以前から何故、北前船が栄え、一方太平洋航路の江戸ー大阪間の航路が北前船ほど重用されていなかったか不思議に思っていました。越前、越後、酒田などの日本海側の町々が裕福になっていた時代が続いたのか不思議に思っていました。
そこで最近自分のクルザー型ヨットでエンジンを使わずに出港したり、着岸したりして、江戸時代の操船の実験をしてみました。あるいは寒い雨の日に帆走して見ました。
蒸気機関のジーゼルエンジンも付いていない大型帆船を風の力だけで出港させたり、入港させるには風の向きが決定的に大切なことが骨身に沁みて理解出来ました。
その一方で、江戸時代に太平洋上の八丈島へ帆走する船の航海ぶりを調べて見ました。八丈島へ幕府の用で行く場合に使用する船は、八丈島預かりの江戸の大型官船で、長さ11間、巾3間の一本マストの外洋帆走用の船です。船頭と水夫9人が乗り込み当時としては頑強さ、航行能力に優れ頼りになる島通いの大型官船でした。
ある航海日記を見てみましょう。
1839年4月22日、一行は数艘の船隊を組み江戸の鉄砲洲を出発した。大島、利島、新島、神津島、を視察し、5月18日に三宅島へ到着した。ここまでは幸運にも風向きが良く問題なく帆走出来たのです。
しかし、三宅島からが苦難のセイリングとなったのです。それこそ地獄の帆走です。
5月27日三艘で、遠方に見える御蔵島へ出発。始めは風向きも良かったがしばらくして八丈島が見えだした頃、荒天になり一艘は転覆し、残りはなすすべもなく出発した三宅島へ漂着すます。
6月2日態勢を整えて出発するが、風が逆風になり大島まで戻ってしまう。
6月7日大島出港、八丈島直行を試みるが、式根島へ流される。
6月8日式根島を出て八丈島へ向かうが逆に伊豆の三崎港まで戻ってしまう。
6月27日式根島を出港し八丈島を目指す。
7月1日八丈島の見えるところに達するが、今度は西風に吹かれ、東の遥か太平洋上まで流される。200海里(370Km)も流された後、東風に変わる。この幸運を必死でつかみ西へ帆走する。ついに午後8時頃、八丈島の西の八丈富士の麓の小さな浦、荷浦に到着することが出来た。
三宅島を出発したのが5月27日、八丈島へ到達したのが7月1日でした。実に1ケ月以上行ったり来たりの地獄のようなセイリングだったのです。
三宅島と八丈島の間には黒潮の主流が西から東に流れ船は太平洋上へ流されやすいのです。
江戸時代は現在のような天気予報もGPSも無かったのです。その上、江戸時代の帆船は風下へは帆走出来ましたが、西洋の帆船のように風上に向かって登れなかったのです。西洋の帆船は風に向かって50度位は登れたのです。
太平洋を渡って大阪と江戸を結ぶ外洋航路は危険性が大きくて人々や物資を安全に運べません。
しかし若狭湾を出て、能登、新潟、酒田、松前へ向かう北前船の航路は安定した西風の吹く季節が決まっています。夏には南風が吹き、船を松前へ吹き寄せてくれます。秋も終わりに近づけば北風が吹き、船を越前、若狭へ送ってくれるのです。若狭に着けば荷物を陸路で琵琶湖の北端まで運び上げます。そこからは琵琶湖を縦断して、淀川を通って大阪へ行けるのです。松前には大阪や近江八幡の商人町が栄えていたのです。
日本海の帆走は太平洋に比らべると格段に安全なのです。東風が吹いて中国大陸の方へ流されても東風は間もなく西風になります。日本列島に縦に連なる山脈が東風を弱くします。たとえ沖へ、沖へと流されても日本海は大きな湖のようなものです。太平洋へ出る海峡は何処も狭くて、帆船が太平洋へ流されることはありません。江戸時代の帆走技術では日本海側が最も安全で、利潤も多い航路だったのです。
それが明治維新と共に蒸気機関で回す外輪船やスクリューのついた帆船が西洋から輸入されるようになりました。すると太平洋岸の航路の安全性が格段に大きくなります。その上。欧米の貿易船は太平洋から来ます。どうしても太平洋岸の港の方が便利になります。函館、横濱、神戸、そして大阪、名古屋。東京の港が繁栄します。明治政府は太平洋側を重視し、東海道線や山陽本線の鉄道を開通させたのです。
