・・12月の記録を整理した・・
東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、今回は、小田原をスタートしていよいよお江戸日本橋を目指して湘南の地にコースを移して歩くことになった。京都三条大橋を旅たってここまで2年8ケ月、今日が26日目。12月に歩くのは初めてのこと。一番日照時間の短い冬至の日と天皇誕生日をあえて歩くことにした。(前日はさった峠を富士山みたくて歩いた)
◎12月22日-「小田原→大磯→平塚」
◎12月23日-「平塚→藤沢→戸塚」
[12月22日-小田原→大磯→平塚]
前泊した小田原駅前のホテルを午前7時25分に出発。前回ゴールの小田原宿の東の出入り口だった江戸口見付跡が今回のスタート、そこまで足慣らしを兼ねてゆっくり向かう。江戸口見付跡についたのが7時53分。スタート予定を40分としていたので13分ほど遅れてスタートした。曇り空だが心配していた寒さはさほど感じなくていい歩きができそうだ。
日のコース、小田原から大磯、平塚までの公式距離は18.5キロ。手持ちの資料では20キロ。実際は迷ったり道をさがしたり、史跡めぐりをするので23-25キロくらいと想定して1キロごとの通過時間の目安を前夜、地図に書き込んでおいた。なにしろ一年でもっとも日照時間の短い冬至、午後4時までにゴールしないとまずい。休憩時間も毎回500枚前後は撮るデジカメ撮影時間もすべて含めて時速3キロ。ただ歩くだけなら簡単だが、二度と歩くことのない東海道だから、急ぐのはもったいなくて時間の許す限りいろいろ見て歩きたいのだ。
この小田原→平塚間は、箱根駅伝の7区(4区)にあたり駅伝距離は21.3キロ
どう見てもまっすぐ走る駅伝コースのほうが短くて、回り道の多い東海道のほうが長いはずだが公式距離は旧東海道が短い、なぜだかわからない。
江戸口見付跡をスタートしてすぐ、山王神社で今日の交通安全祈願をする。山王橋を渡りまっすぐにすすむ、この辺りは道路沿いにお寺が続く、なんでも鎌倉より小田原のほうが寺院が多いとか、昔から人口が多かったのだろうか。途中から登校する高校生と一緒になった。J高校の手前の信号を右へ入り新田義貞の首塚を訪ねた。
再び1号線に戻りコースはJ高校交差点を横断し八幡神社前へ寄り、再び1号線に戻り酒匂川にかかる酒匂橋を渡る、ここは広重の徒歩渡しの絵で知られているところ。橋から富士山が見えるらしいがあいにく、雲がかかって見えない。ここに渡しがあったらしい。そのまま延びる1号線をすすむ、連歌川の連歌橋を渡る、どんどんすすむ。寒さ対策もあるので信号で足止めされると体を動かすように、とくに足首とふくらはぎのケアは心がけるようにした。
日蓮上人ゆかりの法船寺の前を通り酒匂交番を過ぎ、大見寺に寄って、さらにしばらくすすむと松並木が見えてきた。印刷局入口から小八幡二丁目までの区間、なかなか立派な松並木が続いた。
小八幡三丁目を過ぎるとバス停一里塚前を通る、ここにはかって一里塚があったらしいが、いまは説明板が立っているのみ。歩道に面する塀に箱根駅伝の応援膜が取り付けられて正月の箱根駅伝が近づいていることを思わせる。若者が三人、正面から走り過ぎて行ったが、この区間を走る駅伝選手の練習なのだろうか。
森戸川にかかる親木橋・歩道橋に上ると歩いてきた方向に富士山が見えた、てっぺんに雲がかかっているがはっきり見えてしばらく鑑賞?あーうれしい。邪魔物の歩道橋もこういう時は展望台になっていい。
時間は9時24分。予定時間ではこの歩道橋で9時20分だからほぼ、遅れを取り戻した。
菅原神社を過ぎる辺りから道の右手、海側に歴史を感ずる古い建物が続く、看板も面白い。マリア観音像があるという真楽寺へ寄ってみた、親鸞聖人ゆかりのお寺だそうで手植えの菩提樹をみることができたが、尋ねる人影がなくマリア像をみることができなかった。
