熊澤良尊の将棋駒三昧

生涯2冊目の本「駒と歩む」。ペンクラブ大賞受賞。
送料込み5000円。
残部僅少ながら、注文受付中。

目次

作品 文章 写真 販売品

白の朝

2010-04-14 18:36:39 | 文章
4月14日(水)、曇り。

空は白、遠くは靄っています。

昨日は、夕方から急速に気温が低下、寒さが戻ってきました。
その寒さの中、彫り埋めが終わった「董仙」「錦旗」それぞれ2組づつを研ぎ出しをしました。
今日も、その続き。
そして「古水無瀬」も、そろそろ彫り始めようと思っています。




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ある原稿

2010-04-13 19:42:16 | 文章
4月13日(火)、曇り。

勤務していた会社の先輩から勧められて、OB会会報誌への原稿を作成しました。
駒に携わるきっかけやら、その後の経緯に触れていますので、ブログにも掲載しておきます。

[硝友会報/原稿、H22.4.15]

                     幸運の女神
                                       熊澤良尊
  硝友会の先輩方や同期の方々から相次いで手紙や電話を頂戴しました。3月23日付
 け日本経済新聞・文化欄に「水無瀬駒・王道の歩み」と題する小文が掲載され、それを
 ご覧になっての有りがたいお便りでした。この場を借りて重ねて御礼申し上げます。
   将棋の駒は「吹けば飛ぶよな・・」と歌われておりますが、安土桃山時代の水無瀬兼
 成という貴族が漆で書いた水無瀬駒は、端正な形と優美な文字・品格。そして作られた
 時代背景など、国宝か重要文化財になってもおかしくはない実用品であり歴史的工芸
 品なのですが、このことは残念ながら余り知られておりません。概略は記事をご覧いた
 だくこととして、ここでは小生の将棋駒との出会いや経緯近況についてご報告させてい
 ただきます。
                        ◇
  29歳の時、当時は専門の駒師が作るものとおよそ決まっていた駒の自作を思い立ちま
 した。独学でやり始めたところこれが楽しく、おまけに初作の駒が中原名人対加藤(一)
 九段の記念対局に使用されるという幸運で、やがて、駒の歴史研究にも手を染めるように
 なりました。たまたま深く研究されていない分野だったことに加え、周りの環境にめぐまれ
 たことが幸運でした。   
  出だしの頃、全国の将棋ファンに呼びかけて「駒づくりを楽しむ会」を立ち上げようと思い
 立ったとき、会社以外の業務を禁じた職務規則に違反しないかが気掛かりでした。
  当時の人事係長出原さんに相談すると言下に許可が出て、勇気百倍の力を得た思いで
 した。
  毎月の残業100時間を超える職務に日々精励する中、楽しい「駒」は、土曜・日曜・ 休
 日のほか、毎日は寝るまでの短い時間を充てました。1日24時間が短く、せめて2~ 3
 時間増えればという思いでした。8ページほどの会報紙発行を年4回。事績調査は専門
 誌を通じてレポート。その合間に行う自身の駒づくりは年間に4組程度。東京・横浜・大阪・
 京都・四日市で毎年仲間の作品を集めては作品展を開催。その間に趣味道楽の延長で
 上梓した「名駒大鑑」は唯一の専門書として評価され、大山名人が館長を務める将棋博
 物館に協力するうちに知らぬ間に顧問になるなど、「駒」がライフワークとなりました。
  40歳を過ぎたころ、家族の了解も得てゆくゆくは55歳での定年選択を思い描いており
 ましたが、平成7年52歳で早期退職する道を選びました。
  翌年、銀座大通りと心斎橋筋で開催した「熊澤良尊・駒づくりプロ宣言展」は、斯界の
 長老・原田九段の支援をいただいて「原田泰夫・書作展」とのコラボレーションが実現。
 これは望外の喜びでした。自ら提案した近代将棋誌への連載は「熊澤良尊・駒に生きる」
 のタイトル名を与えられて11年132回を重ね、この間、駒は名人戦などタイトル戦でたび
 たび採用されるようになり、ひとえに関係者皆様のお蔭と感謝しています。
  平成16年には、ひょんなことで奈良国立博物館「やまとの匠・近世から現代まで」展で、
 「谷川浩司書」など小生作の駒3点が奈良の著名な工芸作家作品とともに陳列されました。
 将棋駒が国立博物館で陳列されるのは初めてとのことだったそうで、これも人と人との繋り
 と幸運の賜物です。
  一昨年は福井県で室町幕府15代将軍・足利義昭が注文した象牙駒が見つかり、昨年
 は大阪府島本町の水無瀬神宮に遺されている安土桃山時代の駒が町文化財第1号に指
 定されて、幸いにもそのどちらにも立ち会うことができました。   
  ブログ「熊澤良尊 将棋駒工房」を始めて2年。今年67歳となりました。何かをやり続け
 ていると何処かで「幸運の女神」が微笑んでくれるようです。夢は400年前の水無瀬兼成
 卿にならい88歳で駒を作ること。「まだまだ健康で」これが私の願いです。(完)
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豊島五段vs澤田四段

