初めに断っておきますが、筆者は愛知県の出身で、関東には26歳の頃から住み始め、勿論歴史的背景にも若干疎い。それと鎌倉幕府以前頼朝の時代以前は、当時は政権の中心は京都であり、近場の東海圏と違いファンが多い武将も少なく、有名人が少なく歴史小説の題材が少ないことも大きな要因であろう、関東圏が有名になったのは鎌倉以降であろう。
皮肉なことに人気者の九郎義経、木曽義仲などは関東圏の逸話も少ないのも原因であろう。皮肉なことにこの両名は頼朝に殺されるがそこまでには不明な事柄も多く空想の物語を解くることには面白さがあるのであろう、その辺りの小説は「司馬遼太郎」辺りは実に上手く話を面白く語る。
例えば九郎義経は頼朝と対面した22歳から31歳で自害するわずか9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、不明な点が多い。このような背景は歴史小説を物語にするには絶好の面白さを造る事ができる。
今年はジュニアの厄年である、厄祓いと称し、千葉の何処かの寺での厄祓いのお祓いに出かける。
知らない千葉も知りたいので、関東でも有数のパワースポット「笠森観音」に行ってみる事に・・・。ナビでの検索は自宅から約2時間ほどの工程である。
昔は釣り好きで外房、内房は知っているが千葉の長南の地理は全く疎いようです、カワハギ釣りの名所でよく通った船形の山の中腹に浮かぶ朱塗りの観音堂は「崖の観音」は有名で車内で見た程度です。途中混雑するも、おゆみ野を通過し道路もスムースに走るようになる。
笠森観音は“御来光の道”上にある、神秘的な場所です。周囲は清らかな森に囲まれていて、英気を養う厄払いには良いのかもしれない。また境内で授かれる「黒招き猫」は、強力な開運パワーがあると口コミで大評判なんです。
出発しておよそ2時間程で到着した、町営の大きな無料駐車場もあり環境も良い。早速徒歩にて登山口より階段を登る。相当厳しい勾配の階段が続く・・・途中の木々も相当太く歴史が感じる。
笠森寺は、延暦3年(784)最澄の開創で、坂東三十三霊場の第三十一番札所に数えられている。観音堂は後一条天皇の勅願で長元元年(1028)に建立されたと伝えられていたが、昭和35年(1960)の修理に伴う調査の結果、天正、文禄などの墨書銘が発見され、現在の建物の建立は桃山時代であることが判明した。
途中珍しい3本の杉の木がある。
梨花さんもご参拝!子授けご利益に篤い。木の中央部に空いた穴から官能有象が眺めることのできるスポットです。
そして山門近くにある、上総最古の芭蕉句碑が建っている。
元禄時代(1688~1704)の松尾芭蕉が俳聖としてあがめられるようになると全国各地に芭蕉句碑が建立されるようになった。
ここ上総国で建立された芭蕉句碑の最古のものが、安永6年(1777)に建立された笠森寺の芭蕉句碑である。
笠森寺の山門手前の崖の上に三基の句碑が並んで建立されている。中央の句碑が芭蕉句碑であり
『五月雨に此笠森をさしもぐさ』
左右にはそれぞれ各務支考、渡辺雲裏の『片枝に脈や通ひて梅の花』『すへられて尻の落着く瓢かな』の句碑が芭蕉句碑を守るかのように並んでいる。
建立者は笠森村出身の俗名中村義房と称する俳僧故貝であり、故貝の俳諧の師渡辺雲李の17回忌にあたる安永6年に建立されている。句碑建立のいきさつは、故貝の俳書『芭門花伝授』の一節『報恩塚記』や笠森寺境内にある「故貝基碑」によって判明する。 それらによると、故貝は晩年笠森に草庵を結び、天明6年(1726)70歳で没している。その間、江戸と笠森を何度も往来した寄稿文を残している。この3句碑は故貝の直接の師雲李の17回忌を期して、芭蕉、支考の3台の師恩に報いるために、江戸の俳諧仲間や故郷の俳諧村連の協力を得て建立されたことがわかる。
続いて鄙びた山門である。芭蕉もこの山門付近で休んだのであろう。
山門から観音堂を拝見する。
写真左にお土産屋があり黒の招き猫が有名だそうです。強力な開運パワーがあると口コミで大評判となっているそうです。
観音堂は後一條天皇の勅願により建立され、その建築様式は日本唯一の「四方懸造」。坂東三十三観音札所の第三十一番札所。
笠森観音の高台から見る景色は最高です。今から約千年前に立てられた建物で、しかもクレーン等の重機も一切無い時代にこれだけの建築物を造る技術は相当に高度である。
