今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

節分の日

2006年02月03日 | 歳時
今日帰京したら、丁度、鎮守「諏方神社」の節分祭が始まる時刻だったので、見に行った。

●諏方神社の節分祭
最初社殿内で神楽の神の姿のような人がおごそかに舞っていて、やがてそれが鬼だとわかり、周囲の人はいっせいに豆を投げる(写真)、という筋書きらしい。
その後神楽殿から、年男?らが袋に入った豆やビニール製のカラーボールなどを投げる。後ろで撮影していた私もいつしか、手を伸ばして本気になって取ろうとする。
でも投げる人が年寄ばかりなので、こっちまで届かない。横のおばさんたちは「こっちへ投げて!」と大騒ぎ。
幸い豆の袋を1つゲットしたこともあり、これ以上強欲な集団心理の中にいたくないので、大騒ぎの神社を後にした。
家に換えれば、丁度宅配便の車が来ていて、不在なのでまさに帰ろうとした所。
運良く私宛の宅配便をゲット。

●節分再考
とタイミングのいい日だったが、それにしても節分って、少々考え直したらいいのではないか。
というのも「鬼は外」の豆まきって、大晦日の追儺(ついな)・鬼遣い(おにやらい)の行事が由来なのだが、陰陽の呪術的で現代人の感覚に合わない(夜実家で私に豆まきの担当を強いられたが実にこっぱずかしかった)。
ヒイラギやイワシの頭を飾るのもバカらしいし、最近では、恵方巻きを食べるという関西地方の百年たらずの風習が、コンビニやスーパーの無節操な宣伝戦略に乗らされた人の間で広まっているらしいが、これはなおさら恥ずかしい。
節分の現代化をするには、上のような呪術的要素は不要。
節分の本質は「冬を送り、春を迎える」のであるから、やはり迎春という「旧正月」の祝いとすべきで、季節感を大切にしたい。東アジアでは日本だけが無視している「旧正月」の復活こそ伝統からみて本筋だと思う(礼法は民間習俗とは違うのだ)。