結論を言えば、「帆走技術の進歩」が日本海航路より太平洋岸航路へと大変換をもたらしたのです。自分の帆走経験からの想像です。間違っていると思いますので、何方かご指導下さい。
下に寒い雨の日のヨットの写真を示します。左は雨カッパを着てコーモリ傘をさして舵を握っている写真です。右はあまり寒いので舵を自働操舵にしてキャビンに入って小型プロパンストーブで手足を温めている写真です。江戸時代の帆船の苦しい航海を想像していました。
詰まらいない写真でご免なさい。
戦後の復興。アメリカへ追いつけ、追い越せ!このスローガンでひたすら努力して来た日本が現在、崩れ出しています。1990年の冷戦の解消とともに日本を襲ったバブル経済の崩壊以来、日本人は前向きの姿勢を捨てました。消極的になりました。
私は昭和11年生まれで、アメリカ軍による徹底的な空襲と焼け野原を見ています。戦後の荒廃を見ています。復興の意気に燃えたつ人々の上気した顔を見ています。自分も科学・技術が国際レベルまで上昇するように努力しました。研究につぐ研究に徹夜もしました。その頃は日本全体が仕事に打ち込んだのです。多くの工場は徹夜運転は当たり前でした。そしてオリンピックを日本で開催し、その後の経済の高度成長へつなげたのです。
1990年のバブル経済の崩壊後の10年間の低迷は許せます。しかし現在はもう20年になります。それなのに相変わらず人々はやる気が無く、経済も低迷しっぱなしです。中国は共産党独裁国家ですが、その中国の経済成長は物凄く、今年のGDPは日本を追い抜きます。アメリカに次いで世界2位になるのです。
日本がこのままずるずると崩れてゆく様子を見ていると大変心配になります。一体どうしたのでしょうか?あんなに自信に満ちていた日本人は何処へ行ってしまったのでしょうか?
日本の現状が何故このようになっているのかを皆様にお教え頂ければ大変嬉しく思います。どうぞお教え下さい。
11月30日に、恵那峡の写真をお送りいたします と題して恵那峡をご紹介いたしました。少し違った印象の写真を2枚追加致します。恵那峡の魅力は写真だけではなかなかお伝えできないような気が致します。それでつい追加したくなりました。前の記事と合わせてお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。
(1)クリスマスの常識です!
ローマ帝国の占領地であった中近東にイエス様が生まれました。ローマから派遣された総督がその地方を統治しています。丁度、マッカーサー司令官が敗戦後の日本を統治していたような状態です。その地方はユダヤ教の地でした。
現在のイスラエルの死海のそばのナザレという町があります。そこに大工のヨゼフとマリアが住んでいます。ある年に2人は旅に出ます。当時のローマ皇帝が全領土の人口を正確に調べることにしたためです。ヨゼフとマリアは自分の郷里のベツレヘムへ行き登録しなければならないのです。この政策ではローマ帝国領の住民全員が出身地へ帰って戸籍簿へ登録する必要があったといいます。
ヨゼフとマリアがベツレヘムという町の郊外にやっと着いたときは夜も更け、どの宿屋も満員でした。仕方が無いので馬屋の中の少しでも温かい所に寝ることにしました。明け方に、マリアが一人の男の子を産みます。生まれた赤子は飼葉桶の藁の中に寝かせました。イエスはこうして生まれたのです。
飼葉桶の赤子は成長して、新しいユダヤ教を広めました。それが、キリスト教と呼ばれる宗教に育っていったのです。イエス様は異教徒や下層に生きる人々を差別なく大切にしました。
ユダヤ民族もあらゆる民族も差別しないという教義のためギリシャ、ローマ、アフリカと広まり、ついには世界中に広まりました。
クリスマスは、この赤子がベツレヘムで生まれた誕生日です。もちろん2000年位前の大昔のことですから、正確な月日は分からないと考えたほうが正しいと思います。古くからヨーロッパに伝わっていた冬至祭と一緒になり、12月25日の明け方に生まれたということになりました。ですから24日はイエス様の生誕前夜祭(クリスマスイヴ)と言います。
(2)クリスマスの非常識・・・奇蹟を信ずることは非常識か?
