最近、星の王子様の新訳本をよく見かける。
私は、内藤濯が訳した本しか読んでいない。
一瞬は読み比べてみようかと思う。
でも、何のためにとすぐ思ってしまう。
私にとっては内藤濯の訳が星の王子様で、他の訳はネオ星の王子様である。
同じように、新訳を最初に読んだ人にとってはその本が星の王子様であり、内藤あろうの訳本はネオ星の王子様なのだろう。
でも、訳した人が内藤濯の訳を既に読んでいたら難しいだろうなと思う。
私はフランス語が読めないので訳せないが、根っからのアホなので、フランス語から英語に訳された本を読んだことがある。
訳するときは内藤濯の星の王子様に影響されまくりであった。
色々な人が訳しても話の筋に違いはないだろう。
星の王子様が大勢の人に好かれていたのは、何となくセンチメンタルなところだろう。
王子様が好んでいた夕日の話も、誰もが共感するだろうシチュエーションでありながら、その夕日によって思い出されるものは人それぞれで異なる。だから、王子様が夕日を見て何を思ったとかは書いてはおらず、何度も夕日を見るのが好きだいう風にしか書かれていないのでしょう。
先日、久しぶりに海に沈む夕日を見た。
島根県の出雲大社から西にある簸川郡多伎町の「道の駅 キラリ多伎」というところからである。
以前、四国にいたので、瀬戸内海に沈む夕日はよく見ていた。最近は、山の中で暮らしているので海に沈む夕日を見ることがなかった。
やはり良いものである。
その時の写真を撮った。
うーん・・・・腕が・・・・・
海も良いけど、夕日は町中でもその一瞬をドラマティックにしてくれることがある。
東京にいた頃、高速を走っているときに見た夕日に染まっている新宿のビルや、ビルに消える際の大きな夕日を見たときは何となく幸せな気分になったものだった。
(幸せな気分になると何故か歌舞伎町に飲みに行くのであったが・・)
きれいな夕日が見られたときは、なるべく写真にとってパソコンで眺めようと思う今日この頃。
星の王子様ではないけれど、きれいなものは何度見ても良いでしょう。
ではでは。