よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

唐津街道を行く№10(博多宿~福岡城)

2012-01-06 09:22:52 | 唐津街道

中州の中島橋を渡ると城下町「福岡」に入ります。
よく、福岡と博多を間違えられますが、博多は商人の町、福岡は城下町です。
明治時代、福岡の市名を福岡にするか博多にするかで投票がありました。
投票の結果、僅差で福岡になりました。
博多の名前は昭和47年政令指定都市になった時、博多区として残されました。

福岡部に入ると、街道を少しそれ、街道と平行している旧電車道に入ります。
すぐ右手には「水鏡天満宮(すいきょう)」があります。
ここは、「菅原道真が京より太宰府に左遷される道中で博多に上陸した際、四十川
(現、薬院新川)の水面に自分の姿を映された場所であるとされ、今泉に社殿が建造され、
「水鏡天満宮」「姿見天神(すがたみのてんじん)」と呼ばれた。
1612年福岡藩主黒田長政によって福岡城鬼門にあたるこの地に移住した。
福岡市の中心地「天神」は、この天満宮に由来します。また、鳥居の「天満宮」は
福岡出身の初の総理大臣「広田弘毅」が小学生の頃書いたものです」
改めて、鳥居を見てみると、とても小学生が書いたとは思えない立派な字体でした。




※写真説明 左上、中島橋からキャナル方面、右上、福岡市の中心部天神交差点
        左下、水鏡天満宮、右下、水鏡天満宮鳥居

時間は2時を過ぎました。箱崎からここまでは、そんなに距離はないんですが、
彼方此方寄り道している為か、距離以上に万歩計の数字が上がっています。
この街道歩き、1月2日にスタートしました。お正月でお昼を食べたいのに
食堂は休みでお昼に苦労しました。
然し、今回は、福岡市の中心地「天神」。家内の情報では、ビルの地下に安くて
美味しい店があるということ聞き、(家内はこの天神の某社に勤めています)
即、そこに行きました。
早速そこのお店の「おまかせ定食」を注文し、メニューを見るとグラスビールが
100円であります。唐津街道も半分を超えたし、また今日は暑いし、いろいろ
理由を考えながら二人でビールで乾杯。
babyさんがいつも言われているように歩いた後のビールは美味しいですね。

30分ぐらい休憩のあと、再び街道へ。
今日はここから20KM先の前原宿まで行きたかったのですが、
寄り道ウオークが多く、前原宿までは無理ですので、行ける所までいくように
しました。

天神の交差点から100Mぐらい行った所の証券ビルの一角に福岡民謡「黒田節」の
モデルになった「母里太兵衛」の屋敷跡があります。
この一帯は、大名町と言って、福岡藩上級武士の屋敷があったところです。
「♪酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を 呑みとるほどに
のむならば これぞまことの 黒田武士♪」
この黒田節には、こんな逸話が残っています。
黒田長政の使者として伏見城の滞在中の福島正則を訪ねた太兵衛は、
酒を勧められるが、酒豪で有名な太兵衛は、使者であるからと断った。
私だったら、いただきますかと言ったと思いますが、彼は仕事ということで
断り続けます。あまり断るので正則は何か太兵衛に言ったのでしょうね。
そこで正則は、大盃を出し、「これを飲み干せば好きな褒美をとらす」と
言いました。太兵衛はあまり言われるのであえて受け、大盃になみなみと
注がれた一気に飲み干すと、褒美として正則が秀吉から拝領した
名槍「日本号(ひのもと)」を所望します。
正則はしぶしぶ「武士に二言はない」といって太兵衛に「日本号」を
渡します。これが民謡の黒田節になっているんです。

赤坂門の交差点を抜けると福岡城が見えてきます。
私が殿様だったら沿道にお迎えがずらっと並んでいたのでしょうが、
私は、一市民。お迎えなどありません。(笑)
一応、殿様気分になったつもりで裁判所横の上の橋から城内に入っていきました。



