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1 祝世界遺産! 潜伏キリシタン関連遺産が4度目の正直な訳--今後のあるべき姿
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2018年06月30日 19:15
祝世界遺産! 潜伏キリシタン関連遺産が4度目の正直な訳--今後のあるべき姿 1/2
●18年に及ぶ挑戦を経て--12の資産がもつ4つの時代
6月30日、バーレーン王国のマナーマで開催されている第42回世界遺産委員会で、日本から推薦された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県・熊本県)が世界遺産に登録された。日本では、2013年から6年連続、22件目の世界遺産誕生となる。また、長崎県と熊本県では2015年に世界遺産登録された「明治日本の産業革命遺産」に引き続き2件目の世界遺産となった。
そこで今回、新しく世界遺産登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の魅力と、世界遺産としての課題について、世界遺産アカデミー/世界遺産検定事務局の主任研究員である宮澤光さんに改めてうかがった。
○立ちはだかった3度の壁! 最後はイコモスと共に
――今回の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は世界遺産委員会が始まる前から登録が有力視されていましたが、実際の審議はどうだったのでしょうか。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、5月に諮問機関であるイコモスから「世界遺産にふさわしい」という評価である「登録」勧告が出ていました。その勧告の中で、特に構成資産を減らすような指示や遺産名の変更の提案などがなかったこともあり、世界遺産委員会の本会議では反対意見などが出ることもなく、無事に登録されました。私もWEBで見ていたのですが、イコモスから「登録」勧告が出されている場合、世界遺産委員会でそれが覆されることはまずないので、安心して会議を見ていることができました。
ただ今回の世界遺産登録は、長崎で教会群を世界遺産にしようという運動が立ち上がった時から考えると、長い長い道のりでした。こんなに苦労した世界遺産登録は、日本では他にないと思います。まさに「潜伏キリシタン」の苦しみを髣髴(ほうふつ)とさせるものでした。
――その世界遺産登録までの長い道のりについて、もう一度お聞かせください。
「長崎の教会群を世界遺産にしよう」という市民運動が始まったのは、「長崎の教会群を世界遺産にする会」が設立した2001年のことです。その後、2007年に世界遺産登録を目指す日本の遺産リストである「暫定リスト」に記載され、2012年に国からの推薦候補になるべく推薦書原案を文化庁に提出しますが、同じく推薦書原案を提出していた群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が国から推薦される遺産に選ばれてしまいました。これが一度目の挫折です。
長崎県は推薦書原案を修正し、2013年に再び文化庁に推薦します。この時は文化庁からの推薦を受けることができ、このまま国から推薦されるかと思われたのですが、国内での推薦ルールが変更され、内閣官房からも世界遺産に向けた推薦が可能となり、最終的には政治判断で内閣官房が推薦する「明治日本の産業革命遺産」が国から推薦されました。これが二度目の挫折です。
その後、三度目の正直でようやく2014年に日本からの推薦遺産に選ばれ、ユネスコに推薦書が提出されますが、2015年に行われたイコモスの現地調査を経て2016年1月に出された中間報告書で、「今のままでは世界遺産登録は難しい」という意見が出されてしまいます。それを受け、長崎県は推薦書を取り下げて推薦書の見直しを決断しました。これが三度目の挫折です。
そこから最短で世界遺産登録を目指すべく、イコモスとアドバイザー契約を結び、2017年に日本からの推薦遺産として推薦書がユネスコに提出され、今回ようやく世界遺産登録をなったわけです。こうして話しているだけでも長いですよね。地元の方々も、本当に待ちに待った世界遺産登録だったと思います。
○日本独自のキリスト教信仰の姿
――「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」とはどのような遺産なのでしょうか。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、「潜伏キリシタン」という名前が示すように、江戸時代初期にキリスト教信仰が禁止されてから明治時代初期に信仰の自由が認められキリスト教の教会堂が築かれるまでの約250年間、幕府の弾圧を逃れながら密かに信仰を続けた人々(潜伏キリシタン)の「信仰の姿」を証明する遺産です。
