後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

このgooブログへ新しく引っ越して来た新参者です・・・どうぞ宜しくお願い申し上げます

2014年09月15日 | 国際・政治
こちらの「gooブログ」へ「後藤和弘のブログ」という名前で引越して来た後藤和弘という者です。
どうぞくれぐれも宜しくお願い申し上げます。

以前はOCN社の有料ブログでした。そのブログは2007年11月に始めました。毎日、毎日一生懸命に文章を書いて新しい記事を掲載してきました。

その2007年からの古い記事や写真の全てが、こちらの「後藤和弘のブログ」へ移転して来たのです。

以前のOCN社のブログは開設以来のやく7年間で、今日までの通算アクセス数が1153082件になりました。アクセス数は読者の延べ数より少ないものですが、それにしても延べ人数で100万人くらいの方々にご覧頂いたのです。

本当に有難いと感謝しています。

しかし、OCN社の都合でこのブログは今年の11月30日で閉鎖されることになりました。OCN社は「gooブログ」への引っ越しツールを送って来ました。

私自身にとって、このブログの引っ越しは大変ショックです。そして悲しい出来事です。
住みなれた町の近所の方々と別れて、新しい町へ引っ越したような気分です。近所の方々はみな見知らぬ人ばかりです。
以前は毎日平均600人くらいの訪問者がいましたが、新しいこちらのブログでは100人たらずです。淋しい感じです。

「後藤和弘のブログ」のこの誌面をご自分の「お気に入り」に加えて頂ければ幸いです。本当に感謝します。

考えてみると私も後期高齢者です。いつまでこうして新しい近所の皆様とおつきあいが出来るか判りません。しかしもう暫くはどうぞお付き合いの程をお願い申しあげます。

ブログを通うして、これから皆様に頂くご厚情は決して忘れません。有難うございます。

今日は皆様へのご挨拶として、過ぎ去った夏の思い出の花々の写真をお送り致します。7月と8月に数回通って撮ってきた都立薬草植物園の夏の花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様の末永いご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

懐かしきイギリスのスポーツカーの写真をお送りします

2014年09月14日 | スポーツ
1960年にオハイオ州立大学に留学したのですが、そこで多くの学生たちがイギリスの華麗なスポーツカーを乗り回していたことに驚きました。
博士課程のアメリカ人の同級生のジョージ・オートンさんも下の写真のイギリス製のスポーツカーを持っていました。
彼は空軍大佐でにB29に乗って数十回も日本の街々の焼夷弾攻撃に来た人でした。
とても親切で、下の赤いイギリス製のスポーツカーに私を乗せて何度も彼の家に招待してくれました。彼とは終生の親友でしたが数年前に亡くなってしまいました。

このスポーカーは神経質な車で運転が難しそうでした。気難しい貴婦人のような雰囲気のある車でした。
先月の8月28日に河口湖自動車博物館に行きましたら、この懐かしい車が展示してありました。そしてオハイオで学生がよく乗っていた同年代のイギリスのスポーツカーも数種類展示してありました。
1960年代の大人のアメリカ人は豪華なアメリカ製の大型乗用車に乗っていましたが、学生たちは中古の1950年代の車か比較的安価なイギリスのスポーツカーの乗っていました。
私も1953年製のダッジ・コルネットという大きな中古のセダンに乗っていました。あれほど乗り心地の良い車には、その後乗る機会がありません。
下に昔、オハイオでよく見た懐かしいイギリスのスポーツカーの写真をお送りします。
8月28日に河口湖自動車博物館で撮った写真です。

ついでに1960年にオハイオで買った1953年型のダッジ・コルネットの写真を示しておきます。

そして1962年に帰国後、東京で買ったマツダ・クーペ360の写真も示します。

A級戦犯の靖国神社合祀後、昭和天皇は靖国神社の親拝を止めたお気持ち

2014年09月14日 | 社会・経済
「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白鳥までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ」


上の文章は昭和天皇が1975年以降、靖国神社へ行っていない理由だと言われています。この言葉は当時の侍従長官の富田氏のメモとして2006年に公開されました。

こんどの昭和天皇実録公開ではこのお言葉は書いてありません。しかし「話があった」とだけ書いてあるそうです。
上のお言葉にある松岡は日独伊三国同盟を作った松岡洋介外務大臣であり、白鳥は三国同盟締結に狂奔した白鳥敏夫外務省顧問でした。
「松平の子の今の宮司」とは元海軍将校で靖国神社宮司の松平永芳氏のことです。彼がA級戦犯合祀を実行した宮司だったのです。
そして、筑波とは貴族院議員で松永宮司の前の宮司の筑波藤麿氏のことです。

昭和天皇は始めから日独伊三国同盟には強く反対していて、松岡洋介や白鳥敏夫を蛇蝎のごとく嫌っていたという話も戦後、世間に流れていました。

昭和天皇は日英同盟のような時代に戻したいと思っていたのです。ドイツやイタリアの独裁者と組むことに強く反対していたのです。

拙速な政策で300万人もの日本人の犠牲者を出したA級戦犯たちを憎んでいたのです。A級戦犯は欧米に対して犯罪を犯したのではなく愚かな政策の実行で300万人の日本人の犠牲者を作ったのです。この罪の償いはしなければなりません。
責任重大なのです。
昭和天皇は一般国民を大切に思っていたのです。国民を愛していたのです。

