晩秋の風は、さまざまな記憶の匂いがする。それは乾いた枯葉の匂いかもしれないけれど、郷里の黴くさい古家から吹き帰ってくる風のようでもある。赤く色づいた庭の柿や山の木の実や、夕焼けに染まった空の雲や、記憶の向こうに置き去りにされた諸々を、季節の風が遠くから運んできてくれる。
田舎で育ったから、田舎の記憶がいっぱいある。風が強く吹いた翌朝、杉林の道を歩いていくと、杉の葉が幾重にも重なって落ちている。いまでも、杉の枯葉をただ踏んで歩くのを躊躇してしまう。大きな炭俵にいっぱいに詰め込んで家に持って帰れば、それだけで母親を喜ばすことができたのだった。
ガスやプロパンのある生活ではなかった。かまどで薪を燃やして煮炊きをしていた頃、杉の枯葉は火付きがよくて、焚き付けとして重宝された。燃える時のぱちぱちと爆ぜる音、鼻につんとくる爽やかな匂い。とても勢いよく燃えて、それが火というものだった。
火は扱いにくく、太い薪や細い枯枝をくべながら火加減を調節することは、とても難しいことだった。大人がやっていると簡単そうなことが、子供にとっては難しく、私は挑戦するたびに出来なくてべそをかいていた。勢いよく火が燃える竈のある台所というところは、熱気とけむりと湯気が充満し、そのまま家が走り出しそうだった。
杉が実を付ける季節には、杉鉄砲というものを作って遊ぶ。米粒ほどの小さな杉の実を鉄砲の弾にするので、筒は細い笹竹の節のない部分を切り取り、心棒は古い自転車のスポークを自転車屋でもらってくる。仕組みは水鉄砲や紙鉄砲と同じで、竹の筒に杉の実を詰めて、心棒のスポークを勢いよく突くと、ぷちっと音がして杉の実の弾丸は飛び出していく。
手の平に納まるほどの小さな鉄砲なので、飛距離はあまりない。そっと友だちの近くまで寄ってから、いきなり顔や腕などを狙って撃つ。虻に刺されたくらいの痛さはあるので、そのうち撃ったり撃たれたりの合戦になる。杉の実が弾ける時は火薬のような匂いもするので、さらに闘争心が刺激された。
秋の運動会の季節には、杉の葉は入退場門のアーチになった。あおあおとした杉の葉を枝ごと、近くの山から切り取ってくる。2本の丸木のポールを地中に埋めてしっかり固定し、柱の周りを菰(こも)のように稲わらで包んで縄でしばる。この稲わらでできた軟らかい胴の部分に、杉の枝葉を隙間なく挿していくと立派な杉のアーチが出来あがる。さらに、その上に何らかの飾りをしたかどうかは記憶にない。ただの杉の葉が立派なアーチに変身してゆくのが驚きだった。たぶん小学生最後の秋のことだったと思う。
校庭のまん中には、白い石灰でラインが引かれ、そのまわりの応援席と父兄の観覧席には、稲わらがぎっしりと敷き詰められている。稲わらは農家の子どもたちが家から運んできたものだった。
空気が乾燥した秋晴れの一日、杉の葉のひんやりとした香りと、稲わらの温かくて甘い香りに包まれながら、広い校庭を子供も大人もみんな裸足で走った。
「2024 風のファミリー」