※写真説明 左上、母里太兵衛屋敷跡、 右上、赤坂門の古い赤煉瓦塀
   左下、福岡城上の橋、右下、福岡城本丸入口

このあと、福岡城内にある「鴻臚館」を見学し、これより西の姪浜宿手前まで
歩きました。
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本日の歩行距離21,5KM(寄り道が多く距離は稼いでいます)
交通費 地下鉄540円、
昼食代 おまかせ定食@880、グラスビール@100
おやつ 酒饅頭@90、蜂蜜饅頭@100


唐津街道を行く№9(博多宿~福岡城)

2012-01-06 09:16:29 | 唐津街道

2月21日晴れ 唐津街道第4日目。
9時半、前回ゴール地の筥崎宮前に到着。
この街道も福岡市内中心部に入ってきました。
歩数計の目盛をチェックし、いざスタート。

筥崎宮の前からは、昔は一帯に松が植えられ、これが「千代の松原」と呼ばれていましたが、
今は、その面影もありません。
筥崎宮から100mぐらい行った所に道標があります。
地図ではここからが旧地名で那珂郡馬出村(まいだし)。
馬出という地名は、昔、宿場町から馬を出したのでこの地名がついたそうです。
因みにこの近くの吉塚は、筑後の豪族、星野吉実のお墓があったことから
「吉塚」とついたと何かの本に書いてありました。

馬出に入ると、右側に九大病院が見えてきます。
昔は、古い建物でしたけど、今、近代的な建物になっています。
私事ですが、子供の頃、叔母がこの馬出に住んでいて、夏休みなんか、
よく泊りがけで遊びに来ていました。九大病院の塀の前で従姉妹と遊んだことなど
今でも鮮明に覚えています。この塀当時のままでした。懐かしかったです。

その先を行くと、「日蓮上人銅像道」という石碑が建っています。
日蓮上人は、鎌倉時代、元寇で外国が攻めてくると予言しました。
このあたりは、文永の役(1274)で古戦場になったところです。
ここで街道を離れ、東公園へ。
東公園は、県庁が来る前までは、広い公園で野球場もあり、若い頃は、ここで
草野球をしたことがあります。
公園の中を歩くと「松原水」がありました。その説明文によると、
松原水は、「明治時代、博多部の井戸は水質が悪く、塩分濃度が高いため
飲用には適さず、千代付近に続く松林の千代松原の砂地から汲み上げた井戸水を
博多まで運んでいたがその水も人家の汚水で利用できなくなった。そこで明治29年
(1896)市設の井戸を設置、業者を通じて1桶(18*)1銭で売った。
この松原水と箱崎のおきゅうとは、博多の風物詩だったが、大正12年(1923)
上水道の完成で姿を消した。1900年大正天皇が皇太子時代来福した際、
この水を飲料水に御使用なられている。」

また、街道に戻り、崇福寺(そうふくじ)に到着。
このお寺の山門は、福岡城の本丸表御門が使われています。
お寺の墓地には、福岡藩黒田家のお墓もあります。
黒田家の墓地には入ることができません。
この墓地には、玄洋社(注1)、頭山満のお墓もあります。

再び街道に戻り、コースは千代の交差点へ。
街道では、ここから篠栗街道と交差しています。現在は国道201号線です。

その千代の交差点の所に「刈萱(かるかや)石堂丸地蔵尊」があります。
これは、高野山の「刈萱道心」の誕生地です。
刈萱道心のことは、浄瑠璃にもなっていますのでご存知の方もいらっしゃると思います。