キリスト教信者はイエスが2000年位前の実在の人間で、新約聖書に書いてある数々の奇蹟をおこしたと信じている人々のことを言います。またイエス様は神から遣わされ、後にピラト総督の裁判によって処刑され、3日後に復活し、現在は神の右の座についていると信じている人々です。
そして信者にとってはイエス様は現在でも生きていると信じています。毎日生まれているとも信じています。
このような人々の態度を非常識と笑い飛ばす人も居ます。特に日本には無宗教の人が多いのでクリスマスはプレゼントを交換して家族団欒の日として過ごします。それはそれで大変良い事です。しかし非常識の世界を少しだけ想像して過ごすのも良いものです。
(3)同行二人とは?
イエス様が貴方のそばに立っているという感覚を分かりやすく説明するとき、私は何時も四国のお遍路さんの気持を説明します。お遍路さんは「同行二人」と信じて苦難の道を歩き通すのです。同行二人とは弘法大師と自分の二人という意味です。いつも弘法大師様が付いてきて下さるから、苦しい道も歩き通せるのです。
弘法大師は民衆の苦しみを救う為に全国を旅した方です。慈愛に満ちた方でした。その方とイエス様は似たところがあります。そのように考えるとキリスト教がグッと身近に感じられます。
クリスマスの季節にキリストを少しだけでも身近かに感じる人は幸せです。
今日も、皆さまのご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人
霞ケ浦にも冬の陽が射すようになりました。あの暑い夏の日は何処へ行ってしまったのでしょうか?風波が一面に広がり、キラキラ輝いています。写真をお楽しみ頂ければ嬉しくおもいおます。
今日もエンジンをかけないで前の帆だけで出港する訓練をしました。港の奥から出口の方向へ西風が吹いていたので簡単に出港出来ました。風向きさえ良ければ簡単に出港出来るのですね。所が帰港はどうしても向かい風で、エンジンで接岸しました。蒸気機関もエンジンも無い時代の帆船の苦労を偲びながら、ヨーロッパの中世の風習を書いた本をゆっくり読んできました。前甲板に小さな文机を出して座布団に座って日記をつけたり本を読みました。背中から暖かい陽射しが差し込んでいました。
ひかるのさんとは2008年の春頃からのお付き合いでした。彼のバンコックやカトマンズで書いているブログに魅かれ、メールを送り、彼の撮った情感豊かな写真や文章を、何度も、私の、このブログでご紹介してきました。
その彼が2年前に日本へ帰ってきてインド刺繍とサリーの展示会をしたのです。展示会は2008年12月8日から神田、小川町で開催されました。
その時、会場で初めて彼にお会いしました。その後、2回も東京で「アジアの手織り布」の展示会を開きました。彼に会うのが楽しくて、毎回展示会へ行きました。
ところが2009年の暮れに急に肺ガンになり東京厚生年金病院に入院しました。2010年の1月下旬に家内とお見舞いに行った時が彼の元気な姿を見る最後になってしまったのです。抗癌剤の投与もむなしく5月に旅立ってしまったのです。まだ50歳を出たばかりの若々しいお姿を忘れられません。
時々、ひかるのさんを思い出して懐かしく思っています。
そこで以下に初めてお会いした時の記事を再び掲載し、彼のかぐわしい人間性を偲びつつ、ご冥福をお祈り致したいと思います。時の経つのは早いもので、もう年が暮れて行きます。
======2008年12月8日の掲載記事========