そのまま、JR国府津駅前を通過。この駅名、なにか記憶があるなあ・・・明治時代になって鉄道が敷かれたとき、確かここが箱根山を越える起点となり御殿場から三島へ出るルートが敷かれたところ、思い出した。海が近いせいか明るくて感じのいい街道を気持ちよくすすむ。農協前を過ぎ坂下道祖神前、大山道庚申塔前に行くと前方が上り坂になってきた。「車坂」だ。
史跡車坂碑と車坂いわれの説明板が立てられていて、太田道灌、源頼朝、阿仏尼らの詠んだ歌碑が並んでいる。ここが風光明美な坂道であったことを証明している。右側に太平洋が広がっている。旅人もこの峠からの眺めに疲れをいやされたのだろう。確かに景色はいいが、車の通行量も激しい。海の写真を撮ろうにも車が邪魔をしてなかなか撮れない。
車坂を上りきるとあたりの光景は左右に大きく広がり、ビルのない平坦な町並みの真ん中をまっすぐに一号線が緩やかに下っている、中村川にかかる押切橋の手前で小田原市から二宮町へ入る。
押切橋を渡りそのまま一号線の急な坂を上って行くと箱根駅伝の中継スポットになっている押切坂を行く、せっかくだから先にその坂道を上ってみた。うん、なかなか急な道が続く。
そしてもとに戻って旧街道の押切坂へ、古い屋並みの民家の庭に松屋本陣跡の碑が立っていた。さらにすすむと一号線と合流する手前に日本橋から18番目の梅沢一里塚があった。
再び一号線をすすむ。山西のバス停から左の道へ入ってすすむ、閑静な住宅街をすすむと三代将軍徳川家光ゆかりの等覚院へ寄った。ここは藤で有名らしくて大きな藤棚があった。
再び一号線に出てすすんでいくと二宮駅入口交差点に着いたので駅へまわってみた。11時7分、予定は11時。スタートして公式距離で10キロ、ちょうど今日の中間地点になる。まずまずのペースですすんでいるので一安心。ここで給水?休憩。温かいコーヒーが飲みたいなあ・・・Caféが目に入ると思わず入りたくなるが・・・がまん。
駅前のロータリーの大きなくす?の木の下に戦争体験をもとに書かれた小説「ガラスのうさぎ」にちなんで建てられたガラスのうさぎ像と伊達時影徳碑がたっていた。
ふたたび一号線にもどり、葛川にかかる塩海橋を渡るとまたまっすぐな一号線が向こうまで続いている、それを快調にすすむと大磯町に入った。
大磯町・・・なんと響きのいい名前だ。どんな街道が続くのやら興味津々。
六所神社入口の鳥居を撮っていたら自転車できたおばさんに
“危ないわよ!”と言われた。
あっけにとられ、一呼吸遅れて“すみません!”
そんなことはどうでもいい、とにかく事故が怖い、歩道を遠慮なく走る自転車はとくに怖い。常に注意して道の端を歩くようにして、細い道は振り返りながら歩くようにしているのだが、写真に気をとられていたことを反省、言葉をかけられたのは警告として受け止めてより注意して歩こう。
大磯警察署の手前で一号線から左の松並木へ入って行く。静かで閑静な住宅が続く。いいところだ、さすがに大磯。警察署前の松の切り株モニュメント。
不動川にかかる本郷橋を渡ると斜めに上り坂が続き左に県立大磯城山公園が見えてきた。ここは昼食と休憩地点に予定していたのでベンチを探してさっそくお昼。12時4分。予定は12時20分としていたから時間の貯金ができた。迷わなかったのと寄り道を最小にしたのがよかったのだろう。
昼食といっても昨夜の残り物のおにぎりとパン。途中で生姜飴を口にしていたので空腹感はないから十分、もともと歩く時はあまり食べない。
犬の散歩にきたおじさんとしばし話込んでいたら隣のベンチに同年齢くらいのご夫婦がきて弁当を広げ始めた、愛想のいい奥さん、どちらともなく話しかけて会話がはずんだ。ご主人がトイレに行ってなかなか戻ってこないうちに奥さんの心配ごとを聞かされた。65歳になった去年、自営業から引退した亭主が急に老けこんできたので心配になり、外歩きを誘って今日もここへ来たという。こちらの歳を言って自分の経験を話したら、とても興味を持ったようで励みにして歩くと夫婦で言ってくれた、こちらの記念写真を撮ってもらって、夫婦の写真も送るからと撮ってあげたら喜んで住所氏名をメモ書きしてくれた。とても穏やかないい夫婦だった。ここで大幅に時間オーバー、早くついて貯金したばかりの時間も食ってしまった。
