされ、盛大な宴が催されたが、いつの間にか花嫁の姿が消えていた。残された手紙には「私は花婿さんが嫌いで出奔するのではありません。よそに出て、もっともっと勉強したいのです」と書かれていた。 
熊本薬学校(現熊本大薬学部)で学んだ後、上京。私立伝染病研究所に入り、猛勉強を続けた。同窓には北里柴三郎(小国町出身)や野口英世などがいた。 1903年、ドイツのマールブルク大に留学する。専門は眼科だったが、医学部のあらゆる授業を受けた。翌年、良き理解者だった父が亡くなっても、涙をこらえて勉学に励む。留学期間を1年短縮して05年に博士号を得た。同大創設以来、初の女性取得者で、もちろん日本人女性初の快挙だった。帰国後、北里の紹介で伝染病研の薬剤師中村常三郎と結婚。新天地を中国に求め、天津に総合病院を設立した。
貧しい患者からは治療代を取らず、「医は仁術」の理想を実践。日本に引き揚げた後は東京に眼科を開設した。36年、病に倒れ帰らぬ人となった。 唯をそこまで突き動かしたものは何だったのか。約25年前、県近代文化功労者に唯を推薦し、今も研究を続ける吉川茂文さん(81)は「伝記もなく、日記も残っていない。恐らく父親の影響が大きかったのではないか」と推測する。 
幕末、西郷隆盛や大久保利通ら薩摩の志士が京都へ向かう途中、牛深で遊んだとされる。父・玄彰は彼らと交流が生まれ、後に自由民権運動の先駆者となる。そんな父譲りの唯は、勝ち気で頭脳明晰(めいせき)、豪放な性格の持ち主だった。 明治女医史を研究する三崎裕子元北里大特別研究員は「明治女性史、日本医学史上でも非常に高く評価されるべき人物の一人」と話す。 
吉川さんは「唯の生誕150年となる2023年に向け、往時をしのばせる萬屋の蔵を、偉業を顕彰する資料館や土産物店などとして活用できるようにして、歴史を後世に伝えていきたい」と話している。 
=2018/02/26付 西日本新聞朝刊=