2010-04-12 06:37:32 | 文章
4月12日(月)、曇り。

先ほど、ビデオに撮っていた昨日のNHKテレビ将棋、豊島五段・澤田四段戦を見終わりました。
見終わったと言っても、実際に眼を見開いて見たのは中盤から先の終局まで。
前半は、トーナメント表の解説と対局が始まるところで寝入ってしまいましたので、まだ見ておりません。近いうちにリピートして通しで見なければと思っています。
小生が見たのは後半の1/3ほどでしたが、互いに自己主張しあう好局でした。

昨日は、その二人にも名古屋の催しの会場で、指導対局する姿をお見かけしました。
指導対局とはいえ、真剣な眼差しで盤上没我。
当方も眼が合うことなしに失礼しました。
盤上没我といえば、久保2冠も同様で、盤に眼を落としたままで、当方が立ち止まっていた数分間は、指導対局の盤面以外には眼を向けることはありませんでした。
3人のそれが印象的でありました。

女流の熊倉さんと室田さんも指導対局でお見かけしました。
室田さんのお母さんとは、近くの将棋ブースで少しお話しました。
「今日は帰りに温泉に寄られるでしょう」。
   (エッー、なんで知っているんだろ)「・・・」
「ブログ見ていますよ」。
   (へーッ。伊緒チャンのお母さんもブログを見てくれているんだ)「そうでしたか。    ご覧いただいて有難う」。こんな会話からやり取りが続きました。
「娘さんが嫁がれている富山にも、時々行かれるんですね。私、富山の出身なんです」
   (ホウホウ)「富山はどちらですか」。
「井波です」。
    「砺波は、欄間とか伝統工芸の町ですね」
   (アレッ、欄間の城端はトナミではなく、イナミだったかな??)

伊緒チャンのお母さんとは、伊緒チャンが子供のころから四日市の「東海将棋ファンの集い」で、毎年お見かけしていましたが、昨年になってそれを知りました。
小生のブログは、富山にいる伊緒チャンのお母さんの叔母(伯母?)さんも、たまたま行き当たって、今も時折は見ていてくれているそうです。

有難いことです。
そして、今、毎日のようにご覧いただている皆様にも、「有難う」。
では、また。
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今日はナゴヤドーム

2010-04-11 20:46:51 | 文章
4月11日(日)、晴れ。

昨日の書き込みに対して、norisanから「同感」とのコメントをいただきました。
勝負の結果は後回しにして、それに至る1手1手の息詰るような応酬や対局室の様子を、最後の20手とかを30分くらい映像で見られれば、我々のような将棋ファンのみならず、一般の人でも感動するのではないでしょうか。
毎回、それを続けて欲しい。

毎回続けていれば、視聴率も、きっとアップするはず。
ある人に言わせれば、「そんなに放送枠の時間は取れない」と言うんでしょうが、現在の生の時間枠を多少削ってでも、醍醐味の味わえる録画でよいから、その方が喜ばれるはず。
NHKさん、頼みますよ。
十年一日のごとくでは、どうも・・ね。

