宮沢賢治の遺した手帳より
昭和6年(1931年)11月3日
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
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手帳の中には上の詩のあと数編の作品があり、その後に以下の書き込みがあります。
為菩提 平賀ヤギ
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
そして続けて、
くらかけ山の雪
友一人なく
ただわがほのかにうちのぞみ
かすかなのぞみを托するものは
麻を着
けらをまとい
汗にまみれた村人たちや
全くも見知らぬ人の
その人たちへ
たまゆらひらめく
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法華経はこの世に生きる全てのものが等しく涅槃の境地に入る様にお互いが助けあうことを教えています。
この法華経の教えにしたがい賢治は人々の苦しみや悲しみを少なくしたいと思っていたに違いありません。思っただけでなく静かに手助けをし続けたのです。東北地方の冷害で苦しむ農村で。
法華経をひろめたかったのです。その布教の方法は声高く説法したり、論争することではありません。静かな、遠慮深い行動で、賢治は法華経を人々へ伝えかったのかも知れません。
たった一つの例外は父親との論争や口論でした。
その父親へ賢治は臨終のとき法華経を1000部刷り、知人へ贈ることを頼みます。その言葉を父はを褒めたのです。賢治は弟の清六へ、「やっと父に褒められた」と言って、喜んで旅立って行ったのです。
のこされた父は賢治の遺言通り法華経を1000部刷り、いろいろな人へ贈ったのです。賢治が世話になった人々へ送りながら、のこされた父の悲しみが少し和らいだことと思います。賢治の最後の親孝行だったかも知れません。賢治の死後、18年たってこの父は真言宗から法華経の日蓮宗へ改宗したのです。
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それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
法華経の遺言は人の気持ちを理解することのできる賢治の父への最後の親孝行であったと私も思います。
昔の田舎で改宗は大変な決意が必要であったと思いますが、父もまた賢治を深く理解し平穏に涅槃の境地に入られたのでしょう。
「たまゆらひらめく」
美しい言葉ですね。
いろいろ深いことに気づかせていただき感謝しております。
コメント有難う御座いました。
賢治さんは優しい人だったのですね。優しすぎて傷ついたことも沢山あったのではないかと思っています。
なにか痛々しい人生ですね。
有難う御座いました。
敬具、後藤和弘