玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

日米戦争 ―陸軍は血の贖いの為に、海軍は石油の欠乏の為に―⑾

2022-09-29 15:26:06 | 近現代史

真珠湾奇襲は、文献の中では、1941年9月6日第6回御前会議の段階で既に「奇襲らしきイメージ」ができていた。その前の9月3日第50回連絡会議で永野軍令部総長は「開戦時機ヲ我方デ定メ先制ヲ占ムル外ナシ」と言っている。この時点で奇襲しかなかったのだ。

「ジリ貧で」「座して死を待つより」と開戦に流れる海軍が真珠湾攻撃の道を選択し始めると、対米戦争を忌避する近衛に内閣を投げ出させ、開戦に都合の良い軍人政権を造らせた。それは陸海軍の底意だった。そこで曲者の豊田の替わりに直情的な東郷を外相に据えた。

東郷は一筋縄ではない松岡や偏屈な重光より扱いやすかったのであろう。軍部から見れば、広田に似て、結局は軍人の威圧に負けると見られていたのではないか。

彼は11月3日の来栖米国派遣の段階で、開戦を已むなしをほぼ受容していたのではないか。来栖は、仮に交渉決裂となった時に、元外相で元提督の個人プレーの多い野村吉三郎大使の変な動きを止めるために、急きょ派遣された。

東郷の外相就任にあたって、豊田前外相からの事務引継ぎに、「支那駐兵に期限を付ければ交渉は纏る、陸軍が応じないので総辞職になった」とあった。

海軍は米国の石油の禁輸により、「石油は二年分の備蓄しかなく、座して死を待つより…」ということであろう。

煎じ詰めれば、陸軍は日中戦争以来の流した血を贖うために、中国からの撤退ができない、つまり「過去に流した血の為に」。

海軍は大言壮語して建造した戦艦が石油の禁輸で動かなければ、座して死を待つことになる。「戦艦を動かす為に」日米戦争を決心したのである。

つまりは陸軍・海軍ともに、到底かなわない大国との戦争動機は、煎じ詰めれば陸海の幕僚たちの国内向けの「面子」ということにならないか。

それを、駐日大使のグルーは「腹切りの国」と美化して本国に忠告している。

振り返れば、陸海軍の幕僚たちの単なる「面子」によって、300万人以上の国民が死に、2000万人余の周辺のアジア人が殺された。   (次回へ)

【参考文献:東郷茂徳『時代の一面』、来栖三郎『泡沫の三十五年』、参謀本部編『杉山メモ』他】

陸上自衛隊幹部学校『第二次世界大戦概史(上巻)』昭和31年版より、

この教科書では「奇襲」と言っていない。それに日本の交渉決裂通知が1時間20分遅れたのだが、…?

 


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