気が付くと、冬を感じている間もなく、春の訪れを味わっています。それほど、この時期はあることに集中していてそれをやり終えるまで、いわゆる自分を忙しくしていたのでしょう。今朝与えられた聖書のことばを読み、はっと気が付かされました。日々の忙しさに流されてしまうと、自分は何のために生きているのかと、もう一度問われるからです。
キリストを信じる前、私は、「自分のために生きるのが疲れた」と思うことがありました。人は実は意識していなくとも、皆オギャーと生まれたときから、誰も教えてくれなくとも自分のために生きるでしょう。もちろん、他の人のために何かしよう、役に立ちたいという思いは、後からその人の育った環境、親の影響により出てきます。しかし基本は自分のためにあくせく動いているのです。自分の思いによって行動し、自分のために働く、楽しむ、それが悪いことではないし「普通」の生き方かもしれません。しかし、私はその「普通」に空虚を覚え、疲れたのです。
一方、ある人は自分の家族のため、特に親が自分の子供のために一生懸命最善の環境を作る、犠牲を払う、愛を注ぎます。それは素晴らしいことです。しかし、子供にも人格があり、親が「こうなってほしい」と望んでも当人はそうならない、いつか一人の独立した大人として巣立つ時がきます。親子関係に限らず、人はみな、人のために良かれと思い善意を持って何かをしても、相手にとってはそれが困る場合があります。結局相手が自分の思い通りにならないと、不満足、ストレスとなり、人間関係に問題を起こします。
キリストを信じる者は、今日の箇所に示されているようにもはや自分のため、人のために生きません。キリストのために、神様のために生きると決断します。結果的に神様のためにすることが、他者の益になります。なぜなら目に見えない神に仕えるのは、目に見える人に仕えることになるからです。ただし、その違いは神のためであるので、人の反応がどうであれ、つまり相手が自分の思うように動かなくとも、自分の望む反応をしなくとも、落胆しないのです。神様に対してしたことだからと、その人に拘らないですむからです。
では、なぜキリストのために生きるのでしょうか。下記の聖書の箇所にあるように、キリストを信じる者は、キリストが自分のために十字架で死んで、復活してくださったと信じ、その信仰により、信じる前の「古い自分は死んだ」ことになるからです。古い自分とは、自己中心の思いとそれによって引き起こされる罪から縛られていた不自由な自分で、新しい自分はそこから解放され、神様の恵みを日々感謝して受け取るようになり、この地上にいる間、神様のために何かをしようと、強制ではなく自発的に志そうとする者へと変えられる、新生した自分となります。そこには自由があります。「キリストの愛」が動機で何かすることに駆り立てられるので、それはもはや誰かのために、自分のためにという動機でなくなります。それが動機だと、自分のこだわりや相手の反応に揺さぶられないですみます。もちろん、感情的に、一時揺さぶられ、反応することはあります。しかし、何度も信仰の立ち位置に戻れるのは幸いです。
私はキリストを信じる信仰が与えられ、生き方に関して以前のように「むなしい」と思うことがなくなり、神様に感謝しています。今は喜んで、主イエス・キリストに従って、日々歩めるように導いてくださいと祈りつつ、多くの方々がこの主イエスの福音の恵みを知って、信仰に導かれ、平安を得られるよう祈っていきたいと思います。
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」 コリントの信徒への手紙2 5章14-15節
引用 新共同訳聖書
キリストを信じる前、私は、「自分のために生きるのが疲れた」と思うことがありました。人は実は意識していなくとも、皆オギャーと生まれたときから、誰も教えてくれなくとも自分のために生きるでしょう。もちろん、他の人のために何かしよう、役に立ちたいという思いは、後からその人の育った環境、親の影響により出てきます。しかし基本は自分のためにあくせく動いているのです。自分の思いによって行動し、自分のために働く、楽しむ、それが悪いことではないし「普通」の生き方かもしれません。しかし、私はその「普通」に空虚を覚え、疲れたのです。
一方、ある人は自分の家族のため、特に親が自分の子供のために一生懸命最善の環境を作る、犠牲を払う、愛を注ぎます。それは素晴らしいことです。しかし、子供にも人格があり、親が「こうなってほしい」と望んでも当人はそうならない、いつか一人の独立した大人として巣立つ時がきます。親子関係に限らず、人はみな、人のために良かれと思い善意を持って何かをしても、相手にとってはそれが困る場合があります。結局相手が自分の思い通りにならないと、不満足、ストレスとなり、人間関係に問題を起こします。
キリストを信じる者は、今日の箇所に示されているようにもはや自分のため、人のために生きません。キリストのために、神様のために生きると決断します。結果的に神様のためにすることが、他者の益になります。なぜなら目に見えない神に仕えるのは、目に見える人に仕えることになるからです。ただし、その違いは神のためであるので、人の反応がどうであれ、つまり相手が自分の思うように動かなくとも、自分の望む反応をしなくとも、落胆しないのです。神様に対してしたことだからと、その人に拘らないですむからです。
では、なぜキリストのために生きるのでしょうか。下記の聖書の箇所にあるように、キリストを信じる者は、キリストが自分のために十字架で死んで、復活してくださったと信じ、その信仰により、信じる前の「古い自分は死んだ」ことになるからです。古い自分とは、自己中心の思いとそれによって引き起こされる罪から縛られていた不自由な自分で、新しい自分はそこから解放され、神様の恵みを日々感謝して受け取るようになり、この地上にいる間、神様のために何かをしようと、強制ではなく自発的に志そうとする者へと変えられる、新生した自分となります。そこには自由があります。「キリストの愛」が動機で何かすることに駆り立てられるので、それはもはや誰かのために、自分のためにという動機でなくなります。それが動機だと、自分のこだわりや相手の反応に揺さぶられないですみます。もちろん、感情的に、一時揺さぶられ、反応することはあります。しかし、何度も信仰の立ち位置に戻れるのは幸いです。
私はキリストを信じる信仰が与えられ、生き方に関して以前のように「むなしい」と思うことがなくなり、神様に感謝しています。今は喜んで、主イエス・キリストに従って、日々歩めるように導いてくださいと祈りつつ、多くの方々がこの主イエスの福音の恵みを知って、信仰に導かれ、平安を得られるよう祈っていきたいと思います。
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」 コリントの信徒への手紙2 5章14-15節
引用 新共同訳聖書