「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「法住寺」(ほうじゅうじ)

2006年11月02日 11時25分16秒 | 古都逍遥「京都篇」
 三十三間堂の南に下ると中国風の門を構えの寺が目に入る、ここが後白河法皇の離宮・法住寺殿であったところである。
 法住寺は、永延2年(988)右大臣藤原為光が花山天皇の妃となっていた娘の死後、その邸宅を寺としたのが始まりと伝えられているが、長元5年(1032)に焼失し再建されずにいた。跡地に後白河法皇が永暦元年(1160)離宮・法住寺殿を造営し、ここに住んで天皇5代に亘る34年の長い院政を布いた。
隣接する三十三間堂(蓮華王院)は、当時は広大な法住寺殿の敷地内に、平清盛が造営した御堂の1つであった。しかし寿永2年(1183)に木曽義仲に襲撃されて殿舎が焼失した。その際、不動明王が身代わりとして後白河法皇を救ったとする伝承が有り、堂内に「身代わり不動」が祀られている。

 後白河法皇は建久3年(1192)に崩じられ、遺体は「蓮華王院東法華堂」に葬られて御陵を護持するため、建久8年(1197)源頼朝によって再建された。
 現在の後白河天皇陵は、法住寺の東側に位置する法華堂(江戸時代再建)であり、後白河法皇木像を安置している。また法住寺の中にもその複製が祀られている。また、赤穂浪士が仇討成就を祈願したことより、47士の像があり、12月14日の討ち入りの日には「義士会法要」が行われている。

 平安末期の貴族中山忠親の日記によれば、この御所は十余町(約1万平方メートル)の土地を地あげし、その域内にあった80有余の堂舎をことごとく破壊して建設したというからその広大さがうかがい知れる。
 本尊の阿弥陀如来立像(来迎印)は、親鸞聖人(範宴の頃)の作といわれ、女人禁制の比叡山西塔から、東山渋谷の仏光寺に下山したが、明治から法住寺に鎮座する事になった。また親鸞聖人そば喰いの坐像御影は、比叡山から、六角堂に毎夜通われた頃(建仁元年)、天台座主が衆僧と共に蕎麦を食したとき、その蕎麦の振る舞いを身代わりになり食べたという伝説持つ像である。

 後白河法皇は一際風流に長けて、今様を好んだといわれ、取材の折、幸い私ひとりであったこともあり、説明をしてくれた住職の奥様が法皇が詠まれた和歌を今様で歌ってくれた。なかなかの美声でお上手、思わず拍手を送り「アンコール」というと、もう一首歌ってくれた。なかなか気さくな奥様であった。

 所在地:京都市東山区三十三間堂廻り町655。
 交通:市バスで博物館・三十三間堂前または東山七条・京阪電車七条下車すぐ。

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