鳥になって空を飛んだり、魚になって水中を泳いだりする、そんな夢をみることは、たぶん誰でも経験することだと思う。
かつてアメーバだったころの古い記憶が、ひとの深層にある眠りの回路を伝って、原始の海から泳ぎだしてくるのだろうか。あるいはまた、かつてコウノトリに運ばれた未生の感覚が、意識の底から夢の中へと舞い戻ってくるのだろうか。
近くにある公園の池に水鳥が飛来している。
この冬は寒さが厳しく、この池も珍しく凍結する日もあった。池面が凍ると、鳥はどこかへ消えてしまうのだが、午後になって氷が溶け始めると、再びどこからか現れて、いつものように水面をかき回している。
毎年、こんな小さな池を忘れずにやってくる渡り鳥たちも、何か抗いがたい自然の力に支配されているのかもしれない。
彼らにエサを与えるのを日課にしているひともいるので、鳥たちは心得ていて橋の下に集まってくる。三角の尾をピンと立て、さかんに鳴き騒ぎながら、次第に興奮状態になっていく。ひとの手が欄干の上に伸びると、鳥たちはいっせいに羽ばたいて、水面を10センチほど飛び上がる。われ先に飛び上がって混乱するばかりで、結局は水面に落ちたエサを追って、水球選手のように慌しく泳ぎまわって争うはめになる。
この池は、大昔に作られた農業用ため池なのだが、いまや公園の景観に欠かせないものになっている。最近発行された地域の広報誌によると、この池の水はすべて雨水だという。雨の少ないこの地域で、池にたまった水は貴重なものだったに違いない。
いまでも一部農業用水として管理されており、毎年秋口には池の水を完全に干してしまう。それでも満水になると春には、いつの間にか小さな魚が泳いでいる。魚の放流は一切していないということだが、春から夏にかけては、フナやブラックバスが泳ぎまわっているし、ルアー釣りをする若者たちもやってくる。まさか魚が天から降ってくるわけでもあるまいし、いったいどこから湧いてくるのか。
なんと池の魚を運んでくるのは、鳥だという。
広報誌の記事によると、魚の卵が水鳥たちの水かきにくっついて運ばれてくるのではないかとのこと。そんなことを初めて知って、ぼくは納得するよりもびっくりした。まるで蜂などの昆虫が花粉を運ぶようなものではないか。さまざまな生物がさまざまな方法で命をつないでいく、小さな生命が循環する姿をおもうと神秘でもある。
よく山深い源流の小さな水たまりに、ハヤなどが泳いでいるのを見かけることがあるが、あれも鳥たちに運ばれたものだろうか。
やがて春がきて、池の水が温かくなるころ、水鳥たちはまたどこかへ去っていく。
そのあとで魚たちの卵は孵り始めるのだから、魚たちは鳥のことを知らず、鳥たちは魚のことを知らない。
目も口もなかった魚の卵に、どのような記憶が残されているのかはわからないが、この池の魚は魚族でありながら、いちどは空を飛んだことがあったのだ。
池や空の、水と大気の境いめが曖昧になる薄暮のころ、魚たちが跳ねているのを見かけることがある。水面近くのエサの虫を狙っているのだろうが、魚たちの目には、小さな虫たちの飛翔が、古い記憶の残像に見える、ということもあるかもしれない。
泳ぐことや飛ぶことが、四季折々の変遷の中で夢幻の交錯をしながら、こうして池の風景もまた、命があるもののように再生しつづけている。
端正な文に惹きこまれていくうちに、あっと驚く隠し玉が用意されていて、目からコンタクトが落ちました。
「魚は魚族でありながら、いちどは空を飛んだことがあった」
哺乳類の私もこの一文に心が空を飛びました。
夢幻の世界にたゆたうひと時を味わいました。
ありがとう。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
ブログ拝見!
犬にしか見えない木材の写真
おもしろかったです。
どう見ても犬ですね。木肌から飛び出してきそうです。
こんな珍しいシーン、
どうやって見つけたんでしょうね。
ワンダフル! と吠えたりして
コメントありがとうございます。
鳥になりたかった♪
何かをしたかった♪
その思いと悔恨を口ずさんでいるかぎり、
若い日の熱は、まだ続いているのかもしれませんね。