何度か掲載しましたように今日から「インド刺繍の世界・展示会」が神田、小川町で始まりました。東南アジアに住み着いて人々の哀歓を描いたブログを作っている「ひかるの」さんにお会いし、お話を聞いてきました。まだ50歳前後のお若い男性で、心豊かな方でした。お顔は半分インド人のように見えます。展示してある刺繍やサリーは、天然繭を原料にした絹に細かな刺繍をした見事な作品です。素人ながら一目で全て超高級品と分かりました。聞くとインド各地の絹織物の市場を半日歩いて一番美しい刺繍布やサリーを1点しか買わないそうです。そのように厳選した絹織物なので触ってみると何故か心が深い満足感で満たされます。
デパートのマネキンが着ている高級婦人服のような作品です。そこで売ったら数十万円で売れそうなものばかりです。そんな売り場へ卸せば良いのではないでしょうかと言いました。ところが日本の女性は有名ブランドの服飾なら数十万円でも買うが、どんなに最高の品でもブランドの無いインドのものは買わないそうです。自分の美的感覚で選び、品質の良い、着心地の良い服を買うという文化は日本からは消えてしまったと、ひかるのさんが悲しそうに説明してくれました。
展示会にあるものは、どれも数万円から数十万円する絹織物です。天然染料を用い、手で一点一点刺繍した作品です。機械・動力を一切使わない手織りの製品のみだそうです。
会場を貸してくれた「T女史」も手織り文化の素晴らしさに取りつかれた女性で、一緒に現在の日本の生活様式の底の浅さを嘆いていました。
ひかるのさんの展示会では安物は一切売っていません。インドの最高の手織りの絹織物の良さを日本人へ伝えたがっているようです。売ってお金を儲けようという気が無いようです。生活費は心配していません。しかし職業は持っていません。ただ南アジアの人々が好きで住んでいるだけです。T女史と小生がそんな人生が理解出来なくで質問を続けます。きっとお金持ちの2代目で困らないのですか?そんな質問をT女史もしていましたが、ひかるのさんはニコニコ笑うばかりでした。
結論をいうと、理解を超えた素晴らしい人生を送っているらしいということです。お会いし話を聞くと何か幸福感につつまれて楽しくなります。小川町から明治大学の前の坂を登ってJRお茶の水駅まで歩いている間中、この心地良い幸福感が身を包んでくれました。
寒い午後でしたが、春のように暖かさを感じながら坂を登ってお茶の水へ上がってきました。(終わり) 下の写真の撮影日時:12月8日午後2時頃
臨済宗、黄檗宗、曹洞宗などのいわゆる禅宗のお葬式で一番よく読まれるお経はインドの原語の発音のままの大悲心陀羅尼というお経です。日本語でもなく漢語でもないので意味が分かりません。そこで少し調べてみました。以下をご一読されると、お葬式の意味がより深くご理解になると思います。ご参考までにお送りいたします。 長くて申し訳ありません。
大悲心陀羅尼:
なむからたんのうとらやーやーなむおりやー ぼりょきーちいしふらーやー
ふじさとぼーやーもこさとぼーやーもーこーきゃーるにきゃーやー
えんさーはらはーえいしゅうたんのうとんしゃーなむしきりーといもー
おりやー ぼりょきーちい しふらーりんとうぼー なーむーのーらー
きんじーきーりーもーこーほーどー しゃー みーさーぼーおーとうじょーしゅーべん
おーしゅーいんさーぼーさーとー のーもーぼーぎゃー もーはーてーちょー
とーじーとーえん おーぼーりょーきー るーぎゃーちいきゃーらーちい
いーきりもーこー ふじさーとーさーぼーさーぼー もーらーもーらー
もーきーもーきーりーとーいんくーりょーくーりょー けーもーとーりょーとーりょー
ほーじゃーやーちいもーこーほーじゃーやーちい とーらーとーらー