ーーーー
今日は、ナゴヤドームへ行きます。
と言っても、野球ではありません。「アクティブシニアフェア」という催しです。
http://www.activeseniorfair.jp

昨年も出かけましたが、将棋もあります。
今日は久保2冠が来場。将棋以外にも面白い催しとかお店が出ます。
グルーっと見て回ると、2時間ほどかかります。

帰りはどこか、久しぶりに温泉にでもと思います。
第一候補は、四日市郊外の湯ノ山温泉のグリーンホテル。
1年ぶりの掛け流しの露天風呂がお気に入りです。

ーーーー
5月は祝賀会が目白押し。
2日(日)が、久保2冠はじめとする東播地域ゆかりの棋士後援会主催の祝賀応援会。
3日(月)が、森信雄先生一門会の祝賀応援会。レンチャンです。

そのほかこの前後に、久保王将、久保棋王、それぞれの就位式もあります。
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初局は羽生名人

2010-04-10 06:11:23 | 文章
4月10日(土)、晴れ。

穏やかな朝です。
昨日は、21時前テレビで最終盤の生放送が見られました。
盤前で両対局者が苦吟する画面。詰むかどうか。将棋ファンにとっては醍醐味の場面です。

あの映像が生で見られたのは眞にラッキーですが、放送関係者にお願いしたいのは、今後は毎回録画でもよいので、あのような場面を多く放送願えまいか。
最終盤は、繰り返し報じる手の予想や解説はほどほどにして、対局そのものの雰囲気をもっと見たいというファンが多いのではないでしょうか。
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只今帰着

2010-04-09 04:12:47 | 文章
4月9日(金)、晴れ。

昨日は封じ手の直前に東京を尾崎さんの車で出立。東名を下り名古屋市内で一人を降ろし、三重県白子で自分の車に乗り換えて先ほど帰着しました。

名人戦のオープニングパーティは、出席者350人とのことでした。
小生にとっては、久しぶりの上京なので、何年ぶりかでお会いした人も多く、行ってよかったです。
役1年ぶりに会ったのが、田中秀征さん。昨年高野山で初めてお会いして、当方の顔を覚えておられました。お互い、将棋が好きなんですね。
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いよいよですね

2010-04-08 07:12:44 | 文章
4月8日(木)、曇り。


小生、椿山荘は初めて。桜が満開をちょっと過ぎたところでしょうか。
その中で、いよいよ名人戦が始まります。

5局目が大阪。6局目が奈良。
せめて奈良までは来て欲しいです。
今日は、会場の雰囲気を味わったあと、適当な時間に帰ります。
写真は、椿山荘横の神田川の桜。
デジカメを持ってゆくのを忘れて、一緒に行ったHさんの携帯電話カメラを拝借して撮影しました。今回の映像はこれが唯一です。
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前夜祭

2010-04-07 02:41:55 | 文章
3月7日(水)、曇り。

昨日の午前中、調べ物があって、隣町の「国立国会図書館」へ行ってきました。
場所は、話題の「私の仕事館」の隣です。
どちらも、広い敷地にドデかい建物。一昔前に立った建物です。
「私の仕事館」も「国立国会図書館」も、これまでに2回ほど行きましたが、どちらも閑散としていました。
「国立国会図書館」は、閑散でも学術的文化的な意味が在りますが、「私の仕事館」は、どうにも無駄すぎるというのが実感。最近、閉鎖されました。

ところで「国立国会図書館(関西間)」ですが、オープンは10時から18時。日曜日は休館。
優雅な営業時間ですね。
開館時間はせめて9時からにして、夜は20時ころまでにしないと、普通のサラリーマンには利用は困難でしょう。
係り員に「毎日、どのくらいの入場者がありますか」と、尋ねたところ、「100人から300人くらい」ということでした。
本当に、100名も来るの???
職員は多いのに、目に見える利用者は小生のほかは約2名でした。