昭和天皇は昭和21年から29年にわたって、全国の津々浦々へ行幸なさったのです。
仙台市へいらした時は私は小学6年生の秋でした。小旗を振ってお迎えしました。
天皇は行く先々の各地の人々の群れに囲まれ、天皇の顔は明るく輝き、楽しそうでした。

この時ほど昭和天皇を身近に感じたことがありませんでした。
沖縄県以外は全国の都道府県をすべて巡幸されたのです。
沖縄県には一般市民を犠牲にした痛恨の思いがあったのですが、当時の政治情勢からついに行幸がかないませんでした。

そんなことを思い出させる最近の昭和天皇実録の公開でした。


以下に立川市にある昭和天皇記念館の写真をお送りいたします。
写真は2008年7月31日に訪問した時に撮ったものとHPから転載したものです。

なお展示室の右手上には6枚の大型液晶画面があり、87年のご生涯の映像が出ていました。

晩年にテレビ記者と会見したときのお元気な御声をかなり長時間聞くことができます。これは係の人に申し出ると見ることが出来ます。

展示室の中央には昭和10年から52年までご愛用になられた箱形ベンツ乗用車が磨きあげて飾ってありあす。たびたび新聞写真でみた懐かしい乗用車です。

詳しくは記念館のホームページ、http://www.f-showa.or.jp をご覧下さい。


日本民族の精神の強さと美しさ・・・良質な愛国心の薦め

2014年09月14日 | 社会・経済
最近、社会は急に右傾化し、軍備強化や集団自衛権の行使などの方向に走り出しました。
その結果、戦争が起きると恐れている人々もいます。

しかし、そう簡単に第二次世界大戦のような大戦争は起きないと思います。その理由は今や世界中は相互に大きな経済投資をし、外国に工場や支店を多数有しているからです。
この経済交流の深さが保険のようになっていて先進国同士の大戦争は起きにくい情勢にあるのです。

しかし最近、間違った愛国心が横行し、韓国や中国を悪しざまに非難している人々がいます。そういう行為は日本人の尊厳を傷つけ、日本人に対する国際的な評価をひどく下げているのです。

それでは良質の愛国心とはどういうものでしょうか?
善い愛国心は沢山ありますが、今日はその一つの例をしめします。

下に京都にある三十三間堂の写真を3枚示します。
一番目の写真の出典: http://buddy0104.blog38.fc2.com/blog-entry-624.html
二番目の写真の出典:  http://item.rakuten.co.jp/naka/61324/
三番目の写真の出典:  http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Sonota/33gendou.html

この三十三間堂にある千体の仏像は日本人の精神文化の象徴の一つです。
玄奘三蔵法師がインドへ旅して持って来た経典の教えが日本へ伝わり、日本人は連綿と仏教を信仰しています。

千年以上の長きにわたりお釈迦様の教えを信じることは日本民族の精神の強さと美しさを示しています。証明しています。
どんな迫害があっても佛教の教えをまもるというその精神は美しいものです。

迫害されても善いものを信じると言えば、江戸時代の250年間にわたる隠れキリシタンの揺るがぬ信仰心ももう一つの例です。

明治維新でフランス人神父が長崎に教会を建てたとき、隠れキリシタンが現れ、神父さんが日本へ帰って来るのを250年間待っていましたと言ったのです。このニュースは世界中に広まり、日本民族の精神の強さが称賛されたのです。

余談ながらこの隠れキリシタンの信仰告白は早すぎました。明治政府は江戸時代の禁教政策を墨守していたのです。長崎の隠れキリシタンは大勢逮捕され、本州の各地に流され、拷問に会いました。そして一部のキリシタンは各地で処刑されたのです。

それはさておき、日本人の仏教やキリスト教へたいする揺るがぬ信仰心は精神の純粋性とその強さを示しているのです。

このような日本民族の善い特徴を自慢することが一つの善い愛国心の実例です。そして精神力の強さを戦争の方向へ悪用しないようにすることも併せて重要なことです。
偏狭な愛国心は戦争への道です。他国を非難するのは戦争への道です。

もっと人間にとって普遍的なことで日本民族を自慢し、それを誇りに思っているかぎり戦争にはならないものです。
そんなことを考えさせるのは、最近の日本の右傾化現象のためなのでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)



秋の七草の花々の写真をお送りいたします

2014年09月13日 | 写真
秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花(万葉集・巻八 1537)
萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝顔の花(万葉集・巻八 1538)

朝顔は現在の桔梗のことです。

秋の七草に関する行事は特にありませんが、秋の俳句や和歌にうたいこまれていて日本人の好きな花々です。

一番目の写真は萩、
二番目は尾花、
三番目は藤袴、
四番目は桔梗、
五番目は撫子、
六番目は葛、
七番目は女郎花です。
写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89 です。

老境になると人間は驚異的に変わる(3)地方の歴史や文化に強烈な興味が湧いて来る

2014年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は仕事を止め、悠々の身になると、住んでいる土地のの歴史や文化に強い興味を持つようになります。

明治維新以来の薩長土肥の政治家や軍人がどのように近代国家を作ってきたかという中央の権力の推移よりも、学校では教えない地方、地方の歴史が老境の好奇心を掻き立てるのです。

