前回の続きです。
その頃、私は日本将棋連盟の月刊誌「将棋マガジン」で、執筆をしており、名人戦米長名人対羽生挑戦者、第2局の取材で愛知県蒲郡の銀波荘へ行っておりました。
楽屋裏の控室では、立ち合いの先生、新聞記者に交じって私も話し込んだりしていたのですが、担当の加古明光記者に「この前、昭和10年に始まった実力名人戦ゆかりの将棋盤を手に入れました。それには昭和11年2月と関根名人の署名と、贈・阿部真之助殿とある」と話したところ、その盤を次の第3局に持ってこれるか」とのこと。
私は飛び上がって喜んで「ハイ、持ってゆくようにします」。
その3週後、奈良から山口県にある湯田温泉へ。
対局前日の検分でのこと。対局場には、2面の将棋盤が中央に並べられており、やがて対局者が入室。
一方の盤は既に予定されているモノで7寸近く、その横が私の盤で高さは5寸2分。その差は5センチくらいの違いがありました。
やがて、加古記者から、こちらは「実力戦ゆかりのもの」だとの説明があって、部屋は暫し静寂。
その間、およそ2分ほど。私は下手の片隅で息を殺しての緊張で、長い時間でした。
やがて、米長名人。「ヨシ、二つの盤を日替わりで使おう」。
私はホッと力が抜けたようで、初日に使っていただくことになったのでした。
盤には、米長名人によっての「曙」に、両対局者の署名。
「曙」は、将棋界の曙となった実力名人戦ゆかりの盤、という意味を込めて、これは私が寝ながら考えたもので、丁度その頃、横綱・曙も誕生し、私にとってはこれを取り持った加古記者の名前、明光(=曙)ということも含めてのものでした。
この続き。まだまだ。
ではこの次に。