でも、そういう出会いが東海道の楽しいところ、ついでに予定していなかった城山公園の頂上へ上ってみたら富士山が見事にみえた。ラッキー。
さあ、午後のスタート、12時55分。吉田茂邸は去年焼失したはずだからパスして一号線に沿って歩く。やがて見事な松並木が見えてきた、本格的な松並木でこれは歩くのが楽しみだと思った。その松並木の入口、右に伊藤博文旧居跡の碑がたっていた。最近まではプリンスホテルの中華飯店だったらしいが店は閉められていた。
大磯の松並木は保存もよく歩道も遊歩道になっていて気持ちよく歩いた。とにかく大きくて高い松が多く、カメラには納まりきれない、業者が保存のためか何か作業をしていた。13時30分、予定の時間通り。
しばらくすすみ路地を入って旧島崎藤村宅に回り道した、ここは藤村が亡くなる前の二年間住んでいたところらしい。奈良の志賀直哉旧居よりこじんまりとした平屋だが文豪の住んだ家はとても雰囲気がよく似ていた。
一号線にもどり大磯町役場のとなりにある西行法師ゆかりの鴫立庵へ寄った。寛文四年(1664)小田原の崇雪が西行を慕って草庵を結んだのが始まりという日本三大俳諧道場のひとつといわれている。庭をゆっくりしていたら藤村旧居で出会って団体さんがやってきたので退散。
次へ急ぐ前に大磯の海岸へ出てみた。太平洋はすごい、大きくて広い、海岸も長い、白波が打ち寄せてくる、あわてて逃げる、それを繰り返す、じいさんの浜辺遊びには幼稚かな。
砂がセメントのようで驚いた。歩くのがむずかしい。
なにしろ瀬戸内海育ちで海のスケールも景色も砂も違う太平洋を目の当たりにして気分が爽快だった。一号線に戻り少し進むと明治の三大教育者の一人で同志社創立者の新島襄の終焉の地の碑が道路わきにきれいに祭られていた。
さらにすすむと大磯照ケ崎海水浴場発祥乃地の碑がたっていた。明治18年に日本最初の海水浴場としてこの地に開かれたそうだ。鴫立庵、大磯海岸でのんびりとしたために時間をとってしまった。このわずかな区間で予定より28分も遅れて14時18分になっていた。ここから一号線は左へ大きく曲がってすすむ。このあたりから大磯宿の中心地だったのだろう、古い建物が目についた。
尾上本陣跡、小島本陣跡の碑がたっていた。その間に藤村の墓所がある地福寺へも寄ってみた。大磯郵便局前、大磯駅への入口、を通って三沢橋を渡り左のみちへ、JR東海道線の地下道を通ってすすむと松並木の続く化粧坂へ続く。
化粧坂には物語があるのだがここでは省略。
この化粧坂をすすむと再び一号線に合流、金目川にかかる花水橋の手前までくると道路反対側のお寺から親鸞上人の像が見えたので予定はしていなかった善福寺へ入ってみた。住職さんなのか掃除をしていたのでわが家も本願寺派だと話しかけたら、わざわざ本堂の中へまで案内して、ご本尊の前に座らせてもらい、重要文化財の写真まで撮らせてもらった、おまけに2010年のカレンダーまでもらった。こんな出会いのハプニングは時間に関係なくうれしい。
大幅に時間がおくれてしまったが、金目川を渡り平塚市へ入る、ゴールまで残り少なくなって気が緩んだのか、手持ちの地図のページが変わるところで、一号線を右折しなければならないところを、新しいページで確認もせずそのまま進んだために多分500メートルは行き過ぎただろう。ここからあわてて引き返して一筋を間違えて路地だらけの住宅街に入り右往左往、まさかと思って尋ねたおばあさんが、なんとなんと、東海道を静岡まで歩いた経験がある人ですらすらとわかりやすく教えてくれた、それだけでなく、日が傾いてきたので気をつけて行ってくださいと励ましてくれた。まさか、まさか、玄関横の花の手入れをしていたあのお年寄りが・・・とにかくありがたかった。
平塚の塚、本陣跡・・・平塚宿の中心地であった跡を歩いてゴールの平塚宿の東出入り口、江戸口見付の碑に16時25分に着いた。16時を予定していたから25分の遅れでまずまずの初日の歩きだった。冬至の日の東海道を無事に歩き終えてほっとした。
今夜は平塚泊まり。明日はここから藤沢、戸塚へ向かって歩く。