従って国内の観光旅行に行っても行く先々の地方の歴史を関連させて考えるようになります。

例えば北海道旅行では富良野や知床や、そして阿寒湖、屈斜路湖、などは雄大な美しい景観を見せてくれますが、あまり歴史的な魅力はありません。

その点、函館は江戸末期から開港され、ロシアやイギリスの領事館もあり古い教会もあります。

明治初年には新撰組と明治政府の最後の決戦もあり、土方歳三が壮烈な最後を遂げた町です。

したがって日本の近代化の過程で、北国にある函館がどのような歴史を歩んだか考えながら観光するのが面白いのです。

そんな旅日記を以下に示します。それは2012年の6月に函館に3連泊しながらレンタカーでめぐった旅でした。

普通の観光客が行く所もくまなく行きましたが、今日は墓地と古い教会の事だけを書きます。

地方の墓地の墓石を見ながら散策すると、その土地の歴史や当時の人々の感情がそこはかとなく分かってきます。

そこで函館でも、ロシア人墓地とその隣にある函館ハリスト正教会墓地を見に行きました。

ロシア人墓地には1859年に作られたアスコリド号の航海士のお墓も含めて43人のロシア人が眠っています。墓碑はみな大海に向いています。

はるか遠くの蝦夷の地で死んだロシア人の家族は墓参も出来ません。函館ハリスト正教会の日本人信者が供養を続けているのです。

私どもが訪れたときいはエゾハルゼミが、あの世からの声のように悲しい声でしきりに鳴いていました。目の前の函館湾の碧さが目にしみます。

函館は江戸末期から明治にかけてロシア文化の影響を深く受けた特別な地域だったのです。横濱や神戸よりもロシア文化の息づかいが強く感じられる土地です。

始めの2枚の写真にそのロシア正教の墓地を示します。


この墓地を訪れた後に、幕末から明治期の函館の人々の宗教への信仰の歴史を見るために山の手にあるカトリックの教会やロシア正教の教会やイギリスの聖公会の教会、そして仏教の築地本願寺の函館支部の大伽藍を見て歩きました。

次の3枚の写真にカトリック函館元町教会を示します。

この教会は1959年(安政6年)にフランス人の司祭、カション神父によって建てられた古い教会です。


私は旅先でよくカトリック教会を訪問するようにしています。巡礼というほど堅苦しい気持ちでなく、その地方のカトリックの歴史が分かって面白いのです。

明治政府がキリシタン禁止の高札を撤去したのは1875年なのです。

それよりもずっと以前の16年も前に函館のカトリック教会がフランス人神父によって造られたのです。

このカトリック元町教会は、以後、3度の火事にあいます。

現在、数多くの観光客が訪れる建物は1924年(大正13年)に出来たものです。

この教会の内部の中央祭壇と、会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻はイタリーのチロル地方の作品です。ときのローマ法王ベネディクト15世が寄贈してたものです。力強い作品です。美しい作品です。この教会全体が調和を持った一個の美術的な作品になっています。

このような函館の歴史は学校で教えません。大学受験の試験問題にも出てきません。

そんな地方の歴史を自分なりに調べて昔の人々の感じ方や人生の過ごし方を想像するのが楽しいのです。そしてそんな昔の人々の人生も一朝の邯鄲の夢なのだと想うのです。

邯鄲の夢については、9月11日に掲載した記事の「老境になると人間は驚異的に変わる(2)我が人生は邯鄲の夢と実感出来ようになる」 をご覧ください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

朝日新聞社長の謝罪とアメリカの新しい中東戦争の決断・・・重大な国内ニュースと国際ニュース

2014年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は重大な国内ニュースと国際ニュースがありました。どちらも大げさに言えば歴史的な方向転換のニュースです。

昨日の国内ニュースでは、朝日新聞の木村伊量社長が記者会見をして、福島原発事故後に東電社員が吉田所長の命令に反して逃げ出したという誤まった記事を掲載してしまったと謝罪したのです。

そして続いて慰安婦問題でも誤った記事を掲載し続け、またその事の訂正も非常の遅れたことも謝罪しました。

私はこの最近の一連の朝日新聞の謝罪の様子を見ながら、これは朝日新聞の営業方針の歴史的変換かも知れないと考えるようになりました。

朝日新聞は戦前は軍部に協力し、経営を安泰にし、戦後は政府権力に徹底的に反対することで販売部数を拡大してきました。そして共産主義的な記事を掲載し、日教組や知識人の支持を集め、日本を代表する高級なクオーリティー・ペーパーという名声を確立したのです。

高級なブランドが好きな日本人の好みにあわせ販売部数も増加させ、現在は下の表のように読売新聞についで第二位の790万部の発行部数を誇っています。

=======日本の新聞各社の発行部数=============http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%96%B0%E8%81%9E より。

順位紙名発行部数発行所
合計(うち夕刊のみ)
1読売新聞(讀賣新聞) 約992万部 (約346万部) 株式会社読売新聞東京本社
株式会社読売新聞大阪本社
株式会社読売新聞西部本社
2朝日新聞 約790万部 (約308万部) 株式会社朝日新聞社
3聖教新聞 約550万部

聖教新聞社

4毎日新聞 約341万部 (約105万部)

