国道24号線を京都から奈良に向かう山城大橋を過ぎ、木津川との合流地点にほど近く、百日紅の並木に薄紅色の花が咲き誇る天神川の南岸、田園地帯の中に建つこじんまりとした境内の蟹満寺。取材に立ち寄ったときは日本芙蓉の花が境内を彩っていた。
当寺は、普門山と号す京都智積院末真言宗智山派の寺院で、本尊の国宝・釈迦如来坐像は、わが国初期の丈六金銅仏として有名。薬師寺金堂の薬師如来坐像(国宝)に比べられる秀作とされている。境内には、本尊を祀る本堂の他に、木造聖観世音菩薩坐像を祀る観音堂があります。「蟹満寺」の名は長久4年(1043)頃に成立した『大日本国法華経験記』に「蟹満多寺」として初めて現われている。
この物語は、観音菩薩を信仰する慈悲深い娘が、蛇に求愛されて困っているところ、以前に助けた蟹の恩返しによって危難を免れるというもので、蛇の苦と蟹の罪苦を救うために建てられたのが寺の起源であると伝えられる。
物語をご紹介すると、
昔、このあたりに善良で慈悲深い夫婦と一人の娘が住んでいた。
その娘は幼い頃から特に慈しみ深く、常に観音経の普門品を読誦して観世音菩薩を信仰していた。
ある日のこと、村人が蟹をたくさん捕らえて食べようとしているのにであった娘は、その蟹を買い求め、草むらへ逃がしてやった。
そしてまたある日のこと、娘の父が田を耕していると、蛇が蛙を呑もうとしている。何とか蛙を助けてやりたい父は蛇に向かって「もしおまえがその蛙を放してやってくれたら娘を嫁にやろう」と言った。すると不思議にも蛇は蛙を放し、スルスルと何処へともなく姿を消した。
突然のこととはいえ大変なことを言った父は、仕事も手につかず家に帰ると、ことの次第を娘に語り不本意を悔いたのでした。案にたがわずその夜、衣冠をつけた紳士が門前に現れ昼間のたんぼでの約束を迫ってき。困りはてた父は嫁入りの支度を理由に、3日後に来るようにと男を帰したもののどうすることもできない。遂に約束の日となり男は再び門前に現れ、雨戸を堅く閉して、約束を守ろうとしない父娘に腹を立てた男は、本性を現し蛇の姿となって荒れ狂います。
娘はひたすら観音経の普門品を誦え、娘の父母は恐ろしさのあまり身を縮めているその時、観音さまが現れ「決して恐れることなかれ、汝らの娘は慈悲の心深く常に善良な行いをされ、また我を信じて疑わず、我を念ずる観音力はことごとくこの危難を除くべし」と告げ姿を消した。
ほどなくどうしたことか雨戸を打つ爆音は消え、夜が明けてみると戸外にはハサミで寸々に切られた大蛇と無数の蟹の死骸が残されていた。
親子は観音さまの御守護を感謝し、そして娘の身代わりとなった蟹と蛇の霊を弔うため御堂を建て聖観音菩薩を祀った。こうして、たくさんの蟹が満ち満ち、恐ろしい災難が救われた因縁で建てられ蟹満寺と名づけられ、観音経の普門品を読誦していたことから普門山と号したという。
ところが、本来の蟹満寺は、「蟹が多く満ちる寺」という蟹の縁起とは関係なく、渡来氏族と地名(郷名)に由来する寺院で、しかも、縁起成立よりもかなり以前の飛鳥時代から存在していたものと考えられている。
7世紀はじめに、渡来氏族、秦氏のリーダーの秦川勝が泉川(現在の木津川)の北のほとりで聖徳太子と仏教の興隆を約した。その頃、秦川勝は聖徳太子から、新羅から献上された金銅弥勒菩薩像を賜り(推古天皇紀11年)、安置するために葛野の太秦に広隆寺を創建。さらに広隆寺の末寺として、現在の「蟹満寺」の地に、川勝が「蝦蟆寺」を創建(『太子伝古今目録抄』)したとも、あるいは、川勝の弟で秦和加(阿津見長者)が「薬上寺」または「蟹幡寺」を創建(『広隆寺末寺別院記』)したとも伝えられている。
京都葛野の秦寺(広隆寺)の末寺であったことから、当初は綺原(カムバラ)の秦寺(ハタデラ)と呼ばれていたのが訛って「カムハタ寺」に転化し「蟹満多寺」や「紙幡寺」と表記されるようになったと思われます。
その後、平安時代初期には、この一帯は、「蟹幡郷」(『和名類聚抄』934年)といわれている。それが、南山城の蟹伝説と結びつき蟹の縁起が成立したようである。なお、現本尊である釈迦如来坐像については、長治2年(1105)に伝法潅頂を受けた静誉の伝(『伝燈広録』)に、同像を安置したと考えられる堂を「光明山懺悔堂」としており、また、古くから地元では、この像が光明山寺から移したものとの伝承があった。しかし、近年の発掘調査では、現在の蟹満寺の地に白鳳時代の遺構が見つかり、いまの本堂のある場所に釈迦如来坐像が座していたことが確認され、光明山寺からの移転説は否定されている。
京都府相楽郡山城町大字綺田(かばた)浜36。
交通:JR京都からJR奈良線、みやこ路快速で28分、玉水駅で各駅停車に乗り換え3分、「棚倉駅」
