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「大覚寺」(だいかくじ)

2006年07月13日 10時00分09秒 | 古都逍遥「京都篇」
大覚寺は名月の頃がよい。日本三大名月観賞池のひとつ、大沢の池で観月の夕べが催されるが、池には龍頭船が浮かび琴の調べが響く。光源氏もかくありきかと王朝の雅に酔いしれてしまう。また、池に浮かぶ船の上と池畔にお茶席も設けられ、観月のひと時を茶人となって過ごすことができる。

 大覚寺は前勤務時代、毎月1回写経に通っていた。般若心経を写しながら無の境地に没頭する唯一の時間だった。
 当寺は、真言宗大覚寺派の大本山、門跡寺院で、嵯峨天皇の離宮嵯峨院(離宮形式の寺ともいう)で嵯峨御所ともよばれた。
 貞観18年(867)嵯峨院の破壊を惜しんだ皇女の淳和天皇皇后正子が寺院とした。文永5年(1268)の後嵯峨上皇を始めとし亀山・後宇多の三上皇が譲位後入寺し、特に後宇多法皇はここで院政を行った。建武3年(1336)年の兵火で全焼。後手多天皇皇子性円法親王が24世となり再興、以後この皇統から住持が出て大覚寺統と称し、南北朝時代は北朝(持明院統)と対立し、明徳3年(1392)の南北朝講和は大覚寺で行われたという。
 その後、応仁の乱などの兵火で荒廃したが、織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進して復興させ、江戸時代は朱印地1016石。また後水尾天皇は皇弟・皇子を入寺させ、御所の旧殿を下賜してほぼ今日の寺観に復した。
 有栖川にかかる石橋を渡ると表門、その西の西門(明智門)と庫裏(明智陣屋)は明治初年亀岡城の御館門・御館を移したもの。

 当寺の見所は何と言っても襖絵で、正面の玄関を上がると、内部三方の壁画は伝狩野山楽筆松山鳥図である。東の宸殿(国重文・江戸)は入母屋造・桧皮葺き、後水尾天皇の寄進で旧紫宸殿ではないかという。内部は壁画にちなんで牡丹・柳松・紅梅・鶴の四間、前庭には右近の橘と左近の梅がある。

 客殿(国指定重要文化財・桃山)は多くの小間からなり、東の玉座の間(御冠の間)は南北朝合一の講和の間で、これの前方の間の障子の腰板絵は光淋門の渡辺始興の筆。ほかに雪・聖人・鷹・竹・紅葉の間などがある。狩野山楽筆と伝える絵は多いが、宸殿の牡丹図18面と紅葉図八面は山楽の代表作で、金碧画の最高作とされる。また客殿の松鷹図は当代水墨画の代表作とされ、永徳の筆と伝えられている。御冠の間は奥の半分の上段正面
の帳台構えの柱と鴨居が竹・桐・鳳凰の蒔絵で飾られ、嵯峨蒔絵という。これらの玄関・宸殿・客穀の大覚寺障壁画116面(桃山・江戸)は、国の重要文化財に指定されている。北の庭湖館(江戸)には平成4年(1992)末浜田泰介画伯の障壁画五九面が完成した。

 心経殿は八角堂で、嵯峨天皇以下五天皇の宸筆心経を納める。御霊殿は後水尾天皇の法体の木像を安置している。その南の五大堂(本堂)は、嵯峨天皇が空海に五大明王の秘法を修めたのが起源とされる。5つの厨子に木造五大明王像(国重文・平安)を納めており、木造軍茶利明王立像・木造大威徳明王立像(ともに国重文・平安)がある。

 庭湖とよばれる大沢池(国指定名勝)は、旧嵯峨院の苑池で、北部に大小の中島があり、大は天神島で菅原道真を祀る天神社があり、小は菊島で紀友則の歌にちなむという友則の歌碑がある。嵯峨天皇が菊島で野菊を摘み、花瓶にさしたところから、嵯峨流華道の発祥の基となったという。
 池の北の名古曽の滝跡(国名勝)は旧嵯峨院の滝殿の庭にあって、早く水が涸れたことが藤原公任(966~1041年)の「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそながれてなほきこえけれ」(「滝の音は途絶えてから長い年月が経つけれども、その名は今に流れ伝わって、なお名声を保っているのだ」(百人一首)で知られ、滝の名もこの歌から出たといわれる。

 大覚寺のもう一つの顔は、映画のロケ地として知られている。多くの時代劇の舞台として使用され、現代劇にも随所で登場している。参拝しているとき、ロケに出会うこともしばしばである。

 所在地:京都市右京区嵯峨大沢町4
 交通:JR京都駅より京都バス71、80、81 大覚寺前停留所。
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