株式会社毎日新聞社

4 

中日新聞
東京新聞
北陸中日新聞
日刊県民福井
約338万部 (約82.6万部) 株式会社中日新聞社
5日本経済新聞 約302万部 (約161万部) 株式会社日本経済新聞社
6中日新聞 約273万部 (約56.6万部)

株式会社中日新聞社

新聞の発行部数は広告収入確保のために相当に水増ししていますので信用できません。

しかし朝日新聞は読売、毎日、中京系列新聞、日本経済新聞と並んで日本を代表する新聞であることは間違いありません。

朝日新聞が従来の反政府と共産主義シンパの経営方針を墨守していると、今後発行部数が減少の方向に変わると可能性があります。そこで経営陣は大きな路線変更の判断をしたと私は観察しています。

世の中は安倍政権の政策もあって右傾化の時代に入ったのです。共産主義は凋落したのです。こんな時代に掉させば朝日新聞の販売部数は減る一方です。

この辺で大胆に経営路線を変えないと現在の地位も凋落する恐れがあるのです。

ですからこそ社長会見までして大げさに謝罪したのです。しかし共産党シンパから軍国主義シンパへの路線の変化はそう簡単ではありません。年月がかかると思います。

今後の朝日新聞の変化を観察して行きたいと思っています。

さて、もう一つの重大な国際ニュースはアメリカはイスラム国への空爆をイラク国内に加えてシリア国内へも拡大する決定をしたことです。

空爆だけでなくイラクとサウジアラビヤへ合計1500人の軍事訓練要員を送り込みイスラム国との戦争を優位にしようとする決定をしたのです。

この決定にフランスに賛成し、空爆にフランス空軍も参加したいと発表したのです。

これは中東における新しい性格を持った戦争なのです。

イスラム国がその勢力をシリアとイラク北部に拡大し一つの国家として独立宣言しています。この動きに激しく反対しているのが現在のイラク政府、イラン政府、シリアのアサド政権、クルド人武装集団、アラブ首長国連合、サウジアラビアなどのイスラム諸国など数多くの国々がイスラム国を退治しようとしているのです。

この対立のまったく新しいことは、今まで敵同士として戦ってきた国や武装勢力が協力してイスラム国を抹殺しようと軍事作戦をしていることです。その上、この戦争にアメリがリーダーとなってに参戦すると言い出したのです。

これはオバマ大統領自身も言っているとうり過去のアフガニスタン侵攻やイラク戦争、そして湾岸戦争とは全く違う性質の戦争なのです。

戦争は悲劇です。中東に新しい難民が増加するのです。実に嘆かわしいことです。

今後、注意深く見守るべき新しい歴史だと私は考えています。下に関連の画像を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

 As20140809000342_comml1_2

上の図の出典: http://www.asahi.com/articles/DA3S11291764.html

Hqdefault1

上はイスラム国の爆破攻撃の様子:出典は、

http://derstandard.at/2000003539275/Irak-IS-zerstoert-Grab-des-Propheten-Jonas


秋深きファッションの色彩・・・デパートは季節を先取りします

2014年09月11日 | 写真

今日は家内が秋の洋服を買うというので車で立川の高島屋に行ってきました。

婦人服売り場はすっかり秋です。それも晩秋の雰囲気です。

静かな色の取り合わせが面白いのでスケッチを描くつもりで写真を撮って来ました。
写真を5枚お送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

Img_0638

Img_0640

Img_0646

Img_0643

Img_0642


老境になると人間は驚異的に変わる(2)我が人生は邯鄲の夢と実感出来ようになる

2014年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム

若い頃からいろいろな本を読みました。そうしたら「老人になってみないと分からない」という表現があります。老人にならなければ絶対に理解出来ない感じ方や、ことわざや、思想があるというのです。

若い頃は、その言葉が出てくるたびに反発を感じ、しまいには不愉快になったものです。若い頃はこの世のことは全て理性で理解出来るはずだと信じていたのです。ですから「老人にならないと理解出来ない」と言われると自分が馬鹿だと言われたような気分になり、不愉快になるのです。 

しかし自分が後期高齢者から晩期高齢者にさしかかって来ると、成程、そうだ、そのとうりだと膝を叩いて理解出来ることがどんどん増えてきたのです。

その一つに、「人生は邯鄲の夢」という言葉があります。

唐時代の小説にある話です。出世を望んで旅をした若者が、邯鄲という国のある旅籠で粥が出来上がる間に居眠りをして、自分の一生の夢を見るのです。 しかしフト目覚めてみると、まだ粥が出来ていません。若者は人生とはそんな儚い夢なのだと悟って出世の欲を捨て郷里へ帰っていくというお話です。

この唐時代の小説は長い時代をとうして日本人へ深い影響を与え続けています。

この話は、どんなに出世をし、偉くなり、華やかな人生を送ってもそれは粥の出来る間の短い夢にすぎないというのです。一つの人生観なのです。 そして人生には毀誉褒貶や浮き沈みがつきものですとも教えているのです。どんなに苦しいことがあっても、どんなに楽しいことがあっても全ては一朝の夢なのです。 

老境にいたればこの人生観を深く理解出来ます。深く同感出来るのです。

若い時や現役の間は自分の人生は、努力によって立派な価値あるものに出来ると信じていました。そして一方では大きな失敗も何度か経験しました。成功して歓喜し、失敗して落胆していました。