長崎県と熊本県に点在する12の資産は、大きく4つの時代に分けられます。ひとつ目は「始まり」。16世紀にキリスト教が日本に伝えられ人々の間に浸透していく一方、豊臣秀吉や徳川幕府によってキリスト教信仰が禁止され、キリシタン達が禁教の下でも信仰を続けることを決意する時代です。この時代を証明するのが天草四郎を総大将とするキリシタン達が幕府軍と戦った島原・天草一揆の舞台「原城跡」です。今は本丸の跡地に建物などは残っていませんが、発掘調査では多くの骨や十字架などが見つかっており、戦いの激しさを垣間見ることができます。
ふたつ目は「形成」。潜伏キリシタン達が神道の信者や仏教徒などを装いながら、密かにキリスト教信仰を続ける方法を作り上げていった時代です。この時代を証明するのは、山や島をキリスト教の聖地として信仰した「平戸の聖地と集落」や、漁村特有の姿でアワビ貝の模様を聖母マリアに見立てて信仰した「天草の崎津集落」、神道の信者や仏教徒を装い信仰を続けた「外海の大野集落」などです。
3つ目は「維持、拡大」。潜伏キリシタンの信仰を続けるために、外海地域からより信仰を隠すことができる五島列島の島々に移住していった時代です。この時代を証明するのは、病人の療養地であった「頭ヶ島の集落」や、神道の聖地であった「野崎島の集落跡」などです。病人の療養地は人があまり訪れない場所であり、神道の聖地にいるのは神道の信者であると見なされるので、潜伏キリシタン達にとって信仰を隠しやすかったと考えられます。
最後が「変容、終わり」。約200年ぶりにキリスト教の信仰を公に告白し世界中を驚かせた「信徒発見」から、教会堂が築かれていく時代です。この時代を証明するのが、この世界遺産のシンボルともいえる国宝の「大浦天主堂」です。浦上地区の潜伏キリシタンたちが大浦天主堂を訪れ信仰を告白した「信徒発見」は、奇跡としてローマ教皇にも伝えられました。その後、潜伏キリシタンたちは、カトリックに復帰する者や仏教や神道を信仰する者、禁教期の信仰を続ける者(かくれキリシタン)などへと分かれていきました。
こうしてみると、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12資産で、日本独自のキリスト教信仰の姿というものがはっきりと見えてくると思います。
――今のお話の中で、せっかく禁教が解かれキリスト教の信仰が許されるようになったのに、なぜ仏教や神道を信仰するように改宗した人がいたのでしょうか。
2ページ
これはとても複雑なのですが、長い間、潜伏キリシタンとして地域の中で生活していくうちに、純粋なキリスト教信者としていることはやはり難しく、地域の神社の氏子であったり、お寺の檀家であったりという、地域の中での役割を担ってきたため、自然と仏教や神道の信仰を選んだということがあったようです。
また、カトリックに復帰せず禁教期の信仰をつづけることを選んだ人々は「かくれキリシタン」と呼ばれ、カトリックに復帰した人々のように教会堂を作らなかったため、彼らの集落には教会堂がありません。今回の構成資産では「平戸の聖地と集落」の中の「春日集落と安満岳」と「中江ノ島」だけが、「かくれキリシタン」の信仰を証明するものとなっていますが、平戸以外にももちろん「かくれキリシタン」の人々はいました。
――「かくれキリシタン」の方々はまだいらっしゃるのでしょうか。
「かくれキリシタン」であると公言している方はいらっしゃいますが、かなり人数が減ってきているようです。また、「かくれキリシタン」であることを公表していない方々もいるため、どれほどの人数が「かくれキリシタン」であるのか、はっきりとした数は分かりません。
○登録後に勃発する観光対策
――「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の今後の課題はどんなことでしょうか。
課題はいくつかあると思いますが、最も懸念されているのが人口減少の問題です。離島では特に高齢化と人口減少が続いており、遺産を今後どのように受け継いでいくのか、その将来性が不安視されています。これは元々、潜伏キリシタンたちが隠れて暮らした場所が、人が住みにくい人が訪れにくい場所であったこととも関係しています。日本全体で地方の過疎化が問題視されている中、世界遺産登録されたからといってこの問題が劇的に改善されるわけではありません。
また、世界遺産登録されたことによって観光客が多く訪れることになると思いますが、そうした観光客の対応も人口減少している集落では難しいと思います。実際に、今後の観光客の数や質のコントロールということは、イコモスからも指摘されています。
「出津教会堂」は2011年、国の重要文化財にも指定されている マイナビニュース
一方で、各自治体や教会は「教会守(きょうかいもり)」をおいて、世界遺産長崎チャーチトラストと協力しながら観光客への対応を行っています。これは、世界遺産登録を目指す長い道のりの中で整えられていったものです。多くの世界遺産では、世界遺産登録後にようやくこうした観光客対策などを悩んでいるので、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が長い時間をかけたのも無駄ではなかったと私は思います。