この地蔵尊の道路を渡ったところの川の側に悲しい伝説の「濡衣塚」があります。
「昔々、聖武天皇(724~749)の時代、筑前守に任命された佐野近世という人物が
妻と娘の春姫を伴い、博多へ。長旅の疲れか近世の妻は異郷の地で亡くなり、
娘の春姫は、博多の毎日を泣き暮らしていました。
人々の勧めもあり、近世は再婚し、春姫の下に新しい母親が来ます。
ところが、この継母にとって春姫の存在は目障りでなりません。
ある夜、継母は一人の漁師を呼んで春姫が自分の釣り衣を盗んだと近世に
譫言(せんげん)させました。信じられないという顔の近世は、
継母に問いました。継母は何食わぬ顔で「そんなことはございますまい。
姫は寝所で寝ています。後妻の私が問えば角が立ちますので、あなたが
確かめに行ってください。」と答えました。
近世は慌てて姫の寝所に行き、灯りをともして部屋を見て、驚きの声を上げる。
寝ている姫の体の上にびっしょり濡れた衣がかかっています。
この地を預かる近世としては、怒りで気が動転し、手にした刀を寝ている姫
めがけて振り下ろしていました。
一年が経ちました。
近世は寝苦しさにうつらうつらとする中、枕元に一人の少女がたっているのに
気づきました。「濡衣の袖よりつたう涙こそ永き世までの無き名なりけり」
はっと眼を覚ました近世は、春姫が夢枕に立ち自分自身の潔白を訴えていたと
悟りました。姫のいじらしさに悔恨の涙を流した近世は肥前の松浦山で苦行積み
娘の霊を弔いました。そして博多に戻り、七堂(普賢堂、石堂、里の堂、辻の堂、
かやの堂、脇堂、瓦堂)を建立したといわれています。
また、無実の罪をかぶることで「濡衣を着る」という言葉は、この話に由来します。




※写真説明
左上、道標。ここより東糟屋郡と書いてます。左下、福岡藩黒田家墓所のある
崇福寺。右上、刈萱石堂地蔵尊、右下、濡衣塚

濡衣塚を後に、再び街道へ。
旧電車道を呉服町方面へ行きます。
その後川端へ。博多宿は、地図によれば、博多リバレーンあたりと書いてあります。
然し、リバレーンあたりは、ビルばかりで何も残っていません。
ビルを一回り廻ってみると、那珂川の側に「渡唐口跡」の石碑があります。
昔は、ここが博多の海の玄関口だったんです。
そういえば、この石碑の後には「鏡天満宮」があります。
ここは、菅原道真が、博多に最初に足を踏み入れた地点です。
博多宿は、他に見るところがないので足は福岡城に向かいます。(続く)




唐津街道を行く№8(筥崎宮)

2012-01-06 09:10:20 | 唐津街道

先日の唐津街道3日目のゴールが筥崎宮でした。
この筥崎宮は、皆様あまりご存知ないかもしれませんが、
福岡では、お正月の三社参りには欠かせないコースです。
正月3日の玉せせり、9月12日からの放生会(福岡では「ほうじょうや」といいます)、
などのお祭りもあります。



※筥崎宮楼門、文禄3年(1594)名島城主小早川隆景造営

筥崎宮は、延長元年(923)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の
宸筆を下賜され、壮麗な御社殿を建立しました。
御祭神は、宇美町でお生まれになった「応神天皇」応神天皇のお母堂様の「神功皇后」、
神武天皇の母君の「玉依姫命」をお祀りしています。
鎌倉時代の蒙古襲来の時には、亀山上皇が祈願し、俗に言う神風が吹き、
未曾有の国難に打ち勝ちました。
こうしたことから、厄除け、勝運の神として有名です。
今年も地元のプロチームの福岡ソフトバンクホークスやJ2のアビスパ福岡などの
チームが必勝祈願に訪れています。
また、ここは、大分の宇佐、京都の石清水とともに日本の三大八幡宮とよばれています。




写真説明
左上、一の鳥居(1609年)黒田長政建立
左下、ソフトバンクホークス、アビスパ福岡の祈願絵馬、
(後の松が御神木の筥松)
右上、宸筆の「敵国降伏」右下、お潮井とり
※山笠の時には、筥崎宮前の海岸でお潮井とりをします。


唐津街道を行く№7(青柳宿~箱崎宿)

