キリスト教は愛の宗教だと言います。神が人間を愛すると教えています。
そんなことを言われたって日本人の私には何のことやら理解出来ません。
星空のかなたに住み給う神が人間の一人一人を愛しているという話は荒唐無稽過ぎます。
しかし神父さまたちの人間愛は眼に見えるし実感することも出来ます。
今日は日曜日なので一例として九州の日本人を愛したランス人のド・ロ神父さまをご紹介したいと存じます。
現在、九州ではドロさまソーメンという素麺が製造、販売されています。ソーメンが好きな私がドロ神父を知ったのは、このソーメンのお陰でした。
ド・ロ神父は1840年、フランスの貴族の家に生まれ、39歳の時、九州の長崎県の外海(そとめ)に来ました。
フランスの貴族の出身で九州の貧民を助けるためフランスの実家から財産を何度も出しては貧民救済の工場や施療院を建てました。その一つがドロさまソーメンの製造工場だったのです。
ド・ロ神父は、高齢で病気がちになってからは大浦の司教館で静養していました。
1914年、新しい司教館の建設に自分も作業をしていました。その時、建築現場から足を踏み外して落下したことがきっかけで病状が悪化し、司教館の完成を待たずに亡くなってしまったのです。享年74歳でした。
遺言により神父の遺体は、外海に自らが造成した「野道のみち共同墓地」に葬られることになりました。
神父の遺体が船で外海に運ばれて来る日、村人は総出で出迎えたのです。葬儀は出津教会堂で行われ、棺は出津を迂回しながら墓地へ運ばれました。
参列する人の列が長すぎて棺が墓地に着いても行列はまだ教会まで続いていたと言います。外海赴任から35年間、1度もフランスに帰らず外海のためにすべてを捧げた人生でした。詳しくは、http://shitsu-kyujoin.com/publics/index/4/ をご覧下さい。
ドロ神父の墓は現在でも日本人がお参りに行き大切に守っています。
現在の野道共同墓地の入口の広場にりっぱなド・ロ神父の墓碑があるが、実は神父の亡骸は、神父自身がフランスから取り寄せて墓地の中央に設置した大十字架の近くの墓に埋葬されています。
共同墓地の入口のド・ロ神父の墓碑は石段を登らずにお墓参りができるように作られています。高齢者への配慮なのです。
1番目の写真はド・ロ神父です。
2番目の写真はド・ロ神父記念館の前にある神父の銅像です。子供がまとわりついています。
3番目の写真は現在も販売されているドロ様そうめんの宣伝用パンフレットです。
https://www.wagamachi-tokusan.jp/product/1513.html
ド・ロさまそうめんの由来は、明治12年に赴任したフランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロ神父が明治16年(1883年)、黒崎村出津の里(現在の長崎市西出津町)で麺作りを伝えたのが発祥です。
なお長崎市ド・ロ神父記念館は長崎市西出津町2633番地にあります。
その建物は国指定重要文化財の旧出津救助院(鰯網工場)なのです。
4番目の写真はド・ロ神父記念館です。
以下は記念館のパンフレットの文章です。
・・・深い人類愛の精神とすばらしいフロンティア精神をもって、外海地方の産業・社会福祉・土木・建築・医療・教育文化などに奉仕したフランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロ神父の遺品を一堂に集めて、偉業、遺徳を永久に顕彰することを目的として昭和43年11月に設置した。記念館の建物はド・ロ神父の設計施工により鰯網工場として明治18年に建設されたもので、昭和42年2月に県指定文化財となった。建物の老朽化により平成11年度から3年間をかけて文化財保存修理を実施し、創建時に近い形に修復し、同時に展示改修を行い平成14年5月13日に新たに開館した。
記念館の建物は、ド・ロ神父が創設した旧出津救助院の施設の一つとして、平成15年12月25日に国の重要文化財に指定された。・・・
5番目の写真はド・ロ神父が作ったカトリック出津教会です。
1882年(明治15年)、出津地区において主任司祭を務めていたマルク・マリー・ド・ロ神父の設計により建設されました。その後信徒数の増加等により2度の増築(いずれもド・ロ神父の設計による)を経て1909年(明治42年)にほぼ現在の姿が完成したもものです。
私はド・ロ神父さまにはお会いしたこともありません。しかしド・ロ神父さまの日本人に対する愛は本物でした。これを見ると神が人間を愛していることが実感するのです。神は間違いなく人間を愛しています。そしてド・ロ神父さまも神を愛していたのです。神父様は神と人間との仲立ちをしてくださるのです。
キリスト教が愛の宗教だということはそういうことなのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