東海道五十三次ひとり歩きシリーズ、今回は、小田原をスタートしていよいよお江戸日本橋を目指して湘南の地にコースを移して歩くことになった。京都三条大橋を旅たってここまで2年8ケ月、今日が26日目。12月に歩くのは初めてのこと。一番日照時間の短い冬至の日と天皇誕生日をあえて歩くことにした。(前日はさった峠を富士山みたくて歩いた)
◎12月22日-「小田原→大磯→平塚」
◎12月23日-「平塚→藤沢→戸塚」
[12月22日-小田原→大磯→平塚]
前泊した小田原駅前のホテルを午前7時25分に出発。前回ゴールの小田原宿の東の出入り口だった江戸口見付跡が今回のスタート、そこまで足慣らしを兼ねてゆっくり向かう。江戸口見付跡についたのが7時53分。スタート予定を40分としていたので13分ほど遅れてスタートした。曇り空だが心配していた寒さはさほど感じなくていい歩きができそうだ。
日のコース、小田原から大磯、平塚までの公式距離は18.5キロ。手持ちの資料では20キロ。実際は迷ったり道をさがしたり、史跡めぐりをするので23-25キロくらいと想定して1キロごとの通過時間の目安を前夜、地図に書き込んでおいた。なにしろ一年でもっとも日照時間の短い冬至、午後4時までにゴールしないとまずい。休憩時間も毎回500枚前後は撮るデジカメ撮影時間もすべて含めて時速3キロ。ただ歩くだけなら簡単だが、二度と歩くことのない東海道だから、急ぐのはもったいなくて時間の許す限りいろいろ見て歩きたいのだ。
この小田原→平塚間は、箱根駅伝の7区(4区)にあたり駅伝距離は21.3キロ
どう見てもまっすぐ走る駅伝コースのほうが短くて、回り道の多い東海道のほうが長いはずだが公式距離は旧東海道が短い、なぜだかわからない。
江戸口見付跡をスタートしてすぐ、山王神社で今日の交通安全祈願をする。山王橋を渡りまっすぐにすすむ、この辺りは道路沿いにお寺が続く、なんでも鎌倉より小田原のほうが寺院が多いとか、昔から人口が多かったのだろうか。途中から登校する高校生と一緒になった。J高校の手前の信号を右へ入り新田義貞の首塚を訪ねた。
再び1号線に戻りコースはJ高校交差点を横断し八幡神社前へ寄り、再び1号線に戻り酒匂川にかかる酒匂橋を渡る、ここは広重の徒歩渡しの絵で知られているところ。橋から富士山が見えるらしいがあいにく、雲がかかって見えない。ここに渡しがあったらしい。そのまま延びる1号線をすすむ、連歌川の連歌橋を渡る、どんどんすすむ。寒さ対策もあるので信号で足止めされると体を動かすように、とくに足首とふくらはぎのケアは心がけるようにした。
日蓮上人ゆかりの法船寺の前を通り酒匂交番を過ぎ、大見寺に寄って、さらにしばらくすすむと松並木が見えてきた。印刷局入口から小八幡二丁目までの区間、なかなか立派な松並木が続いた。
小八幡三丁目を過ぎるとバス停一里塚前を通る、ここにはかって一里塚があったらしいが、いまは説明板が立っているのみ。歩道に面する塀に箱根駅伝の応援膜が取り付けられて正月の箱根駅伝が近づいていることを思わせる。若者が三人、正面から走り過ぎて行ったが、この区間を走る駅伝選手の練習なのだろうか。
森戸川にかかる親木橋・歩道橋に上ると歩いてきた方向に富士山が見えた、てっぺんに雲がかかっているがはっきり見えてしばらく鑑賞?あーうれしい。邪魔物の歩道橋もこういう時は展望台になっていい。
時間は9時24分。予定時間ではこの歩道橋で9時20分だからほぼ、遅れを取り戻した。
菅原神社を過ぎる辺りから道の右手、海側に歴史を感ずる古い建物が続く、看板も面白い。マリア観音像があるという真楽寺へ寄ってみた、親鸞聖人ゆかりのお寺だそうで手植えの菩提樹をみることができたが、尋ねる人影がなくマリア像をみることができなかった。
そのまま、JR国府津駅前を通過。この駅名、なにか記憶があるなあ・・・明治時代になって鉄道が敷かれたとき、確かここが箱根山を越える起点となり御殿場から三島へ出るルートが敷かれたところ、思い出した。海が近いせいか明るくて感じのいい街道を気持ちよくすすむ。農協前を過ぎ坂下道祖神前、大山道庚申塔前に行くと前方が上り坂になってきた。「車坂」だ。