 このように自分の人生に体をぶっつけて取り組んでいる間は、人生は一朝の夢だとは考えられないのです。

 しかし仕事も一切止めて、数年間、毎日、山川の景色を眺め、花々を愛して暮らしていると次第に、我が人生は邯鄲の夢だったと実感出来るようになるのです。 

そして親や、おじおば達が、そして恩人、親しい友人、知人が次々に旅立ってゆきます。 そうすると彼等の人生もすべて邯鄲の夢のように思えるのです。

ついでに書けば邯鄲の夢だからいい加減な生活をしなさいと言っているのではありません。同じ夢なら楽しい夢にする努力が必要だと私は信じています。

しかし私の人生は本当に短い夢だったと強く実感します。したがってやっと「邯鄲の夢」とい言葉の深い、深い意味が理解出来たのです。 

老人にならなければ絶対に理解出来ない感じ方や、ことわざや、思想があるというのは真理なのです。  

今日の挿絵代わりの写真は9月4日に三鷹市花と緑の広場で撮った秋の花々の写真です。                                         

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料:唐の沈既済の小説『枕中記』の明快なあらすじ=========

 唐の玄宗の開元年間のことである。

 呂翁という道士が邯鄲(河北省、趙の旧都)の旅舎で休んでいると、み すぼらしい身なりの若者がやってきて呂翁に話しかけ、しきりに、あく せくと働きながらくるしまねばならぬ身の不平をかこった。若者は名を廬生といった。
 
       やがて廬生は眠くなり、呂翁から枕を借りて寝た。陶器の枕で、両端に孔があいていた。

眠っているうちにその孔が大きくなったので、廬生が入っていってみると、そこには立派な家があった。

その家で廬生は清 河の崔氏(唐代の名家)の娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となり、
トントン拍子に出世をしてついに京兆尹(首都の長官)となり、また出で ては夷狄を破って勲功をたて、栄進して御史大夫部侍郎になった。
 ところが、、、、http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-066.htm へ続く。

Img_0540

Img_0563

Img_0525

Img_0536

Img_0518


老境になると人間は驚異的に変わる(1)原発反対も慰安婦騒ぎも遠い風景になる

2014年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

人間は老境に至ると考え方が驚くほど変わるようです。もちろん死ぬまで変わらない人もいますが、一般的には考え方が変わるのが自然です。

私は自分の老境を3つの時期に分けています。初期高齢者と後期高齢者と晩期高齢者の3期です。

まだ私は78歳ですが、そろそろ晩期高齢者になりつつあると自覚しています。

今朝はその証拠を2つ、3つ書いてみます。

後期高齢者の始めの頃は、原子力発電の危険性をいろいろな視点から詳細に書いてきました。そして日本のように狭い国では原発を止めて、火力発電、水力発電、風力発電、太陽光発電にすべきと主張してきました。

そして慰安婦問題では朝日新聞の誤報を厳しく糾弾しながら、一方で日本が朝鮮を併合した負の遺産をいろいろな角度から書いてきました。

とにかく原発問題も慰安婦騒ぎも自分の身近かの大問題だったのです。

しかし最近はそのような問題は遠い風景を見ている感じになってきました。

夏の夜に遠方で見える打ち上げ花火の風景のように見えます。遠い夜空に美しい花が咲いて、暫くしてからドンと音が聞こえてくるのです。

どんな大問題も目くじら立てて議論したり嘆いたりしなくなったのです。

そうして、全ての問題は、現在の若い世代の賢さを信じ、彼等に任せるべきだと思うようになりました。

こういう境地を悠々自適の境地と言うのかも知れません。

このようになると、自分でも驚くほど、自然の営みに関心が強くなります。

例えば下の3枚の写真は昨日撮った自然の営みの写真です。

Img_0597

上は夕暮れ近い小金井公園の風景です。こんな何でもない風景が限り無く美しく感じるようになります。晩夏光、蝉しぐれ、新涼・・・などの懐かしい言葉が浮かんできます。

Img_0610

そして上はその公園に咲いていた小さな花です。その繊細さが感動的な花です。

家内と一緒に散歩しながら、このような平和そのもののような風景に私は溶け込んでしまいます。すると原発問題も慰安婦騒ぎも遠い、遠いある国の風景のように思えるのです。

そして家に帰り、夜は仲秋後の満月を眺め、昔読んだ「かぐや姫」の物語を思い出して楽しみました。下がその時撮った満月の写真です。

Img_0634

それはそれとして、老境にある人々にも子孫のために安全な日本を残すべきと主張する人も沢山います。彼等はまだ初期高齢者か後期高齢者であって、まだ晩期高齢者ではないのです。

それはそれで大変良いことです。

死ぬ最後の日まで政治問題や社会問題を身近に感じ、喧々諤々の議論をしている人も立派です。そいう方々は青春の心のまま死ぬのです。それも良いものですね。

人それぞれ、どちらでも良いのです。どちらにしても私にとっては遠い夜空に咲く花火のような風景に感じられます。

このように老境になると考え方が驚くほど変わるのです。その様子を「老境になると人間は驚異的に変わる」という題の連載記事として書いて行きたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


