綿あめプーさん&あるび

綿飴ぷーさんの「けやきの会」(長岡市にある障がい者関連団体)と白馬山麓の実家の話題&アルビッレクスサポ日記

高橋貞夫先生のこと

2012年02月09日 | ぷーさんのつぶやき
高橋貞夫さんのことで、少し長い話になります。
以下、慣例で「先生」と書きます。

二十数年前、先生はIHIに勤務されておりました。
主に物流システムや建築設備のアドバイスをされてました。

当時、私の会社は10年ぶりくらいの新店建設計画に入るところでしたが、故原信一社長から「誰も経験者がいないから、やってくれ」の一言で、ずぶの素人の私が担当することになりました。

半年ほどで構想から設計図がまとまったころ、原社長からの指示で先生から指導を受けました。

にべもなく、全否定!白紙でやり直せ!

翌週、腹がおさまらず、先生のお仕事が終わって、6時に池袋でお会いしました。

私は喧嘩腰でしたが、今回はいちいちお聞きいただき、「何故そうなのか」「何でここは10.3mなのか」「柱の間隔は何の基準で決めたか」・・・教えていただきました。

その後短時間でしたが、食事とお酒をご馳走になり、科学的に考えるとはどういうことかを教えていただきました。
「喧嘩するために、東京まで出張してきたのは貴方が最初だよ(笑)」とほめられました
(と、私は思っています)

その後、先生はIHIを退職され、コンサルティング専業で独立されました。

私は、初めて建設するショッピングセンターのテナント誘致担当を経て、物流センタープロジェクトチームのリーダーになりました。

二人三脚で、土地買収、造成から7年越しで現在の物流システムを作り上げました。

竣工パーティーの計画を検討していた際に、「私は、こういう席苦手だから出ない」といい始め、無理矢理出席していただくのに苦労しましたが、当日は先生が一番喜んでいたと思います。

その後、私は物流を離れましたが、再三ご相談をさせていただき、都度、親身になって考えてくださいました。

5,6年前から、「最近足腰弱くなって」とか「重いものがもてない」とおっしゃってましたが、それが前兆で4年くらい前から闘病生活に入られました。

原因不明で全身の筋肉が弱っていく難病でした。

最後にお見舞いに伺った際も車椅子でした。

最後にお電話したのは昨年末。

いつも年末には盛岡のりんごが送られてきましたが、なぜか百貨店の商品券だったので、「年明けに伺いしたい」と申し上げたら「忙しい身なんだから、用事がなければ来るな! 時間があったら仕事と家庭サービスしなさい」と叱られました。

2月4日に逝去され、今日告別式に新座まで行ってきました。

喪主の長男、芳成さんのご挨拶の中の言葉
「手も動かなくなり、食べることも出来なくなっても、最後まで病気と闘う姿勢は変わりませんでした」

先生らしい生き様だったと思います。

原信一社長を亡くし、父を亡くし、今度は先生を亡くしました。
私にとってかけがえの無い先生でした。痛恨です。

今はただ、安らかにお眠り下さることをお祈りします。

長い間ありがとうございました。

                        合掌