この数年間で、東京は多くの改修工事、新設工事が行われてきたのは、2020オリンピックのためで、円形競技場やその他の競技の為の新しい建設物が東京の新しい情景を創り出しています。円形競技場の由来は、古代ローマ帝国の時代に遡り、もともとはスポーツ観戦の場ではなく、剣闘士が殺し合いを行い、観客がそれを見るという娯楽を提供する場所でした。映画「グラディエーター」を観た方は想像がつくと思いますが、なんとも残酷な娯楽です。しかし、人々はそれを良しとし、政治的にはそのような娯楽を提供することで人々の帝国に対する不満を解消させるための道具としていたと言われます。また、オリンピックの時期だということで、これに関する記事があり、目にとまりました。「剣闘士:殺し合いのイメージは誤解だった」という説を古代の壁画、歴史的一部の文献から、あたかもそれが現代のスポーツのように審判がいて殺すまでに至らないケースもあったとか、剣闘士訓練施設で大切に育成されていたとあり、しまいには「剣闘士は勇敢に戦い、時には命を落とす、男らしさや美徳の象徴にほからならなかった」と書かれていました。どんなに悪を美化しても、歴史的事実であり、もし美化された内容通りであったのならば、皇帝によって廃止されることなく、今も続いてるはずです。
先日、この悪しき習慣であった剣闘士を終わらせるきっかけとなったのが、キリスト教の修道士であったことを知りました。この娯楽は、ローマ皇帝により5世紀初頭に禁止令が出され、最終的に競技場を閉鎖されるまで7世紀頃まで密かに続けられていたそうです。テレマクスという修道士 は、ある時、このむごたらしい剣闘士の戦いを止めようとして円形競技場に入りました。すると、観客が逆上し石を投げつけて彼を殺してしまったという事件が発生し、それをきっかけとして、当時ローマ帝国はキリスト教が国教となっていたので、皇帝により禁止令が出されたそうです。テレマクス修道士の命が犠牲となってこの悪しき娯楽は終焉しました。
古代から、ある人々は人と人とが殺されて倒されるまでの戦いを観て興奮し、ストレスを解消するという本質を持っているのではないかと思います。なぜなら現代では、剣闘士の代わりに、バーチャルのゲーム上で同じことが行われているからです。IT技術が進化すれば進化する程、この戦って相手を殺し、ポイントをゲットして「やった!」と興奮する、ある種の満足感を得る娯楽が拡大し、人々の心を知らぬ間に蝕んて行くことを私は懸念しています。「ただのゲームではないか」と言われます。実際に人に命が失われなくとも、ゲーム上で「殺す」という精神的構造を、なんの良心の呵責なく続け、心が麻痺していくのに気がつかないのでしょうか。そして、世界的に行われている、現代のバーチャルの殺し合いゲームという娯楽を、誰が命をかけて終焉させることが出来るのでしょうか。
私は、人はどんなに高尚な立派な人でも、心に暗い部分、罪悪という部分を個人差や程度はあれ持っていると思います。それが良心で抑えられていればいいのですが、「魔がさした」と言われる様に、やってはならないことをしてしまう、酷いことを心で思ってしまうということを誰もが経験しているはずです。そんな私たちの罪の部分から解放し、赦し、そして罪を犯さないように、愛の心を持てるように変えることが出来るお方が、イエス・キリストしかいないと信じます。神の子であるイエス様は、私たちを救うために、ご自分の命を十字架上で犠牲にされました。修道士テレマクスは、キリストの愛に生きて、自分が殺される危険があろうとも、とにかく剣闘士を止めさせようと競技場に入っていったのだと私は思います。また、神様はイエス様のこの犠牲により私たちを救って下さるだけでなく、イエス様を信じて生きる、新しい生き方において生きる希望が与えられることが、幸いであり、この不確実な先行きが不透明な時代において、特に、私たちには必要ではないかと思います。一人でも多くの方々が、なぜ自分が今生きているのかを真剣に考え、それを求めた時、神様を見いだせるはずです。使徒パウロは、キリスト教の神様を全く知らない、ギリシャ時代の多神教を信じるアテネの人々に、真の神様を伝えようとして宣べ伝えた内容が、下記の聖書の箇所です。私は、日々、このコロナ禍にあって、苦しんでいる人々、人生で悩んでいる人々が、このような聖書のことばに触れる機会がネット上でもあって、求めて、キリストを知って、幸せになってほしいと祈っております。神様は私たち一人一人から遠く離れておられる存在ではなく、見えなくとも近くにはおられ、一人一人をケアして下さる優しいお方であることを知ってほしいと。