みなさんも教会を訪れる時には、世界遺産長崎チャーチトラストの運営する「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター」のHPから申し込みをしてから訪問してください。この世界遺産は、現在も信仰の場として生きている遺産ですので、観光客の側にも充分な配慮が必要です。
――最後に、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と共に世界遺産登録を目指していた「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」(鹿児島県、沖縄県)は、今後どうなるのでしょうか。
「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」は、日本から5件目の自然遺産としての登録を目指していましたが、5月のIUCNからの勧告で「今のままでは登録が難しい」とする「登録延期」勧告が出されてしまったため、政府は推薦書を取り下げました。そのまま世界遺産委員会に臨んで、世界遺産としての価値がないとする「不登録」決議が出てしまうと、同じ価値では2度と世界遺産を目指すことができなくなってしまうため、苦渋の決断でした。
IUCNの勧告の中でいくつか指摘があったのですが、特に「資産が分断されている」という点が問題視されました。沖縄島北部エリアに隣接し、「やんばるの森」の一部を成す米軍北部訓練場の返還地が含まれていなかったことが大きかったため、政府は2018年夏には返還地も国立公園に含め、再度世界遺産登録を目指すとしています。
最短で、2020年の世界遺産登録を目指していますので、今後は同じく2020年の登録を目指す「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」(北海道、青森県、秋田県、岩手県)や「金を中心とする佐渡鉱山の遺跡群」(新潟県)との争いになります。一国から推薦できる遺産は文化遺産と自然遺産を合わせて1件のみなので、厳しい争いになることは避けられません。2019年の登録に向けて既に推薦書が提出されている「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)の行方と共に注目です。
○筆者プロフィール: 宮澤光
世界遺産検定を主催する世界遺産アカデミーの主任研究員。イタリアの小説や映画、音楽、サッカーに惹かれながらも留学はなぜかフランスへ。ヨーロッパから世界各地の文化へと思いを馳せる毎日。世界遺産を「学ぶ」楽しさを伝えようと、世界遺産アカデミーHPにて「研究員ブログ」を連載中。
1 祝世界遺産! 潜伏キリシタン関連遺産が4度目の正直な訳--今後のあるべき姿
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2018年06月30日 19:15
祝世界遺産! 潜伏キリシタン関連遺産が4度目の正直な訳--今後のあるべき姿 1/2
●18年に及ぶ挑戦を経て--12の資産がもつ4つの時代
6月30日、バーレーン王国のマナーマで開催されている第42回世界遺産委員会で、日本から推薦された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県・熊本県)が世界遺産に登録された。日本では、2013年から6年連続、22件目の世界遺産誕生となる。また、長崎県と熊本県では2015年に世界遺産登録された「明治日本の産業革命遺産」に引き続き2件目の世界遺産となった。
そこで今回、新しく世界遺産登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の魅力と、世界遺産としての課題について、世界遺産アカデミー/世界遺産検定事務局の主任研究員である宮澤光さんに改めてうかがった。
○立ちはだかった3度の壁! 最後はイコモスと共に
――今回の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は世界遺産委員会が始まる前から登録が有力視されていましたが、実際の審議はどうだったのでしょうか。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、5月に諮問機関であるイコモスから「世界遺産にふさわしい」という評価である「登録」勧告が出ていました。その勧告の中で、特に構成資産を減らすような指示や遺産名の変更の提案などがなかったこともあり、世界遺産委員会の本会議では反対意見などが出ることもなく、無事に登録されました。私もWEBで見ていたのですが、イコモスから「登録」勧告が出されている場合、世界遺産委員会でそれが覆されることはまずないので、安心して会議を見ていることができました。
ただ今回の世界遺産登録は、長崎で教会群を世界遺産にしようという運動が立ち上がった時から考えると、長い長い道のりでした。こんなに苦労した世界遺産登録は、日本では他にないと思います。まさに「潜伏キリシタン」の苦しみを髣髴(ほうふつ)とさせるものでした。
――その世界遺産登録までの長い道のりについて、もう一度お聞かせください。
