修行とは仏教において精神的鍛練をして悟りに至るためにする行為です。
早朝から読経をしたり、嫌な雑草取りをしたり、断食をしたり、滝に打たれたりすることも全て修行と言います。
それが転じて修業と書き、全ての道をきわめる努力をすることを修業といいます。
芸の修業をする。武者修業をする。学問の修業をする。あるいは花嫁修業などという言葉もあります。
わたしの祖父は曹洞宗のお寺の住職たったので修行という言葉は身近かにありました。
いきなり話は飛びますが、私が山林の中の小屋に独りで泊まりに行くのは、遊びでもありますが、少し精神鍛錬の意味もあります。ほんの少し修行をしようという気持ちもあります。今日は趣味の中に含まれる修行の説明をしたいと思います。
まず人里に別れをつげて、山林の中の小屋へ行く道の写真をしめします。
この道を上がる時、なんとも言えない自然へ対する畏敬の念とある種の怖さを感じます。
怖さを乗り越えるのが修行とも思っています。すると間もなく写真のような小さな小屋に至ります。
6畳と4.5畳のブロック鉄筋コンクリートの小屋です。ガス・水道の無い小屋です。電気だけはありますが周囲は大きな樹木に囲まれていて夜は真っ暗闇になります。寒冷地なので薪ストーブを焚きます。薪は周囲の森から拾ってきます。この作務も修行です。飲み水や食料や夜具はすべて車に積んで行きます。面倒ですがすべては作務修行という意味も少しあります。ですから作業はすべて丁寧に行います。
小屋の庭には上の写真のように小川が流れています。そのほとりの椅子に座って流を長い間眺めるのは座禅のようでもあります。
庭の小川は小屋の窓からも見えます。意味も無く長い間眺めています。それも修行かも知れません。
小屋の庭の落ち葉を熊手で集めて焚火をします。煙が林間へ流れて行き、この世でないような光景を作ります。あの世へ行く道の光景とはこのようなものでしょうか。
上の写真は室内の光景です。テレビもラジオもありません。静かです。薪が燃える音と小川の水音がするだけです。
小屋に泊まる時に一番頼りになるのは上の写真にある薪ストーブです。
部屋中がとても暖かくなります。お湯も沸かせるし、長時間、肉を煮て柔らかに出来ます。その肉を持ち帰ってシチューにします。
薪ストーブはすぐに薪が燃えつきて急に寒くなります。薪も自分で集めなければなりません。焚きつけるとき煙がもれて、小屋中に煙が充満します。自分が燻製になりそうです。手間暇がかかります。でもすべてが修行と思い、丁寧に作業をします。
寒い暗い夜が明けて朝日が射してくると、何故か生きていることの喜びが湧いてくるのです。
午前中は前の丘へ登る細い坂道の修理作業をします。昼食後、帰るために車で山道を降りていると、また楽な生活へ帰って行く喜びを感じるのです。
こんな修行を40年間も続けています。
精神鍛錬が出来たでしょうか?悟りが開けでしょぅか?
答えは否です。全然効果がありません。家に帰ると元の木阿弥です。
ですからこの山林の中へ泊まりに行くのは全然、修行になっていないのです。
修行のつもりの単なる遊びだったのです。自分の凡俗さぶりに驚いている今日、この頃です。
ですから修行という言葉の嫌いな方の気持ちが理解できます。結果的にとても偽善的なことなってしまうから、そんな言葉は使いたくないのです。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)