後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「年老いて振り返る我が人生(4)仙台の愛宕中学の高橋貞明先生の思い出」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後すぐに日本の学校制度が新しく変りました。占領軍総司令部の命令です。
仙台市には新制中学校が幾つも出来ました。私共が入学した第十中学校は昭和22年に発足しました。学校の名前はすぐ後に愛宕中学校と改称されました。我々はその二期生として昭和23年に入学したのです。
その頃の新しい中学校の先生は本当に生徒や学生を愛していたのです。情熱的でした。自分の家に子供たちを招んでくれました。今でも忘れられません。
特に忘れられないのが高橋貞明先生です。愛宕中学で我々のクラスの担任をしていた先生です。高橋先生は熱心に数学の授業をしていました。
忘れられないのは踏査部の部活で一緒に仙台のすぐ西に聳える泉岳に登ったときの励ましの声です。喉がカラカラになったとき頒けてくれた生ぬるい水の美味しかったことです。
この先生は踏査部やテニス部やバレー部や演劇部や科学部などの数多くの部活を作り、毎日放課後に生徒の指導に汗まみれになっていました。
私は踏査部と科学部と演劇部に入って高橋先生のお世話になりました。
とにかく新しい日本を作るのは君たちなのだと言いながら生徒達に心血を注いでいたのです。私たちの悪童連を何度も自宅に招んでくれました。
そして科学部のとき、「君は科学者になってノーベル賞を取りなさい」と言うのです。
私は科学者になりました。残念ながらノーベル賞は高嶺のまた遥かその上にあったのです。
愛宕中学校卒業後に60年ほどたってから仙台で愛宕中学校の同期会がありました。
その時、話題になったのは高橋貞明先生のことでした。みんながいろいろな部活で熱心に指導してもらった思い出を話しています。
当時の新制中学校には他にも生徒達を愛してくれた先生が沢山いました。
終戦後の新制中学校には確かな師弟愛があったのです。情熱があふれていたのです。
ここで仙台の様子を示す写真をお送り致します。
1番目から3番目の写真は2012年10月18日に私が仙台に行き撮った片平町、お霊屋下、鹿落坂、の写真です。
1番目の写真はタクシーの窓から片平町の東北大学を撮った写真です。正面の赤レンガの建物が私が卒業した東北大学の金属工業科です。

2番目の写真は片平町と向山を結ぶお霊屋橋です。この橋を渡って毎日、片平町の東北大学に通ったのです。

3番目の写真はお霊屋下から向山に登って行く鹿落坂です。毎日、東北大学に通った坂です。
伊達政宗の廟所は経ヶ峰という山にあります。その下の町をお霊屋(おたまや)下と言います。片平丁から広瀬川を渡って霊屋下へ行く橋がお霊屋橋と言います。霊屋下から広瀬川に沿って経ヶ峰の中腹を登って向山へ行く坂路を鹿落坂(ししおちざか)と言います。
私は24歳で仙台を出るまで、鹿落坂の上の向山に住んでいました。家の東北方向には愛宕山があり、東南の方向には伊達家代々のお墓のある大年寺山があります。家から西の方面は八木山という広大な森林地でした。経が峯も、愛宕山も大年寺山もそして八木山の一部も自然保護区なので何十年経っても昔のままの森林に覆われています。
話が仙台の愛宕中学の高橋貞明先生からそれてしまいました。高橋貞明先生の話に戻します。
先生は情熱的でした。自分の家に私達を招んでくれました。しかし24歳で仙台を離れた私は高橋貞明先生のことを忘れていました。
ところが約30年後の1993年の息子の東京での結婚式・披露宴に出席してくれたのです。息子の結婚相手の親類だったのです。私は懐かしのあまり涙が出そうでした。貞明先生は昔のまま若々しくはつらつとしていました。これぞ奇跡です。忘れられないことでした。

人生にはいろいろな事があるものです。
今日は仙台の愛宕中学で大変お世話になった高橋貞明先生の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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