史跡車坂碑と車坂いわれの説明板が立てられていて、太田道灌、源頼朝、阿仏尼らの詠んだ歌碑が並んでいる。ここが風光明美な坂道であったことを証明している。右側に太平洋が広がっている。旅人もこの峠からの眺めに疲れをいやされたのだろう。確かに景色はいいが、車の通行量も激しい。海の写真を撮ろうにも車が邪魔をしてなかなか撮れない。
車坂を上りきるとあたりの光景は左右に大きく広がり、ビルのない平坦な町並みの真ん中をまっすぐに一号線が緩やかに下っている、中村川にかかる押切橋の手前で小田原市から二宮町へ入る。
押切橋を渡りそのまま一号線の急な坂を上って行くと箱根駅伝の中継スポットになっている押切坂を行く、せっかくだから先にその坂道を上ってみた。うん、なかなか急な道が続く。
そしてもとに戻って旧街道の押切坂へ、古い屋並みの民家の庭に松屋本陣跡の碑が立っていた。さらにすすむと一号線と合流する手前に日本橋から18番目の梅沢一里塚があった。
再び一号線をすすむ。山西のバス停から左の道へ入ってすすむ、閑静な住宅街をすすむと三代将軍徳川家光ゆかりの等覚院へ寄った。ここは藤で有名らしくて大きな藤棚があった。
再び一号線に出てすすんでいくと二宮駅入口交差点に着いたので駅へまわってみた。11時7分、予定は11時。スタートして公式距離で10キロ、ちょうど今日の中間地点になる。まずまずのペースですすんでいるので一安心。ここで給水?休憩。温かいコーヒーが飲みたいなあ・・・Caféが目に入ると思わず入りたくなるが・・・がまん。
駅前のロータリーの大きなくす?の木の下に戦争体験をもとに書かれた小説「ガラスのうさぎ」にちなんで建てられたガラスのうさぎ像と伊達時影徳碑がたっていた。
ふたたび一号線にもどり、葛川にかかる塩海橋を渡るとまたまっすぐな一号線が向こうまで続いている、それを快調にすすむと大磯町に入った。
大磯町・・・なんと響きのいい名前だ。どんな街道が続くのやら興味津々。
六所神社入口の鳥居を撮っていたら自転車できたおばさんに
“危ないわよ!”と言われた。
あっけにとられ、一呼吸遅れて“すみません!”
そんなことはどうでもいい、とにかく事故が怖い、歩道を遠慮なく走る自転車はとくに怖い。常に注意して道の端を歩くようにして、細い道は振り返りながら歩くようにしているのだが、写真に気をとられていたことを反省、言葉をかけられたのは警告として受け止めてより注意して歩こう。
大磯警察署の手前で一号線から左の松並木へ入って行く。静かで閑静な住宅が続く。いいところだ、さすがに大磯。警察署前の松の切り株モニュメント。
不動川にかかる本郷橋を渡ると斜めに上り坂が続き左に県立大磯城山公園が見えてきた。ここは昼食と休憩地点に予定していたのでベンチを探してさっそくお昼。12時4分。予定は12時20分としていたから時間の貯金ができた。迷わなかったのと寄り道を最小にしたのがよかったのだろう。
昼食といっても昨夜の残り物のおにぎりとパン。途中で生姜飴を口にしていたので空腹感はないから十分、もともと歩く時はあまり食べない。
犬の散歩にきたおじさんとしばし話込んでいたら隣のベンチに同年齢くらいのご夫婦がきて弁当を広げ始めた、愛想のいい奥さん、どちらともなく話しかけて会話がはずんだ。ご主人がトイレに行ってなかなか戻ってこないうちに奥さんの心配ごとを聞かされた。65歳になった去年、自営業から引退した亭主が急に老けこんできたので心配になり、外歩きを誘って今日もここへ来たという。こちらの歳を言って自分の経験を話したら、とても興味を持ったようで励みにして歩くと夫婦で言ってくれた、こちらの記念写真を撮ってもらって、夫婦の写真も送るからと撮ってあげたら喜んで住所氏名をメモ書きしてくれた。とても穏やかないい夫婦だった。ここで大幅に時間オーバー、早くついて貯金したばかりの時間も食ってしまった。
でも、そういう出会いが東海道の楽しいところ、ついでに予定していなかった城山公園の頂上へ上ってみたら富士山が見事にみえた。ラッキー。