そんなことを言われたって日本人の私には何のことやら理解出来ません。
星空のかなたに住み給う神が人間の一人一人を愛しているという話は荒唐無稽過ぎます。
しかし神父さまたちの人間愛は眼に見えるし実感することも出来ます。
今日は日曜日なので一例として九州の日本人を愛したランス人のド・ロ神父さまをご紹介したいと存じます。
現在、九州ではドロさまソーメンという素麺が製造、販売されています。ソーメンが好きな私がドロ神父を知ったのは、このソーメンのお陰でした。
ド・ロ神父は1840年、フランスの貴族の家に生まれ、39歳の時、九州の長崎県の外海(そとめ)に来ました。
フランスの貴族の出身で九州の貧民を助けるためフランスの実家から財産を何度も出しては貧民救済の工場や施療院を建てました。その一つがドロさまソーメンの製造工場だったのです。
ド・ロ神父は、高齢で病気がちになってからは大浦の司教館で静養していました。
1914年、新しい司教館の建設に自分も作業をしていました。その時、建築現場から足を踏み外して落下したことがきっかけで病状が悪化し、司教館の完成を待たずに亡くなってしまったのです。享年74歳でした。
遺言により神父の遺体は、外海に自らが造成した「野道のみち共同墓地」に葬られることになりました。
神父の遺体が船で外海に運ばれて来る日、村人は総出で出迎えたのです。葬儀は出津教会堂で行われ、棺は出津を迂回しながら墓地へ運ばれました。
参列する人の列が長すぎて棺が墓地に着いても行列はまだ教会まで続いていたと言います。外海赴任から35年間、1度もフランスに帰らず外海のためにすべてを捧げた人生でした。詳しくは、http://shitsu-kyujoin.com/publics/index/4/ をご覧下さい。
ドロ神父の墓は現在でも日本人がお参りに行き大切に守っています。
現在の野道共同墓地の入口の広場にりっぱなド・ロ神父の墓碑があるが、実は神父の亡骸は、神父自身がフランスから取り寄せて墓地の中央に設置した大十字架の近くの墓に埋葬されています。
共同墓地の入口のド・ロ神父の墓碑は石段を登らずにお墓参りができるように作られています。高齢者への配慮なのです。
1番目の写真はド・ロ神父です。
2番目の写真はド・ロ神父記念館の前にある神父の銅像です。子供がまとわりついています。
3番目の写真は現在も販売されているドロ様そうめんの宣伝用パンフレットです。
https://www.wagamachi-tokusan.jp/product/1513.html
ド・ロさまそうめんの由来は、明治12年に赴任したフランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロ神父が明治16年(1883年)、黒崎村出津の里(現在の長崎市西出津町)で麺作りを伝えたのが発祥です。
なお長崎市ド・ロ神父記念館は長崎市西出津町2633番地にあります。
その建物は国指定重要文化財の旧出津救助院(鰯網工場)なのです。
4番目の写真はド・ロ神父記念館です。
以下は記念館のパンフレットの文章です。
・・・深い人類愛の精神とすばらしいフロンティア精神をもって、外海地方の産業・社会福祉・土木・建築・医療・教育文化などに奉仕したフランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロ神父の遺品を一堂に集めて、偉業、遺徳を永久に顕彰することを目的として昭和43年11月に設置した。記念館の建物はド・ロ神父の設計施工により鰯網工場として明治18年に建設されたもので、昭和42年2月に県指定文化財となった。建物の老朽化により平成11年度から3年間をかけて文化財保存修理を実施し、創建時に近い形に修復し、同時に展示改修を行い平成14年5月13日に新たに開館した。
記念館の建物は、ド・ロ神父が創設した旧出津救助院の施設の一つとして、平成15年12月25日に国の重要文化財に指定された。・・・
5番目の写真はド・ロ神父が作ったカトリック出津教会です。
1882年(明治15年)、出津地区において主任司祭を務めていたマルク・マリー・ド・ロ神父の設計により建設されました。その後信徒数の増加等により2度の増築(いずれもド・ロ神父の設計による)を経て1909年(明治42年)にほぼ現在の姿が完成したもものです。
私はド・ロ神父さまにはお会いしたこともありません。しかしド・ロ神父さまの日本人に対する愛は本物でした。これを見ると神が人間を愛していることが実感するのです。神は間違いなく人間を愛しています。そしてド・ロ神父さまも神を愛していたのです。神父様は神と人間との仲立ちをしてくださるのです。
キリスト教が愛の宗教だということはそういうことなのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)