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思い出つづり

2024年12月14日 11時50分41秒 | 日常のこと&写真
30年前に綴った原稿の再編集をしているがようやく50話を通過した。保険の仕事にかかわる記事は削除し生き方論として編集している。
「思い出つづり」長文なのでスルーされても結構です。
 保険会社を自主退職し、それまで培ってきた経験を活かして生きてみたいと思った。ところが頼るつてもなく五里霧中の中で何をしたらよいのか思案に暮れながら、それまで30年の体験を綴り始めた。来る日も来る日も・・・。妻や子は黙してデスクに張り付いてワープロを打っている私を見つめて「働いてくれないかなぁー」という視線を背中に感じ取っていた。しかし私は「これをやり通すしかない」と強く心に誓っていた。2年半をかけて2巻の原稿を仕上げた。その一つを持って新聞社に売り込みに行った。その新聞社は保険業界新聞社で現役時代その新聞社発行の新聞を自分も購読していた。相手にとつてはかつてのお得意先だ。
 原稿をめくりながら「お預かりします」と一言。新聞社の編集長とコーヒーを飲みながら現状の保険会社について情報交換をして40分ほど過ごし社を後にした。
 しかし一向に返事がない。待つあいだ当座の暮らしがあることから何か仕事をみつけなければならない。私は一大決心をした。この先どのような暮らしになるかわからない。高齢者へと向かう年齢で、現役時代の恵まれた身分や環境の光が当たる仕事に就くことはできないかもしれない。「見栄」を捨てなければ生きていけないかもしれないと覚悟し日陰の労働にあえて飛び込んだ。汗をかき力仕事にも耐えた。よくいうブルーカラーの労働だった。これに耐えられなければ生きるすべが見つからないと頑張った。この仕事の傍らタクシーの運転手になることも想定し自動車試験場で二種免許の試験を受けた。一回5千円の受験料だった。5回受けたが落ちた。運転には自信があっただけに5回目に失敗した帰りやはり心が折れていて試験場前からタクシーで帰った折、運転手さんにその話をすると運転手さんは「試験場では趣味で取得しようと勘違いされたようですね。ドライバーになるのでしたらタクシー会社に入社して取得するとすぐ取れますよ」という。なるほどそういうことかと思った。切羽詰まった事情とでは受け止める方も違うのだろう。
 5回目も通らなかったことからタクシーの運転手さんの助言の通り、タクシー会社の門を叩こうかと思っていたところへ、私の後輩が勤めている保険業界新聞社から電話がはいり「先輩は書くことが得意でしたね」という。藪から棒に何かと思うと「実はわが社の編集長が急逝して困っているので内に来てくれないか」というのだ。私は即座に困ったが原稿を渡した新聞社からは何の返事もないしどうしようかと。すると妻は安定した暮らしがしたいので入社してという。誘ってくれた後輩に「この先、講演の仕事もするつもりなので二足の草鞋でもよいか」と注文をつけたところOKとの返事。次の日、上京し新聞社の社長と彼と新橋で面会、社長も気に入ってくれたようでその場で採用の返事と年俸を決めてくれた。現役時代の半分程度だったが暮らしには十分だった。見栄を捨てたつもりだが職種は常務取締役編集長という肩書となった。
 それから4か月後、原稿の返事が来て「わが社で買い取らせてほしい」とのこと。しかし書籍にできるかどうかを見極めるため新聞に連載させてもらうとし月2回の連載となり2年余り続いた。その間、購読者の評判もよく「書籍にしてほしい」とのメールなども入り連載が終了したと同時に出版となった。連載効果と図書との相乗効果で講演依頼が舞い込み編集長の仕事と多忙を極めた。そのころ太鼓チームも創設し自治会委員にもなっていたので自分の体が自分でないような日々、年月が続き今日へと。あれから30年、阪神淡路大震災の年の9月に退職したのだがあっという間の年月だった。




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