日本語は韓国の古代語、そして伽耶(加羅)が日本の古墳文化の源

2014年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム

老境になると自分の国の言葉や文化の源が何処なのかが気になりだすものです。

私も素人勉強でその謎に挑戦しています。

大雑把に言えばアイヌと朝鮮と中国と南方系の民族がそれぞれの文化を背負って日本列島にやって来て日本人を作り、日本文化を作ったことは間違いないと思います。

しかしそれぞれの影響は時代、時代によって非常に違う筈です。そんな思いで今日も日本の古墳時代のことを検索しながら読んでいました。

そうしたら3世紀kら6世紀にかけての古墳時代は圧倒的に朝鮮半島の影響を受けていたことが分かりました。

その研究結果は、http://web.joumon.jp.net/blog/2009/01/688.html に掲載されています。

この文献は公平な歴史観にもとずいた明快な説明なので、是非皆様へもお薦めしたいと存じます。

その趣旨は、現在の日本語にも韓国・慶尚道の方言の影響を深く受けているという主張です。

そして3世紀から6世紀ころの日本の古墳文化の源はこの慶尚道にあった伽耶(加羅)であった証拠を並べているのです。

私も埼玉県の巨大古墳群を何度も見学しましが出土品の馬具、剣や装身具があまりにも慶州の古墳と酷似しているので古墳文化の源はこの慶尚道にあったという説明に強く賛同しています。

それでは以下に、http://web.joumon.jp.net/blog/2009/01/688.html からの抜粋文をご紹介いたします。

・・・・私には、日本語と韓国語をかたっぱしから比較していくなかで、漠然とはしているけれどもわかってきたこがあった。それは、まだ確信には至らなかったが、「ああ、日本語というのは韓国・慶尚道の方言なんだ」ということである。ひとつひとつの言葉を対象してみると、「どうも、これは慶尚道の方言だなあ」という思いが強くなったのである。

 慶尚道とは現在の朝鮮半島の東南部一体を指すのだが、この地方の方言は韓国のなかでも非常に特殊なことで有名で、実は、この特徴が日本語の特色に非常に似ていることに気づいたのである。
 たとえば、韓国語のなかでも慶尚道の方言は非常に省略が多いことで有名である。現代の韓国語で「ハンダヘド」という言葉がある。ところが、これを慶尚道では、「ハン」をとってしまって、「タヘド」と言ってしまう。もっと省略するときには「ハンダ」まで省略し、さらに「ヘド」もH→Kの音韻変化をきたして、「ケド」と言う。こういう言い方は慶尚道以外ではしない。韓国広しといえども、「ハンダヘド」を「ケド」などというのは慶尚道だけなのだ。それくらい省略するのである。

ここまで言えば、もうお気づきのことと思う。この「ハンダヘド」の慶尚道方言は、そのまま日本語の「けど、だけど」となるのである。
 もっとわかりやすい例をあげよう。韓国語の命令語に「ハセヨ」、「ハシヨ」、「ハシラ」、「ハセ」というものがある。慶尚道方言の最大の特色は「ハ」音の脱落である、ということをもう一度思い起こしてほしい。これから「ハ」音をはずすとどうなるだろうか。それらは「セヨ」、「シヨ」、「シロ」、「セ」という日本語の命令形語尾になるではないか。

・・・このような事例が他にも重なって、私は「日本語というものは慶尚道の方言だ」という確信をもつようになったのである。

下は現在の韓国の地図です。

200711%252F07%252F16%252Fb0000816%255F11592542%252Ejpg.bmp

慶尚道とは慶尚北道と慶尚南道を合わせた地域で、とくに慶尚南道を中心とする地域は3世紀~6世紀に「伽耶」と呼ばれていた地域です。その時代は、まさに日本の支配民族が渡来した時期であることを考えると、日本へ渡来した人々や文化の中には「伽耶(加羅)」の要素がその言語とともに色濃く浸透している可能性があるということです。

Three_Kingdoms_of_Korea_Map.bmp(5世紀頃の朝鮮半島)

・・・中略・・・・

澤田洋太郎氏は「伽耶は日本のルーツ」(93年)の中で、考古学的視点から以下の根拠により日本人の原郷を伽耶地方だとしています。
弥生時代の北九州地方と伽耶地方の遺跡や発掘品を比較すると、
双方非常によく似ていて、若干、北九州の方が新しい。
環濠集落や銅剣、鏡、管玉の意匠が、そっくりであること。
双方で、そっくりの馬よろいが発見され、騎馬民族系譜であること。
墓制がそっくりで、石槨はあるが、棺はないという騎馬民族の特徴があること。
この騎馬民族的特長は、百済や新羅にはないこと。・・・・後略

以下の詳細は、http://web.joumon.jp.net/blog/2009/01/688.html ご覧をになって下さい。

このように朝鮮半島南部の文化が日本文化へ大きな影響を与えた時代がまぎれもなく存在していたのです。

しかし大和朝廷が確立し、中国大陸ヘ直接、遣隋使や遣唐使を何度も送るようになると都の道路が長安に習って碁盤の目ように整然とし、租庸調の税制も唐から直輸入するようになったのです。従って藤原京以後の日本文化は中国大陸がその源とするようになったのです。