ちりにー しふらーやーしゃーろーしゃーろー もーもーはーもーらーほーちいりー
いーきーいーきーしーのーしーのー おらさんふらしゃーりー
はーざはーざんふらしゃーやー くーりょーくーりょー
もーらーくーりょーくーりょー きーりーしゃーろーしゃーろーしーりーしーりー
すーりょーすーりょーふじやー ふじやー ふどやーふどやー みーちりやー
のらきんじーちりしゅにのー ほやもの そもこー しどやーそもこー
もこしどやーそもこー しどゆーきーしふらやー そもこー のらきんじーそもこー
もーらーのーらーそもこーしらすーおもぎゃーやー そもこー
そぼもこしどやーそもこー しゃきらーおしどーやー そもこーほどもぎゃしどやーそもこー
のらきんじーはーぎゃらやーそもこー もーほりしんぎゃらやーそもこー
なむからたんのうとらやーやー なむおりやー ぼりょきーちいしふらーやーそもこー
してどーもどらー ほどやー そもこー
意訳:仏法僧の三宝に帰依します。大慈悲をもつ観自在菩薩に帰依します。あらゆる畏怖において庇護するお方に帰依します。
私は観自在菩薩の威力をもつ青頸(観自在菩薩)の真言、すべての願いを成就する光輝に満ちた吉兆で、すべての悪鬼に打ち勝つ、迷いの世界を浄化する真言を読誦します。
すなわちそれは、次のようなものです。
オーン、光明よ。光明のごとき智恵を持つ者よ。世間を超越する者よ。オオ、ハリよ。偉大な菩薩よ。真言を心に念じ記憶したまえ。
その行為をなしたまえ。完成したまえ。(真言を)よく保ちたまえ。勝利者よ、偉大な勝利者よ。(真言を)よく保ちたまえ。優れた大地の主よ。行動したまえ。汚れなき者よ。汚れなき身体をもつ者よ。来たれ。世界の主よ。貧りとよぶ害毒を除きたまえ。愚かさから来る心の動揺を除きたまえ。取り去りたまえ。汚れを取り去りたまえ。流れ出たまえ。現われたまえ。進みたまえ。正覚したまえ。正覚を与えたまえ。
慈悲深き青頸(観自在菩薩)よ。求める者に姿を見せ歓喜させる者よ。
願いを成就せしものに。偉大なる成就者に。ヨーガの行法に自在なる者に。青頸に。猪と獅子の顔を持つ者に。一切の大成就者に。蓮華を手にする者に。円輪で戦う者に。ほら貝の音で開悟させる者に。大きな棒を携えた者に。左肩にまします黒色の勝利者に。虎の皮の衣服を着た者に。
三宝に帰依します。
聖なる観自在菩薩に帰依します。
すべての願いが成就しますように。真言の諸句に。
漢語で書いた、千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼(僧侶はこのテキストを読む)
南無喝囉怛那哆羅夜耶。南無阿唎耶。婆盧羯帝爍鉗囉耶。菩提薩埵婆耶。摩訶薩埵婆耶。摩訶迦盧尼迦耶。唵。薩皤囉罰曳。數怛那怛寫。南無悉吉利埵伊蒙阿唎耶。婆盧吉帝室佛囉楞馱婆。南無那囉謹墀。醯唎摩訶。醯唎摩訶皤?沙咩。薩婆阿他豆輸朋。阿逝孕。薩婆薩?那摩婆薩?。那摩婆伽。摩罰特豆。怛姪他。唵。阿婆盧醯。盧迦帝。迦羅帝。夷醯唎。摩訶菩提薩埵。薩婆薩婆。摩囉摩囉。摩醯摩醯唎馱孕。?盧?盧羯蒙。度盧度盧罰闍耶帝。摩訶罰闍耶帝。陀囉陀囉。地利尼。室佛囉耶。遮囉遮囉。摩摩罰摩囉。穆帝隸。伊醯伊醯。室那室那。阿囉參佛囉舍利。罰沙罰參。佛囉舍耶。呼盧呼盧摩囉。呼盧呼盧醯利。婆囉娑囉。悉利悉利。蘇嚧蘇嚧。菩提夜菩提夜。菩馱夜菩馱夜。彌帝唎夜。那囉謹墀。地利瑟尼那。婆夜摩那。娑婆訶。悉陀夜。娑婆訶。摩訶悉陀夜。娑婆訶。悉陀?藝。室皤囉夜。娑婆訶。那囉謹墀。娑婆訶。摩囉那囉。娑婆訶。悉囉僧阿穆佉耶。娑婆訶。娑婆摩訶阿悉陀夜。娑婆訶。者吉囉阿悉陀夜。娑婆訶。波陀摩羯悉陀夜。娑婆訶。那囉謹墀皤伽囉耶。娑婆訶。摩婆唎勝羯囉耶。娑婆訶。南無喝囉怛那哆羅夜耶。南無阿唎耶。婆盧吉帝。爍皤囉耶。娑婆訶。悉殿都。漫哆囉。跋陀耶。娑婆訶。
