みのみん

関門海峡「壇ノ浦の戦い」


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今日の北九州(曇り)最高気温9度 最低気温4度
朝晩の冷え込み、まだ本番じゃないのかな~・・・
窓ガラスに結露が、少ないです(^-^;

そう言えば、道端にすみれの花が咲いていました( ゚Д゚)





平安時代末期、大きな権力を誇っていたとされる平氏。
皇族と血縁を作り、朝廷との関係を強め、さらには途絶えていた宋との交易も
復活させることで、莫大な富を得ていました。

これにより、平清盛(たいらのきよもり)は1167年(仁安2年)
太政大臣にまで昇りつめ、平安の世の中を掌握していたのです。
                             *ネットより引用






しかし、清盛は自らの繁栄ばかりを考え朝廷を顧みなかったため
後白河法皇(ごしらかわほうおう)や近臣達の反感を買い、追放されてしまいます。

そんな中、後白河法皇から平氏討伐の命を受けた源氏は
840余隻の船団を引き連れ挙兵。平氏軍の500余艘の兵船を迎戦(げいせん)し
源平合戦の戦いのひとつである1180年(治承4年)の富士川の戦いで勝利します。
                             
その後、1181年(養和1年)に平清盛は病死。支柱を失った平氏軍は戦力が低下し
1183年(永寿2年)の「一の谷の戦い」・1185年(文治1年)の
「屋島の戦い」でも敗れてしまいます。ついに最終戦となる壇ノ浦にまで追い詰められた
平氏は得意な海戦で最初は圧倒的に優勢だったのですが
途中から逆潮となったことが災いし1185年(文治1年)3月に敗北・滅亡。

また、船上でパニックに陥った多くの人々が次々と入水し、命を落としています。
そのとき、清盛の娘の子で、当時まだ6歳だった安徳天皇も乗船していましたが
清盛の妻であり安徳天皇の祖母である二位尼と
「三種の神器」のひとつ「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)を
抱いて海に身を投げました。
                             *ネットより引用

今から835年前、壇ノ浦戦い
先の対戦では、約4700個もの機雷が
関門海峡に投下されました。

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