さあ、午後のスタート、12時55分。吉田茂邸は去年焼失したはずだからパスして一号線に沿って歩く。やがて見事な松並木が見えてきた、本格的な松並木でこれは歩くのが楽しみだと思った。その松並木の入口、右に伊藤博文旧居跡の碑がたっていた。最近まではプリンスホテルの中華飯店だったらしいが店は閉められていた。
大磯の松並木は保存もよく歩道も遊歩道になっていて気持ちよく歩いた。とにかく大きくて高い松が多く、カメラには納まりきれない、業者が保存のためか何か作業をしていた。13時30分、予定の時間通り。
しばらくすすみ路地を入って旧島崎藤村宅に回り道した、ここは藤村が亡くなる前の二年間住んでいたところらしい。奈良の志賀直哉旧居よりこじんまりとした平屋だが文豪の住んだ家はとても雰囲気がよく似ていた。
一号線にもどり大磯町役場のとなりにある西行法師ゆかりの鴫立庵へ寄った。寛文四年(1664)小田原の崇雪が西行を慕って草庵を結んだのが始まりという日本三大俳諧道場のひとつといわれている。庭をゆっくりしていたら藤村旧居で出会って団体さんがやってきたので退散。
次へ急ぐ前に大磯の海岸へ出てみた。太平洋はすごい、大きくて広い、海岸も長い、白波が打ち寄せてくる、あわてて逃げる、それを繰り返す、じいさんの浜辺遊びには幼稚かな。
砂がセメントのようで驚いた。歩くのがむずかしい。
なにしろ瀬戸内海育ちで海のスケールも景色も砂も違う太平洋を目の当たりにして気分が爽快だった。一号線に戻り少し進むと明治の三大教育者の一人で同志社創立者の新島襄の終焉の地の碑が道路わきにきれいに祭られていた。
さらにすすむと大磯照ケ崎海水浴場発祥乃地の碑がたっていた。明治18年に日本最初の海水浴場としてこの地に開かれたそうだ。鴫立庵、大磯海岸でのんびりとしたために時間をとってしまった。このわずかな区間で予定より28分も遅れて14時18分になっていた。ここから一号線は左へ大きく曲がってすすむ。このあたりから大磯宿の中心地だったのだろう、古い建物が目についた。
尾上本陣跡、小島本陣跡の碑がたっていた。その間に藤村の墓所がある地福寺へも寄ってみた。大磯郵便局前、大磯駅への入口、を通って三沢橋を渡り左のみちへ、JR東海道線の地下道を通ってすすむと松並木の続く化粧坂へ続く。
化粧坂には物語があるのだがここでは省略。
この化粧坂をすすむと再び一号線に合流、金目川にかかる花水橋の手前までくると道路反対側のお寺から親鸞上人の像が見えたので予定はしていなかった善福寺へ入ってみた。住職さんなのか掃除をしていたのでわが家も本願寺派だと話しかけたら、わざわざ本堂の中へまで案内して、ご本尊の前に座らせてもらい、重要文化財の写真まで撮らせてもらった、おまけに2010年のカレンダーまでもらった。こんな出会いのハプニングは時間に関係なくうれしい。
大幅に時間がおくれてしまったが、金目川を渡り平塚市へ入る、ゴールまで残り少なくなって気が緩んだのか、手持ちの地図のページが変わるところで、一号線を右折しなければならないところを、新しいページで確認もせずそのまま進んだために多分500メートルは行き過ぎただろう。ここからあわてて引き返して一筋を間違えて路地だらけの住宅街に入り右往左往、まさかと思って尋ねたおばあさんが、なんとなんと、東海道を静岡まで歩いた経験がある人ですらすらとわかりやすく教えてくれた、それだけでなく、日が傾いてきたので気をつけて行ってくださいと励ましてくれた。まさか、まさか、玄関横の花の手入れをしていたあのお年寄りが・・・とにかくありがたかった。
平塚の塚、本陣跡・・・平塚宿の中心地であった跡を歩いてゴールの平塚宿の東出入り口、江戸口見付の碑に16時25分に着いた。16時を予定していたから25分の遅れでまずまずの初日の歩きだった。冬至の日の東海道を無事に歩き終えてほっとした。
今夜は平塚泊まり。明日はここから藤沢、戸塚へ向かって歩く。
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