江戸時代になりオランダの南蛮文化やキリシタン文化は入って来るようになりました。しかし依然として中国大陸の文化が尊重されていたのです。

それが明治維新によって一挙に西洋文化が怒涛のように流れ込んで来たのです。

そなことも考えながら、http://web.joumon.jp.net/blog/2009/01/688.html を読むと歴史の一ページとしても面白さがよく分かると思います。

老境の読み物としてご推薦できる文書を見つけたので、チョットご紹介いたしました。(終わり)


すべての民族文化は絶対に優劣が無い!・・・これが世界平和を保障する思想

2014年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム

小生は戦前生まれの戦後育ちの後期高齢者です。ですから1945年の日本の敗戦には非常に衝撃を受けました。日本民族が劣等民族だったのだと思い、落ち込みました。

しかし大学生のころにアメリカの比較文化人類学のルース・ベネディクトさんの本を読み感動したのです。

太平洋戦争で捕虜になった日本兵の尋問記録を数多く丁寧に調査し、戦前の日本文化を恥の文化と総括したのです。そしてその本には「すべての民族文化は優劣が無い」と強調してあったのです。

彼女の日本文化の研究はマッカーサーの占領政策にも影響を与えたことも有名です。アメリカの国務省が彼女の研究成果を日本兵の捕虜対策と占領政策を作るときに参考にしたのです。

それ以来、私は、「すべての民族文化は絶対に優劣が無い!」という台詞を何度も、何度も唱えています。外国で働くときの私の心の支えになったのです。この言葉のお蔭で私は堂々とした姿勢でいろいろな外国人と話が出来たのです。

ところが最近この言葉の重要性を再確認することが何度もあります。

それは一部の日本人が韓国や中国人を見下げて差別しているからです。その態度の裏には日本民族の文化がより優れているという無意識の心の動きがあるのです。

話は変わりますが、民族に優劣が無いのですから、ましてや日本のいろいろな地方に住む人々にも絶対に優劣が無いのです。

日本のどんな地方文化にも優劣が無いのです。東北弁も鹿児島弁も東京弁にも全く優劣が無いのです。人間は皆完全に平等なのです。

このような考え方を他人に強要する意図は毛頭ありません。

これは私が平穏な幸せな毎日を過ごすための「おまじないの台詞」なのです。

私は原始人的な部分を持っています。ですから「おまじない」が役に立ちます。

それはさておき、下にブータン民族、フィリピンの山岳民族、そして中国の少数民族の写真を示します。必ずしも経済的に恵まれてはいませんが、彼等の幸せそうな顔をよくご覧下さい。心の豊かさが感じられませんか?

彼女等の民族文化とそして日本文化には絶対に優劣が無いのです。そのように私は感じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

1

上のブータン民族の写真の出典: http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=187013&userflg=0

5599ac57572aa033b63a072d74db40a7_l1

上のフィリピンの山岳民族の写真の出典: http://photohito.com/photo/2163797/

W63351_2

上の中國貴州省の少数民族の写真の出典:    http://kubotahironobu.blog53.fc2.com/blog-entry-738.html


韓国の月見は日本より盛大に祝う

2014年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

Chuseok1

上の写真は旧暦の8月15日(新暦の9月の満月の日)に韓国人が用意する月見のご馳走です。ご馳走の向こうに飾ってある小さい位牌のようなものが先祖の霊です。

上の写真の出典は、http://lifeisreallybeautiful.com/tag/south-korea/ です。

韓国では旧暦8月15日を秋夕(チュソク、??)といい、その前日と翌日が公休日(祝日)となるそうです。

このため、多くの企業、施設も休みとなり、帰省する者も多く交通機関が混みあいます。

先祖の墓参りをし、新米で「松片(ソンピョン、??)」という餅を作り、上の写真のように祖先に感謝を捧げてお供えをするのです。また知り合と贈り物を贈り合います。このため英語では、コリアン・サンクスギビングデーと言うそうです。

日本では月が見える場所などに、薄(すすき)を飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、御酒を供えて月を眺めるだけです。韓国のように先祖の墓参りをしたり、家族が集まってお酒を飲みながら月見の宴をするのと比較すると、随分と簡素な月見です。

尚、中国や台湾では中秋節として盛大に祝います。中秋節は祝日となっています。月見の月餅が風物詩になっていますが、先祖の供養はあまりしないようです。

月見の習慣は中国で始まりましたが、韓国や日本へ伝承されるにしたがって内容が違ってきたのですね。満月の美しい季節なので月を鑑賞しながら悠悠とした気分になるのも良いと思います。

尚、下の写真は秋夕を祝う踊りです。韓国では月見の日を随分と派手に祝うのですね。出典は上の写真と同じです。

Nongak1


サウジアラビアに咲く花々の写真

2014年09月08日 | 写真

この前の記事で中東の内戦と映画、「アラビアのロレンス」のことを書きました。そこであの広大なアラビア半島にはどのような花が咲くのか気になって、調べてみました。

そうしたら、「沙漠に春がやって来た ―アラビアに咲く花― 」というブログを見つけました。

URLはhttp://hanglooose.at.webry.info/200602/article_5.html  です。

このブログから下に4枚の花の写真をお送りいたします。乾燥地帯だけに流石に花々は日本の花とは違います。お楽しみ下さい。25ba25bb25c725f925a425ce25b225d625a