下車徒歩約30分。
当寺は、普門山と号す京都智積院末真言宗智山派の寺院で、本尊の国宝・釈迦如来坐像は、わが国初期の丈六金銅仏として有名。薬師寺金堂の薬師如来坐像(国宝)に比べられる秀作とされている。境内には、本尊を祀る本堂の他に、木造聖観世音菩薩坐像を祀る観音堂があります。「蟹満寺」の名は長久4年(1043)頃に成立した『大日本国法華経験記』に「蟹満多寺」として初めて現われている。
この物語は、観音菩薩を信仰する慈悲深い娘が、蛇に求愛されて困っているところ、以前に助けた蟹の恩返しによって危難を免れるというもので、蛇の苦と蟹の罪苦を救うために建てられたのが寺の起源であると伝えられる。
物語をご紹介すると、
昔、このあたりに善良で慈悲深い夫婦と一人の娘が住んでいた。
その娘は幼い頃から特に慈しみ深く、常に観音経の普門品を読誦して観世音菩薩を信仰していた。
ある日のこと、村人が蟹をたくさん捕らえて食べようとしているのにであった娘は、その蟹を買い求め、草むらへ逃がしてやった。
そしてまたある日のこと、娘の父が田を耕していると、蛇が蛙を呑もうとしている。何とか蛙を助けてやりたい父は蛇に向かって「もしおまえがその蛙を放してやってくれたら娘を嫁にやろう」と言った。すると不思議にも蛇は蛙を放し、スルスルと何処へともなく姿を消した。
突然のこととはいえ大変なことを言った父は、仕事も手につかず家に帰ると、ことの次第を娘に語り不本意を悔いたのでした。案にたがわずその夜、衣冠をつけた紳士が門前に現れ昼間のたんぼでの約束を迫ってき。困りはてた父は嫁入りの支度を理由に、3日後に来るようにと男を帰したもののどうすることもできない。遂に約束の日となり男は再び門前に現れ、雨戸を堅く閉して、約束を守ろうとしない父娘に腹を立てた男は、本性を現し蛇の姿となって荒れ狂います。
娘はひたすら観音経の普門品を誦え、娘の父母は恐ろしさのあまり身を縮めているその時、観音さまが現れ「決して恐れることなかれ、汝らの娘は慈悲の心深く常に善良な行いをされ、また我を信じて疑わず、我を念ずる観音力はことごとくこの危難を除くべし」と告げ姿を消した。
ほどなくどうしたことか雨戸を打つ爆音は消え、夜が明けてみると戸外にはハサミで寸々に切られた大蛇と無数の蟹の死骸が残されていた。
親子は観音さまの御守護を感謝し、そして娘の身代わりとなった蟹と蛇の霊を弔うため御堂を建て聖観音菩薩を祀った。こうして、たくさんの蟹が満ち満ち、恐ろしい災難が救われた因縁で建てられ蟹満寺と名づけられ、観音経の普門品を読誦していたことから普門山と号したという。
ところが、本来の蟹満寺は、「蟹が多く満ちる寺」という蟹の縁起とは関係なく、渡来氏族と地名(郷名)に由来する寺院で、しかも、縁起成立よりもかなり以前の飛鳥時代から存在していたものと考えられている。
7世紀はじめに、渡来氏族、秦氏のリーダーの秦川勝が泉川(現在の木津川)の北のほとりで聖徳太子と仏教の興隆を約した。その頃、秦川勝は聖徳太子から、新羅から献上された金銅弥勒菩薩像を賜り(推古天皇紀11年)、安置するために葛野の太秦に広隆寺を創建。さらに広隆寺の末寺として、現在の「蟹満寺」の地に、川勝が「蝦蟆寺」を創建(『太子伝古今目録抄』)したとも、あるいは、川勝の弟で秦和加(阿津見長者)が「薬上寺」または「蟹幡寺」を創建(『広隆寺末寺別院記』)したとも伝えられている。
京都葛野の秦寺(広隆寺)の末寺であったことから、当初は綺原(カムバラ)の秦寺(ハタデラ)と呼ばれていたのが訛って「カムハタ寺」に転化し「蟹満多寺」や「紙幡寺」と表記されるようになったと思われます。
その後、平安時代初期には、この一帯は、「蟹幡郷」(『和名類聚抄』934年)といわれている。それが、南山城の蟹伝説と結びつき蟹の縁起が成立したようである。なお、現本尊である釈迦如来坐像については、長治2年(1105)に伝法潅頂を受けた静誉の伝(『伝燈広録』)に、同像を安置したと考えられる堂を「光明山懺悔堂」としており、また、古くから地元では、この像が光明山寺から移したものとの伝承があった。しかし、近年の発掘調査では、現在の蟹満寺の地に白鳳時代の遺構が見つかり、いまの本堂のある場所に釈迦如来坐像が座していたことが確認され、光明山寺からの移転説は否定されている。
京都府相楽郡山城町大字綺田(かばた)浜36。
交通:JR京都からJR奈良線、みやこ路快速で28分、玉水駅で各駅停車に乗り換え3分、「棚倉駅」
下車徒歩約30分。
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