人間は仕事を止め、悠々の身になると、住んでいる土地のの歴史や文化に強い興味を持つようになります。
明治維新以来の薩長土肥の政治家や軍人がどのように近代国家を作ってきたかという中央の権力の推移よりも、学校では教えない地方、地方の歴史が老境の好奇心を掻き立てるのです。
従って国内の観光旅行に行っても行く先々の地方の歴史を関連させて考えるようになります。
例えば北海道旅行では富良野や知床や、そして阿寒湖、屈斜路湖、などは雄大な美しい景観を見せてくれますが、あまり歴史的な魅力はありません。
その点、函館は江戸末期から開港され、ロシアやイギリスの領事館もあり古い教会もあります。
明治初年には新撰組と明治政府の最後の決戦もあり、土方歳三が壮烈な最後を遂げた町です。
したがって日本の近代化の過程で、北国にある函館がどのような歴史を歩んだか考えながら観光するのが面白いのです。
そんな旅日記を以下に示します。それは2012年の6月に函館に3連泊しながらレンタカーでめぐった旅でした。
普通の観光客が行く所もくまなく行きましたが、今日は墓地と古い教会の事だけを書きます。
地方の墓地の墓石を見ながら散策すると、その土地の歴史や当時の人々の感情がそこはかとなく分かってきます。
そこで函館でも、ロシア人墓地とその隣にある函館ハリスト正教会墓地を見に行きました。
ロシア人墓地には1859年に作られたアスコリド号の航海士のお墓も含めて43人のロシア人が眠っています。墓碑はみな大海に向いています。
はるか遠くの蝦夷の地で死んだロシア人の家族は墓参も出来ません。函館ハリスト正教会の日本人信者が供養を続けているのです。
私どもが訪れたときいはエゾハルゼミが、あの世からの声のように悲しい声でしきりに鳴いていました。目の前の函館湾の碧さが目にしみます。
函館は江戸末期から明治にかけてロシア文化の影響を深く受けた特別な地域だったのです。横濱や神戸よりもロシア文化の息づかいが強く感じられる土地です。
始めの2枚の写真にそのロシア正教の墓地を示します。
この墓地を訪れた後に、幕末から明治期の函館の人々の宗教への信仰の歴史を見るために山の手にあるカトリックの教会やロシア正教の教会やイギリスの聖公会の教会、そして仏教の築地本願寺の函館支部の大伽藍を見て歩きました。
次の3枚の写真にカトリック函館元町教会を示します。
この教会は1959年(安政6年)にフランス人の司祭、カション神父によって建てられた古い教会です。
私は旅先でよくカトリック教会を訪問するようにしています。巡礼というほど堅苦しい気持ちでなく、その地方のカトリックの歴史が分かって面白いのです。
明治政府がキリシタン禁止の高札を撤去したのは1875年なのです。
それよりもずっと以前の16年も前に函館のカトリック教会がフランス人神父によって造られたのです。
このカトリック元町教会は、以後、3度の火事にあいます。
現在、数多くの観光客が訪れる建物は1924年(大正13年)に出来たものです。
この教会の内部の中央祭壇と、会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻はイタリーのチロル地方の作品です。ときのローマ法王ベネディクト15世が寄贈してたものです。力強い作品です。美しい作品です。この教会全体が調和を持った一個の美術的な作品になっています。
このような函館の歴史は学校で教えません。大学受験の試験問題にも出てきません。
そんな地方の歴史を自分なりに調べて昔の人々の感じ方や人生の過ごし方を想像するのが楽しいのです。そしてそんな昔の人々の人生も一朝の邯鄲の夢なのだと想うのです。
邯鄲の夢については、9月11日に掲載した記事の「老境になると人間は驚異的に変わる(2)我が人生は邯鄲の夢と実感出来ようになる」 をご覧ください。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)