ソ連と中国による堅い鉄のカーテンが日本海を南北に厳然として存在していた時代が1991年にソ連の崩壊によって崩れ去りました。ウラジオストック基地の原子力潜水艦が数多く放棄され日本海は途端に平和になりました。
しかしそれから20年、中国の驚異的な経済成長が進み、中国が日本海は勿論、太平洋まで制海権を持とうと考えだしたのです。欧米と日本の植民地主義によって苦しめられ、屈辱的な思いをした中国民族にとっては一気に復讐する絶好のチャンスです。
沖縄沖や対馬沖、そして日本海へ中国は海軍を常時張り付けて、その武力を誇示するようになるのはすぐ真近かになっています。そのキッカケは鳩山さんの普天間基地移転を県外へという無思慮な発言にあると言ったら言い過ぎでしょうか?
尖閣諸島問題や延坪島砲撃は決して偶然起きたのではありません。中国の野心と北朝鮮のリスキーな冒険心が表に現れたのです。
この危険な兆候にアメリカはすぐに反応し、横須賀の原子力航空母艦を黄海へ派遣して韓国軍と共同軍事演習をしました。
そして原子力航空母艦は続けて沖縄近海に移動して、今度は日本との共同軍事演習をする事になっていようです。
これらの米韓、日米軍演習は従来参加しなかった原子力空母も参加しています。飛び立った最新鋭の哨戒機は上海や北京の防衛レーダーの電波をとらえ、その性能を調べることが出来るようです。
今回の共同軍事演習は急速に膨張しようとしている中国の野望を食い止める効果が有ります。食い止めることは不可能でも中国は国際ルールを守りながら、平和的に制海権を広げるようになるでしょう。
尖閣諸島に中国軍が上陸したら、日本の陸戦隊とアメリカの海兵隊が即刻奪回するというメッセージを送ったことになります。
中国が沖縄近海や西太平洋の制海権を一挙に手に入れようとしているこの時期に実行する共同軍事演習は歴史展開の方向を変える重大な効果を持つことになると信じています。
米軍基地は日本に不要だと主張するのは誰にでも出来ます。しかし中国の理不尽さを見せつけられた多くの人々は国際関係の厳しさに愕然とした筈です。
非常に残念至極な事ですが、平和と安全は適切な外交努力と充分な軍事力の両方があってこそ維持できるのです。
今日は沖縄近海と日本海の波静かならん事をお祈り致します。藤山杜人
小金井市東町1-45-21の連雀通りに面してタカハシ プランツという花屋さんがあります。花々が溢れていて、駐車場があるので時々寄って楽しんでいます。今日はシクラメンの花を買いながら写真を撮ってきました。冬になり庭の花が無くなる季節になると花屋さんの花々が途端に輝きだします。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。尚、この店の電話番号は、042-233-8407です。
HPは、http://members.jcom.home.ne.jp/chikoberry/takahashi_P/takahashi_p_hyoushi.html です。
「ウィキリークス」という言葉を検索すると日本語で数多くの暴露情報が簡単に見ることが出来ます。
公開されている情報は、(1)世界中の275ケ所にあるアメリカの大使館、領事館とホワイトハウス中央政府との間の秘密電報の電文、(2)アメリカ国防省本部と世界中に駐留する米軍との秘密電報の内容、の2つに大別されるようです。
