Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

茶臼岳登山

2019年06月27日 | 日記
「これから、山へ行くぞ山へ。」朝の一仕事を終えて家に戻ってきた夫の第一声。前から、茶臼岳を登ろうと計画をしていたので、後は天候とお休みの日程次第でしたが、「え?今から?」、。と服を着替えてすぐに出発。その日、那須連山は雲で覆われていましたが、幸い雨は降らず、かえって日差しが強くないので快適でした。登山口に車を止め、いざ歩き出しましたが、最初から石段の斜面を登るコースで、息が切れて足取りが重く、これから約3時間のコースを達成できるのかと自信がありませんでした。しかし、途中緩やかな道もあり、そこで息を整えられて、美しい新緑の山々と、硫黄が所々吹き出す岩だらけの斜面をじっくり見る余裕もあり、しばし感動に浸りました。山の尾根から少しだけ除く青空に、鳥のさえずりがだけが響きわたり、風で運ばれる冷んやりとした雲が、私たちの体を撫でていきました。お昼の休憩を峰の茶屋で取り、後半は急な岩だらけの斜面を登り、ようやく茶臼岳山頂へ。登山はハードなスポーツですが、頂上に着いた時や、後ろを振り返り今迄登ってきた道を見下ろせた時の達成感は、なんとも言えません。私達のようなビギナーから、熟練した登山家まで、登山は多くの人を魅了します。

 同じ登山をするのでも、非常に暗い、悲痛な気持でしなければならなかった人がいます。それは聖書に出てくる、アブラハムという、イスラエル人の先祖です。彼は神様から言われて、モリヤ山を息子と登らねばなりませんでした。その目的は、登山を楽しむためでも、旅行のためでもなく、なんと、大切な一人息子イサクを山で、神様に捧げなさいという命令のためでした。この子は、アブラハムが75歳の時に神様が子を与えると、そして彼の子孫を大いに祝福すると約束された、100歳の時にようやく与えられた子でした。3日かけての険しい登山の目的は、山頂で息子を手にかけること。アブラハムの苦悩は想像を絶します。しかし、アブラハムは寸前まで青年の息子にそのことを告げずに、「捧げものの羊はどこにあるんですか?」と聞かれても、「息子よ、神様が用意してくださるんだよ」と答えています。彼は、「実はこれはこういう結末となる」と知らなくても、とにかく神様は約束したのだからと、イサクはたとえ死んでも生きかえるだろうと信じて命令に従おうとしました。そして、実際、神様はアブラハムを試みてこう命令されたのであって、山の上でイサクを捧げることなく、神様が代わりに用意した羊を捧げたというストーリーです。

 ある人は、いくら命令に従うか試すにしても、あまりにも神は残酷ではないかと言います。しかし、これは後に、神ご自身が残酷な犠牲を払ってくださることを示す型なのです。神が自分の独り子である、イエス・キリストを十字架を、つまり、このイサクの代わりに捧げられた羊はイエス・キリストを示しています。人の罪は、誰かが代わりに命をもって贖わなければならない程、神の前に重く、深刻です。神様は、誰一人として、人間を犠牲にしたくない、だから自分の子(神の子)を犠牲にされた、そこまでして人間を救いたかった、この大きな神様の愛が、このイサクを捧げる試練を通して示されてます。さらに、死んで終わりではなく、イエス様は神様が復活させますが、そのイエス様の復活が示すことは、私たちも、この神様の救いの計画を信じて、悔い改め、イエス様を救い主として受け入れれば、新しい命が与えられるということなのです。

 アブラハムのケースから、目に見えない神を信じ、また確証されたものがはっきりと示されていなくても、神に委ねて一歩踏み出すと、想定外な道が開かれ、やはり神は生きていて働いてくださっていると感謝する。この繰り返しにより、私たちの信仰は成長させられるのだと思います。そのために、神様は聖書を通して、たくさんの救いの約束を与えて下さっています。この世がどんなに暗くとも、不条理なことばかりでも、その約束には希望の光があります。その光に照らされ、時にかなった神様の助けと、日々与えられる恵に感謝し、ゴールに向かって一歩一歩、歩んで行けたらと、祈り求めます。


「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。 」 へブル人へ手紙11章17-19節