2月、ここ、サウジアラビアの東部地区、ペルシャ湾に面したカフジの町。沙漠は雨を飲んで息を吹き返します。 町を一歩でると、いつも見慣れたカーキ色の大地は一面の緑に変貌しています。 2月中旬、沙漠はさらにその顔を変え、名も知れぬ可憐な花が咲き乱れます。花柄のじゅうたんは地平線まで広がっています。

25a325c325a325e925a325f325a325f425a

Cistanche lubulasa:
沙漠のつくしんぼ、砂の中からにょきにょき出てきます。背丈は40センチ。花は房下から咲き始め、2ヶ月で上まで咲き終わると茶色に枯れてしまいます。 根を掘ってみたら、茎よりも長く、その先にはじゃがいものような球根がついていました。

25c725f225b525c625a125bc25a325b225a

ー野菊ー
 春に最初に咲く花、沙漠の中にドライブに出かけると、360度の地平線の風景は黄色や白の花柄で一杯に彩られています。 菊に似た花で沙漠に一番多く、季節の最後まで咲いています

25a325c325a325e125a325eb25a325e925a

Cakile arabica:
沙漠どころか、会社の事務所、や道路のわきにも生えています。可憐なピンクの花は、花屋さんのない当地ではテ-ブルの上に切花として飾ります。


名画「アラビアのロレンス」と現在の中東の複雑な内戦

2014年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

現在、大規模な内戦の起きている地域はウクライナと中東地域とアフリカです。

ウクライナはもともとソ連の重工業のあった一共和国であり歴史的に見ても帝政ロシアの領土でもあったのです。軍需産業が集中しているウクライナ東部をロシアが占領したくなる強い動機があるのです。事の善し悪しは別にして東部のルガンクス州とドネツク州の大部分は親ロシア派の独立国になり、ロシアの傘下に入ることは仕方が無い情勢となっています。盗人にも三分の理があるので困ったものです。

さて一方、中東地域の複雑な内戦はますます混迷を深くしています。中世の部族戦争に欧米列強とロシアが自分たちの利権を確保しようとして軍備品を秘かに送り込んだり、アメリカのように堂々と大規模な空爆を行なっているのです。

遠方にある日本もいずれ派兵を要求される可能性もあるのです。

この中東地域の複雑な内戦を理解するには1962年、イギリス製の映画、「アラビアのロレンス」を理解すれば良いと思います。いかにも映画らしい傑出した作品でした。

話を簡単に言えば、オスマン帝国の領土だった中東で起きたアラブ人の反乱にイギリス軍がひそかに加担してロレンスを送り込んだという話です。反乱が成功するとアラブ人はロレンスを嫌い、追放します。ロレンスは失意のうちにイギリスに帰り、オートバイ事故で死んでしまうのです。砂漠のロマンと主人公の悲劇を感動的に描いた名作です。下にロレンスの写真を示します。

2013121800073361d1

そうして下に、もう一枚の写真 を示します。砂漠で井戸を見つけたロレンスとアラブ人の従者が立っているところに井戸の持ち主の部族の男が近づいて来る場面です。

Img357473d9zikazj1

井戸を持っている部族の男が従者のアラブ人をピストルで射殺してしまうのです。他部族の井戸を勝手に使ったら射殺です。アラブの掟です。一方、白人のロレンスは許されたのです。

この場面は現在、中東で起きている内戦 の性格を象徴しています。現在の中東の内戦は中世以来連綿として続いているアラブ人の部族戦争なのです。

水だけでなく、石油の出る油田が内戦の状況を一層複雑にしています。

そして訪米諸国の利権がからんでいるのです。下に第一次大戦中の1916年に出来た中東地域のロシア、フランス、イギリスの分割支配の地図を示します。出典は、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9   です。

Sykespicot19161

上の図は1916年のサイクス・ピコ協定による分割図です。濃い赤はイギリス直接統治、濃い青はフランス直接統治、薄い赤はイギリスの、薄い青はフランスの勢力圏。紫(パレスチナ)は共同統治領 です。

第二次大戦後この地域にはユダヤ教のイスラエル国家が出来、パレスチナ自治区が出来、アラブ人はそれぞれの部族国家を作ったのです。

その部族国家は自国の安全保障のためにアメリカ、イギリス、フランス、そしてソ連と緊密なしかも複雑な協定を作ったのです。

そして2001年9月11日にアメリカ本土内で同時多発テロ攻撃が起き、2011年には「アラブの春」の反乱がアラブ全域で起きたのです。

こうして手の付けられない部族戦争なりそれに欧米勢力が干渉しているのです。

とても日本人には理解出来ない性質の内戦なのです。この内戦は中世ヨーロッパを荒廃させた「30年戦争」と同じような性質を持っています。

日本人は賢明にこの内戦に巻き込まれないようにすべきです。巻き込まれないようにしながら中東からの石油や天然ガスを確保しなければいけません。日本にとって難しい問題なのです。

下にロレンスが爆破しようとしたオスマン帝国のヒジャーズ鉄道の線路の地図を示しておきます。現在の中東の部族国家が一つのオスマン帝国の支配下だった時代もあったのです。

日本政府の今後の外交に期待しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

Hedschasbahn_uebersichtskarte21