超大国アメリカの外交交渉での秘密、そして軍事作戦上の秘密を全て暴露しようという今回のウィキリークスという組織の行為に対していろいろな意見が出ています。
(1)言語道断な犯罪行為なのでウィキリークスという組織の関係者は即刻逮捕して厳罰に処すべきである。別件逮捕、別件処罰でも良い。
(2)国家の重要な秘密を暴露することは国益を大いに損ない、アメリカの名誉も損なわれるので絶対に許せない。現行の法律の範囲で関係者を裁くのが良い。
(3)国家指導者は自分の権力拡大の為に汚いことをしがちなので情報公開はある程度するべきである。ウィキリークスという組織がしていることの全てを否定しない方が良い。公開する情報の選択が間違っているのがいけないののです。
(4)国家の重要性は認めるが、個人の自由を束縛すべきでない。合法的な方法で秘密情報を入手し、それを公開することは一向に差し支えない。
(5)個人の自由は国家によって一切束縛されるべきでは無い。その方が結果としてより良い社会を作ることになる。ウィキリークスという組織へ反対する人が多い程、より良い社会になりつつあるのだ。
(6)ウィキリークスという組織の行いの倫理性や非倫理性の議論を離れて考えます。すると結果的にはアメリカの外交交渉の力と軍事作戦能力が著しくそこなわれた事になります。同盟国として北朝鮮やロシアや中国に対峙している日本の立場もひどく傷ついたことになります。従って今後このような事が二度と起きないような防止策を徹底的に取るべきです。実害があった以上、ウィキリークスという組織の関係者の処罰はするべきです。
さて貴方は上に書いたどの意見へ賛同なさいますか?
国家の重要性と個人の自由の重要性の相対的な比較で、どの辺に折り合いをつけるか?これは国家観のバロメーターです。個人よりも国家を重要視する人は(1)の意見でしょう。国家より個人が大切にされるべきと思っている人は(5)の意見と思います。
前原外務大臣のような政治家や国家公務員の幹部は(1)の意見と思います。
大会社や大きな組織で働いて来た人は(2)の意見でしょう。
中小企業や小さなNPOのような組織で働いている人は(3)の意見でしょう。
フリーターや組織というものが一切嫌いな人は(4)の意見と思います。
(5)の意見はウィキリークスという組織の代表者が言っていることです。
(6)日本の国際的立場をアメリカと連動して常に考えている人はこの(6)の意見になります。
以上は今回の問題を分かりやすくするために簡略に整理した議論です。雑過ぎることは十分承知しています。
私自身は、(3)と(6)の意見です。皆様からのコメントをお待ちしています。
最後にzebra1192さんからのコメントをご参考までにつけて置きます。
========zebra1192さんからのコメント======
情報公開の必要性は理解出来るが、それには自ずと限度と云うものがあってしかるべきと思う。結局行き過ぎると法的に規制しようと言う様な動きに必ず結びつくと思う。(現に一部そうした動きもある様だが)兎に角自由を履き違え、何をやっても自分さえ良ければと云う風潮が余りにも蔓延り過ぎているのではないか。IT化の進化により、どんな情報でも一瞬の内に世界を駆け巡る時代である、またそれを悪用する形での情報操作は如何なものか。何れその反動は来るものと覚悟すべきかと思う。特に国と国の関係を左右するようなことは厳に慎むべきと思うが。情報をリークさせた人間は、世界の世論の沸騰をほくそ笑んでいるかも知れぬが、それこそ無責任と言うもの。(終わり) 投稿 zebra1192
下は目を休めるための写真です。清瀬市の金山緑地公園です。