「長崎の教会群を世界遺産にしよう」という市民運動が始まったのは、「長崎の教会群を世界遺産にする会」が設立した2001年のことです。その後、2007年に世界遺産登録を目指す日本の遺産リストである「暫定リスト」に記載され、2012年に国からの推薦候補になるべく推薦書原案を文化庁に提出しますが、同じく推薦書原案を提出していた群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が国から推薦される遺産に選ばれてしまいました。これが一度目の挫折です。
長崎県は推薦書原案を修正し、2013年に再び文化庁に推薦します。この時は文化庁からの推薦を受けることができ、このまま国から推薦されるかと思われたのですが、国内での推薦ルールが変更され、内閣官房からも世界遺産に向けた推薦が可能となり、最終的には政治判断で内閣官房が推薦する「明治日本の産業革命遺産」が国から推薦されました。これが二度目の挫折です。
その後、三度目の正直でようやく2014年に日本からの推薦遺産に選ばれ、ユネスコに推薦書が提出されますが、2015年に行われたイコモスの現地調査を経て2016年1月に出された中間報告書で、「今のままでは世界遺産登録は難しい」という意見が出されてしまいます。それを受け、長崎県は推薦書を取り下げて推薦書の見直しを決断しました。これが三度目の挫折です。
そこから最短で世界遺産登録を目指すべく、イコモスとアドバイザー契約を結び、2017年に日本からの推薦遺産として推薦書がユネスコに提出され、今回ようやく世界遺産登録をなったわけです。こうして話しているだけでも長いですよね。地元の方々も、本当に待ちに待った世界遺産登録だったと思います。
○日本独自のキリスト教信仰の姿
――「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」とはどのような遺産なのでしょうか。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、「潜伏キリシタン」という名前が示すように、江戸時代初期にキリスト教信仰が禁止されてから明治時代初期に信仰の自由が認められキリスト教の教会堂が築かれるまでの約250年間、幕府の弾圧を逃れながら密かに信仰を続けた人々(潜伏キリシタン)の「信仰の姿」を証明する遺産です。
長崎県と熊本県に点在する12の資産は、大きく4つの時代に分けられます。ひとつ目は「始まり」。16世紀にキリスト教が日本に伝えられ人々の間に浸透していく一方、豊臣秀吉や徳川幕府によってキリスト教信仰が禁止され、キリシタン達が禁教の下でも信仰を続けることを決意する時代です。この時代を証明するのが天草四郎を総大将とするキリシタン達が幕府軍と戦った島原・天草一揆の舞台「原城跡」です。今は本丸の跡地に建物などは残っていませんが、発掘調査では多くの骨や十字架などが見つかっており、戦いの激しさを垣間見ることができます。
ふたつ目は「形成」。潜伏キリシタン達が神道の信者や仏教徒などを装いながら、密かにキリスト教信仰を続ける方法を作り上げていった時代です。この時代を証明するのは、山や島をキリスト教の聖地として信仰した「平戸の聖地と集落」や、漁村特有の姿でアワビ貝の模様を聖母マリアに見立てて信仰した「天草の崎津集落」、神道の信者や仏教徒を装い信仰を続けた「外海の大野集落」などです。
3つ目は「維持、拡大」。潜伏キリシタンの信仰を続けるために、外海地域からより信仰を隠すことができる五島列島の島々に移住していった時代です。この時代を証明するのは、病人の療養地であった「頭ヶ島の集落」や、神道の聖地であった「野崎島の集落跡」などです。病人の療養地は人があまり訪れない場所であり、神道の聖地にいるのは神道の信者であると見なされるので、潜伏キリシタン達にとって信仰を隠しやすかったと考えられます。
最後が「変容、終わり」。約200年ぶりにキリスト教の信仰を公に告白し世界中を驚かせた「信徒発見」から、教会堂が築かれていく時代です。この時代を証明するのが、この世界遺産のシンボルともいえる国宝の「大浦天主堂」です。浦上地区の潜伏キリシタンたちが大浦天主堂を訪れ信仰を告白した「信徒発見」は、奇跡としてローマ教皇にも伝えられました。その後、潜伏キリシタンたちは、カトリックに復帰する者や仏教や神道を信仰する者、禁教期の信仰を続ける者(かくれキリシタン)などへと分かれていきました。
こうしてみると、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12資産で、日本独自のキリスト教信仰の姿というものがはっきりと見えてくると思います。
――今のお話の中で、せっかく禁教が解かれキリスト教の信仰が許されるようになったのに、なぜ仏教や神道を信仰するように改宗した人がいたのでしょうか。
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これはとても複雑なのですが、長い間、潜伏キリシタンとして地域の中で生活していくうちに、純粋なキリスト教信者としていることはやはり難しく、地域の神社の氏子であったり、お寺の檀家であったりという、地域の中での役割を担ってきたため、自然と仏教や神道の信仰を選んだということがあったようです。
