後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

宮沢賢治の信奉した法華経の特徴は何でしょうか?

2012年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム

宮沢賢治のことをいろいろ調べていると法華経を篤く信奉し、父母は勿論、友人への法華経の宗派へ変わるようにと強く薦めています。父との喧嘩の原因にもなっていたようです。

このように他人へ強く法華経を薦めることが重要だと教えているのが法華経の一つの特徴です。

自分だけが苦行をして悟りをひらいても、それはお釈迦様のお望みではありません。周りの全ての人々が悟りをひらいて涅槃の境地に入れるように指導しなさい。しかし自分が指導者と思いあがったら全ては無に帰します。

この教えをつきつめて行けば、世界中の全人類を法華経信者にすることがお釈迦様のお望みなのです。ですからこそ、前の記事で書いたように国柱会の究極の目的は、全世界を佛教国にして、法華経の世界を実現することだったのです。論旨明快です。

さて上のような私の雑駁な説明では大きな過ちがあるかも知れません。

そこでいろいろな法華経の説明の中から素人にも分かり易く書いた佐倉 哲様の明快な文章をご紹介いたします。

=======佐倉 哲エッセイ集===========

http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud120.html より。

======法華経の出来たいきさつ==========

聖徳太子や最澄の昔から、日本では『法華経』はたいへんポピュラーな経典ですから、法華経に関する書物は無数にあり、手軽に手に入ります。ここでは、わたしの個人的な解釈を述べてみたいと思います。
1.大乗仏典のなかの代表的な仏典の一つ

ブッダが死んでから三~四百年後、西暦一世紀前後に伝統的仏教に対抗する宗教改革運動が仏教内で起こります。大乗仏教運動です。この宗教改革運動の興味深い特徴の一つは、自分たちの主張をするのに、新しい経典を創作したところです。経典というのは、ブッダの弟子たちが、ブッダの教えを弟子から弟子へと伝承してきたものを書き残したものです。ところが、大乗仏教運動の改革者たちは、それらとは別の経典を新しく創作して、あたかもブッダ自身が教えたものであるかのように、自分たちの思想を主張したのです。法華経はその大乗仏典のなかの一つです。

一番最初にあらわれた初期の大乗仏典が般若経です。その後、維摩経や法華経や浄土経などの経典があらわれます。わたしたちの知っている法華経(クマラジーヴァ訳『妙法蓮華経』)の原典はおそらく西暦三世紀の中ごろまでに、さまざまな増幅の歴史を通じて、成立したものです。

つまり、法華経とは、ブッダの死後およそ四、五百年後、大乗仏教運動の宗教改革者たちによって、自分たちの思想を主張するのに、あたかもそれがブッダ自身の教えであるかのごとく、まったく新しく創作された経典(大乗経典)の一つです。言ってみれば、「偽の経典」とも言えるわけで、それゆえ、「大乗非仏説」(大乗仏教はブッダの教えではない)と主張する人もいます。

2.大乗仏教運動の改革者たちの主張とその理想像

大乗経典に書かれている事柄から、大乗仏教運動の宗教改革者たちが、伝統的仏教の何に反逆したかを調べてみると、伝統的仏教の僧たちが自らの修業と悟りを究極的な目的にしていて、大衆の救いにあまり関心を持たなかったところにあることが知られます。この経典の著者たちは、自分自身の救いを後回しにしてまでも大衆の救いの為に生きる、そういう仏教徒としての期待される理想像を、新しく創作した経典に登場させるのです。その理想像が「ボディサットヴァ(菩薩)」です。

ボディサットヴァ(菩薩)とは、もともと、悟ってブッダになる前の求道者のことを指しますが、新しく創作された大乗経典の中では、大衆の救いの為に生きる理想的ヒーローとして登場するのです。観音菩薩とか弥勒菩薩とか、何百何千の菩薩が大乗教典のなかに登場しますが、それらはすべて創作上の架空のヒーローです。大乗経典とは、つまり、真の求道者とはいかにあるべきかを示す理想像として架空の主人公たる菩薩たちが活躍する一連の創作物語なのです。

====具体的にはどうすれば良いのですか?==========

例えば、初期の大乗経典の代表の一つ『金剛般若経』では、菩薩とはいかなるものであるか、次のように述べています。

スプーティは言った。「ところで世尊よ、良家の男子にせよ、女子にせよ、すでに菩薩の道に向かって歩みを進めたものは、どのようにあるべきであり、どのように実践すべきであり、どのように心を訓練すべきでありましょうか」・・・世尊はつぎのように話された。「さて、スプーティよ、菩薩の道をこころざしたものは、ここで次のような考えを起こさなければならない。すなわち、スプーティよ、『生けるものの世界において、およそ衆生という名の下に包摂される生きとし生けるもの・・・は何ものにせよ、彼らすべてを、私は、煩悩の余燼さえない涅槃の世界に引き入れなければならない。しかもなお、たとえそのように無数の衆生を涅槃に導いたとしても、実はいかなる衆生も涅槃にはいったのではない』と。それは何故かというと、スプーティよ、もしも菩薩に衆生という観念が生じるならば、彼を菩薩というべきではない。それはまたなぜか。スプーティよ、もし彼に自我という観念が生じるなら・・・彼を菩薩と呼ぶべきではないからである。」(『金剛般若経』、2~3、長尾雅人訳)

==========以下省略==========


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。