鎌倉幕府より古い時代から建立されたこの建物に時代を感じる瞬間でもある。
このように懸造は、本堂が造られた後に付加されるため建物の前面にあるのが普通ですが、鎌倉時代に建立された笠森観音堂は、はじめから岩山の頂上に造立されました。
周りを61本の束柱で支えた床高16mで、四方懸造といわれる特異な形態です。
周りを61本の束柱で支えた床高16mで、四方懸造といわれる特異な形態です。
大岩の上にそびえる観音堂は、61本の柱で支えられた四方懸造り(しほうかけづくり)と呼ばれる構造で、日本で唯一の特異な建築様式であり、国の重要文化財です。その四方が長い柱で支えられ巨岩の上に建立されているのです。全方向が清水の舞台状態ですね。
正式名称は「天台宗・別格大本山笠森寺」
伝教大師最澄上人が楠の霊木で十一面観音菩薩を刻み山上に開基した。
観音堂は長元元年(1028)年 後一条天皇の勅願により建立その後1度焼失し、現在の建物は解体修理の際発見された墨書銘から文禄年間(1592年-1595年)の再建とされています。
観音堂の 75段の階段を上がった回廊からは、四季それぞれに美しい房総の山々が眼下に眺められ、その景観は一見に価する。他にも重要文化財の鋳銅唐草文釣燈籠など多くの文化財も残されています。
側面から見ると、岩肌も露わになっている様子。
反対の側面は日本建築の美しさが観られる。
京都の清水の舞台と同じような造りとなっているようである。
1028年当時の図面が残っていたのであろう、伝統の日本建築の美しさである。このような建築物を見れば幕末蒸気船が来航して同様の船を作る日本人の物作り技術は素晴らしい、現在でも昔からの技術力は違いを感じる。
教科書では学べない尊い歴史がある国日本である。
五十代桓武天皇の延歴三年(七八四)、伝教大師が東国を行脚したおり、たまたま尾野上の山に至ると、山の頂に金色の光がキラキラ照りかがやくのをみた。「さて不思議なことよ」と光のあとをたずねてゆくと、平を摩するようにクスの大木がそびえていた。そして、その根かたのうつろに、小さな十一面観音像がはめ込まれていた。大師は、ただならぬ法の道にみちびかれ、この地に草庵を結び、このクスの木をもって、約二.二メートル(七尺八寸)の十一面観音像を刻み、庵のほとりに安置したのである。少将の君が尊崇したのは、この尾野上の十一面観音であった。
笠森観音入口付近、会場までの階段は急斜面であり、3階まで階段は続く。
入口付近の彫り物つくりがきれいである。
続いて本堂回廊からの景色は木々が成長し当時は良い眺めであったのであろう。
周り廊下になっていて、外の庭等が見下ろせます。
周りの木が生育し、景色はイマイチ感がある
そして館内で厄祓い。本堂は撮影禁止であった。
帰りは散策気分で階段を使わずに、お山を降ったが、相当急な下り勾配もあり意外とハードであった。山の背を歩く箇所もあり手すりもなくロープでの案内は危険であるので注意が必要であった。
これがかなり険しいくだり坂である、山下りはスニーカー着用が望ましい。
そして食事に、少し遠いが館山の館山市相浜漁協直営 相浜亭に向かう。
1時間少しで相浜亭到着である、ウツボの天ぷらが名物で楽しみである。
ヒルナンデス!やぴったんこカン・カンなど、数多くのメディアでも紹介される「相浜亭」では、館山市相浜漁業協同組合直営ならではの料理が堪能できる。定置網で水揚げされた魚や、海女が潜って獲ったアワビやサザエなどを使ったメニューが豊富。地元の人が太鼓判を押す『相浜亭の漬け丼』は旨い・安いで大人気。数量限定で完全予約制の伊勢海老天丼は、ぷりぷりの伊勢海老に衣にカレーの風味がついていて絶品。
生憎本日はウツボの入荷はなく、先日の火山噴火の津波の影響か、入荷が減っているようである。
女将おすすめはアジフライ定食、刺身と鯵のなめろう付きです。大きなアジフライ3枚は流石にお腹は満腹で、ご飯は残してしまった。
後は、帰りに古くからある由緒正しい、安房神社にも立ち寄る。桜の名所でもあり4月頃に訪れたい所でもある。
洲崎神社と通過し車は順調に流れた。さすが南房フラワー道路には菜の花が咲いていた。流石南房は早くも春の暖かである。
帰宅後玄関に笠森観音のご利益の多いと言われる黒の「招き猫」を飾ってみた。
今年も良い年でありますよう・・・・ブラボー!
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