また、カトリックに復帰せず禁教期の信仰をつづけることを選んだ人々は「かくれキリシタン」と呼ばれ、カトリックに復帰した人々のように教会堂を作らなかったため、彼らの集落には教会堂がありません。今回の構成資産では「平戸の聖地と集落」の中の「春日集落と安満岳」と「中江ノ島」だけが、「かくれキリシタン」の信仰を証明するものとなっていますが、平戸以外にももちろん「かくれキリシタン」の人々はいました。
――「かくれキリシタン」の方々はまだいらっしゃるのでしょうか。
「かくれキリシタン」であると公言している方はいらっしゃいますが、かなり人数が減ってきているようです。また、「かくれキリシタン」であることを公表していない方々もいるため、どれほどの人数が「かくれキリシタン」であるのか、はっきりとした数は分かりません。
○登録後に勃発する観光対策
――「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の今後の課題はどんなことでしょうか。
課題はいくつかあると思いますが、最も懸念されているのが人口減少の問題です。離島では特に高齢化と人口減少が続いており、遺産を今後どのように受け継いでいくのか、その将来性が不安視されています。これは元々、潜伏キリシタンたちが隠れて暮らした場所が、人が住みにくい人が訪れにくい場所であったこととも関係しています。日本全体で地方の過疎化が問題視されている中、世界遺産登録されたからといってこの問題が劇的に改善されるわけではありません。
また、世界遺産登録されたことによって観光客が多く訪れることになると思いますが、そうした観光客の対応も人口減少している集落では難しいと思います。実際に、今後の観光客の数や質のコントロールということは、イコモスからも指摘されています。
「出津教会堂」は2011年、国の重要文化財にも指定されている マイナビニュース
一方で、各自治体や教会は「教会守(きょうかいもり)」をおいて、世界遺産長崎チャーチトラストと協力しながら観光客への対応を行っています。これは、世界遺産登録を目指す長い道のりの中で整えられていったものです。多くの世界遺産では、世界遺産登録後にようやくこうした観光客対策などを悩んでいるので、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が長い時間をかけたのも無駄ではなかったと私は思います。
みなさんも教会を訪れる時には、世界遺産長崎チャーチトラストの運営する「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター」のHPから申し込みをしてから訪問してください。この世界遺産は、現在も信仰の場として生きている遺産ですので、観光客の側にも充分な配慮が必要です。
――最後に、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と共に世界遺産登録を目指していた「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」(鹿児島県、沖縄県)は、今後どうなるのでしょうか。
「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」は、日本から5件目の自然遺産としての登録を目指していましたが、5月のIUCNからの勧告で「今のままでは登録が難しい」とする「登録延期」勧告が出されてしまったため、政府は推薦書を取り下げました。そのまま世界遺産委員会に臨んで、世界遺産としての価値がないとする「不登録」決議が出てしまうと、同じ価値では2度と世界遺産を目指すことができなくなってしまうため、苦渋の決断でした。
IUCNの勧告の中でいくつか指摘があったのですが、特に「資産が分断されている」という点が問題視されました。沖縄島北部エリアに隣接し、「やんばるの森」の一部を成す米軍北部訓練場の返還地が含まれていなかったことが大きかったため、政府は2018年夏には返還地も国立公園に含め、再度世界遺産登録を目指すとしています。
最短で、2020年の世界遺産登録を目指していますので、今後は同じく2020年の登録を目指す「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」(北海道、青森県、秋田県、岩手県)や「金を中心とする佐渡鉱山の遺跡群」(新潟県)との争いになります。一国から推薦できる遺産は文化遺産と自然遺産を合わせて1件のみなので、厳しい争いになることは避けられません。2019年の登録に向けて既に推薦書が提出されている「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)の行方と共に注目です。
○筆者プロフィール: 宮澤光
世界遺産検定を主催する世界遺産アカデミーの主任研究員。イタリアの小説や映画、音楽、サッカーに惹かれながらも留学はなぜかフランスへ。ヨーロッパから世界各地の文化へと思いを馳せる毎日。世界遺産を「学ぶ」楽しさを伝えようと、世界遺産アカデミーHPにて「研究員ブログ」を連載中。