「魚心あれば水心」 好意をもって接すれば、相手も好意に応じる。先方の気持ち次第で、こちらの態度も決まる。パソコンで調べるとこのようにあった。
元気な高齢者のことだ。その日もバイクに乗り「少し具合が良くない」と医者の診察を受けた。「これは」と大きい病院を紹介されて精密検査を受けることになった。
紹介の病院では肺が病と診断されて機械による呼吸となった。途中一週間程度機械から解放された時期があったがまたもとに戻り入院から約一月間で他界した。
保護者は家族。入院後二週目頃に子供さんから「寝たきりの看病が長くなると母が心配だから、そのような状態になれば延命措置は望まない」との意思表明があった。治療途中に「肺に水がたまったためそれを抜く処置をしたが誤って傷をつけた」と。しかし家族からはクレームは無かったと記憶している。
勧誘時には「緊張した部位の揉みほぐしは介護者がある程度しますよ」と説明があり、「初期はそうであったが先日からまったく無くなった」と嘆願のように話す被介護者。ある日、介護者業務には含まれない手のかかる行為であったため相談して時期をさだめ「しないことにする」と取り決めた。被介護者は困りその介護施設をあとにした。不自由を抱えているためさぞストレスがあっただろう。
「医者と一般介護者」はそれぞれの相手である「家族とリーダー介護者」により態度が変化する。それは普通のことだが、当事者でありながらその影響に抗す力のない「患者と被介護者」はその変化によるストレスをどのように癒せば良いか。
水ごころを持つ立場となる「医者も一般介護者」も人である。相手の出方次第で変わるとは言え、自分の良心に従って接して欲しい。「お世話になっております」と挨拶している日本人の謙虚さや共存している気持ちで。