「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」使徒言行録17章26-27節
*「ナショナルジオグラフィック」日本版8月号「グラディエーター熱狂の舞台裏」
先日、この悪しき習慣であった剣闘士を終わらせるきっかけとなったのが、キリスト教の修道士であったことを知りました。この娯楽は、ローマ皇帝により5世紀初頭に禁止令が出され、最終的に競技場を閉鎖されるまで7世紀頃まで密かに続けられていたそうです。テレマクスという修道士 は、ある時、このむごたらしい剣闘士の戦いを止めようとして円形競技場に入りました。すると、観客が逆上し石を投げつけて彼を殺してしまったという事件が発生し、それをきっかけとして、当時ローマ帝国はキリスト教が国教となっていたので、皇帝により禁止令が出されたそうです。テレマクス修道士の命が犠牲となってこの悪しき娯楽は終焉しました。
古代から、ある人々は人と人とが殺されて倒されるまでの戦いを観て興奮し、ストレスを解消するという本質を持っているのではないかと思います。なぜなら現代では、剣闘士の代わりに、バーチャルのゲーム上で同じことが行われているからです。IT技術が進化すれば進化する程、この戦って相手を殺し、ポイントをゲットして「やった!」と興奮する、ある種の満足感を得る娯楽が拡大し、人々の心を知らぬ間に蝕んて行くことを私は懸念しています。「ただのゲームではないか」と言われます。実際に人に命が失われなくとも、ゲーム上で「殺す」という精神的構造を、なんの良心の呵責なく続け、心が麻痺していくのに気がつかないのでしょうか。そして、世界的に行われている、現代のバーチャルの殺し合いゲームという娯楽を、誰が命をかけて終焉させることが出来るのでしょうか。
私は、人はどんなに高尚な立派な人でも、心に暗い部分、罪悪という部分を個人差や程度はあれ持っていると思います。それが良心で抑えられていればいいのですが、「魔がさした」と言われる様に、やってはならないことをしてしまう、酷いことを心で思ってしまうということを誰もが経験しているはずです。そんな私たちの罪の部分から解放し、赦し、そして罪を犯さないように、愛の心を持てるように変えることが出来るお方が、イエス・キリストしかいないと信じます。神の子であるイエス様は、私たちを救うために、ご自分の命を十字架上で犠牲にされました。修道士テレマクスは、キリストの愛に生きて、自分が殺される危険があろうとも、とにかく剣闘士を止めさせようと競技場に入っていったのだと私は思います。また、神様はイエス様のこの犠牲により私たちを救って下さるだけでなく、イエス様を信じて生きる、新しい生き方において生きる希望が与えられることが、幸いであり、この不確実な先行きが不透明な時代において、特に、私たちには必要ではないかと思います。一人でも多くの方々が、なぜ自分が今生きているのかを真剣に考え、それを求めた時、神様を見いだせるはずです。使徒パウロは、キリスト教の神様を全く知らない、ギリシャ時代の多神教を信じるアテネの人々に、真の神様を伝えようとして宣べ伝えた内容が、下記の聖書の箇所です。私は、日々、このコロナ禍にあって、苦しんでいる人々、人生で悩んでいる人々が、このような聖書のことばに触れる機会がネット上でもあって、求めて、キリストを知って、幸せになってほしいと祈っております。神様は私たち一人一人から遠く離れておられる存在ではなく、見えなくとも近くにはおられ、一人一人をケアして下さる優しいお方であることを知ってほしいと。
「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」使徒言行録17章26-27節
*「ナショナルジオグラフィック」日本版8月号「グラディエーター熱狂の舞台裏」