「もったいないなあー。もっと利用しやすいように・・」が実感です。
それでも窓口職員は、少ないお客を待ち構えて、ジーっと不動の体勢。私には到底真似は出来ません。
「我慢強いんだなあー。来ない利用者を待って、ジーっとしていても給料は出るんだ」と、心の中で思いました。

ーーーー
今日は、9時に四日市の手前「白子」へ。ここで尾崎さんの車に乗り換えて、東京へ。
18時からは、名人戦のオープニング。
久しぶりの東京です。


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聞き覚えのある声

2010-04-06 19:27:36 | 文章
4月6日(火)、晴れ。

数日前と昨日のことでした。NHKラジオのニュースで聞き覚えのある声。
確か大阪のニュースだったように思うので、「確かあの方は東京のはずなんだが・・」。

4月は転勤の季節。
「ははーん。東京から大阪に戻られたんだな」。これがが、小生なりの結論でした。
本当かどうか、確かめておりませんので、それは小生の思い込みなのかも知れません。

その声の主は「澗隨操司」さん。彼には以前、大阪で将棋博物館でのテレビ取材で一度だけお会いしました。珍しい名前でもあったし、人懐っこい声のトーンが印象的で、よく記憶しています。このとき、小生は取材の合間に「将棋はなさるのですか」と逆質問をしました。
答えは「興味はあるが、いいえ」でした。
「この機会に、将棋をなさってはどうですか・・」とお勧めした次第。

それから2~3年経って、囲碁将棋ジャーナルで、拝見するようになりました。
今は将棋をなさるようになったのでしょうか。
そのように期待しています。

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花曇り

2010-04-05 20:39:28 | 文章
4月5日(月)、曇り。

昨日、長岡京市からの帰り道。予てから尋ねて見たかった八幡市の「松花堂(しょうかどう) 」がカーナビに映ったので、立ち寄ることにしました。
しばらく行くと、淀川べりの道が大渋滞。
理由はわからないまま、2~3キロばかりのところを30分ほど行くと、理由がわかってきました。
それは、淀川が宇治川、鴨川、桂川の三つに分かれる辺り。その土手には見事な桜並木。
折りからの晴天のもとで、満開の桜を見ようと、ひと・ヒト・人。
駐車場に入る車の行列でした。

「松花堂」については、「松花堂弁当」でも知られているので、ご承知の方も多いでしょうが、説明文を張っておきます。

ーーーー
京都府指定文化財、江戸時代。
寛永の三筆のひとり「松花堂昭乗」が男山山中の坊内に建てた小方丈を松花堂という。
昭乗は、摂津堺に生まれ、兄が興福寺一乗院門跡尊勢に仕えたのに従い奈良に移住した。 17才で男山滝本坊実乗につき社僧となり、寛永4年(1627)師の跡を継ぎ滝本坊の住職となる。
昭乗は、はじめ御家流の書を、後に空海や定家の書を学び、滝本流といれる独特の書流を立て、近衛信尹・本阿弥光悦とともに寛永の三筆に数えられた。晩年の寛永14年(1637)昭乗は、弟子の乗淳に滝本坊を譲り、自身は里坊の泉坊の一隅に松花堂という小方丈を建て、そこに移り住み松花堂昭乗と名乗る。
昭乗は、絵画・和歌・茶の湯などにも精通した当代きっての文化人で、近衛信尋・尾張藩祖徳川義直・狩野山雪・小堀遠州・沢庵宗彭などとも親交があり、これらの人々が集う松花堂は寛永時代の文化サロンのひとつであった。

実はこの松花堂昭乗。水無瀬駒の愛好者でもあった可能性もあります。
水無瀬駒のふるさと、今の水無瀬神宮にも近く、神宮に残る「将棋馬日記」には「滝本坊」の名前もあリ、この時代の滝本坊は師の実乗が住職でしたが、若き昭乗はそのナンバー2でありました。
因みに「松花堂弁当」は、あの料亭「吉兆」を興した湯木貞一が、松花堂昭乗が工夫した弁当箱にヒントを得て、その名を付けたものだと聞いています。
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駒の写真集

リンク先はこちら」 http://blog.goo.ne.jp/photo/11726