2012-01-06 09:03:37 | 唐津街道

青柳宿を出たのが12:00。
そろそろお腹も減ってきました。
食べたいものをいろいろ空想しながら歩いています。
昔の人もそうだったんでしょうか?
街道は、五所八幡宮を経て田園地帯に入ってきました。
天気がいいせいか、、土手には、つくしでしょうか、家族連れでとっている人がいます。
3歳ぐらいの子供さんでしょうか、我々に向かって手を振っています。
それに答え我々もその子供さんに手を振ると、子供さんが喜んでいます。
なんと可愛いんでしょう。

街道は、新宮町に入ってきました。
新宮の「太閤水」は、街道の右側にありました。
説明文をみると、
「天正15年(1587)九州を平定した秀吉が大阪への帰路、ここで馬を休め、
自ら清水を汲んで飲んだ所です。
当時九州の大部分に勢力を伸ばしていた島津義久に対抗し孤軍奮闘していた
立花宗茂を助けるため、秀吉は20万の大軍を自ら率いて九州へ乗り込んで
きました。この秀吉を追って九州入りした堺の茶人「津田宗及」は、三代(みしろ)の
里で水を求めましたが、あまりよい水でなかったので、自ら井戸を掘り、湧き水を
得ました。秀吉はこの水を飲んでたいそう喜び、掘った者の名を聞き、即座に
「宗及水」と名づけました。
その後、京都大徳寺の江月和尚(宗及の息子)が立ち寄った際に、「飯銅水」と
改めましたが、後世に石畳の井戸場が造られ秀吉にちなんで「太閤水」と
呼ぶようになりました。」
現在では蛇口が設けられ、この日も水を汲みにくる方がいらっしゃいました。
この堂の裏側が水汲み場になっています。

その立花家ですが、この先の千田の交差点の先に「夜泣き観音」と呼ばれる
立花城落城にまつわるお話があります。
「元禄11年(1568)、立花城主立花鑑載(あきとし)の妻と子は、城を抜け出し
追っ手から逃げるため橋の下に隠れました。然し子供が泣き止まず、もはや
これまでと諦め、観音経を唱えました。すると子供は泣き止み追っ手から
逃げることが出来ました。
以後、子を思う母の気持ちを表した観音様として祭られ、子供の夜泣きを治して
くれるのでこのように呼ばれています」




※写真説明 左上、新宮町「夜泣き観音」、左下、新宮町「太閤水」
        右上、新宮~和白山道、右下、立花山のみかん

時計も13:00を過ぎ、お腹も減ってきました。
原上の交差点には色んなお店があります。
腹が減ってくると何をみても美味しく感じます。
その中で「赤のれん」と書いてあるラーメン屋さんがありました。
赤のれんのラーメンは、今日のゴール地、箱崎にあり、おいしいラーメンとして
有名です。
迷わずラーメン屋さんの暖簾をくぐり、ラーメンを注文。
そういえば今日は朝5時に簡単な朝食を食べ、それ以外は
何も口にしていませんでした。
出されたラーメンは美味しくあっという間に完食。

お腹も満腹になり、再び出発。
このラーメン屋さんの先を左に行くと、今日2回目の山道に入りました。
ここは、殿様道といって新宮町と和白の境界になります。
山道を登っていくと両側がみかん山。
カラスを追っ払うためでしょうか、時々、鉄砲のような音がしています。
道には、みかんの食べ掛けが散乱しています。
どこかの誰かがみかんをちぎって食べそこに捨てたんだろうと思ってましたが、
違うんです。カラスがみかんをくわえて、食べやすいように上から落とすんです。
改めてカラスの利口さに閉口しました。

山道を下ると国道3号線に合流。
ここから福岡市東区上和白に入ります。
1月2日に北九州若松を出発し、3日目で福岡市内に入りました。
街道はしばし3号線と平行しています。
下原の交差点近くに差し掛かりました。
地図では、下原の信号の手前を左に入るようになっています。
ここは、旧3号線でしょうか?昔々通ったような気がします。
淨光寺を抜けると池がありその右側には九州産業大学が見えてきました。
そのまま進むと、香椎の商店街に出てきました。
右側が西鉄香椎駅、左側がJR香椎駅になります。
ここで休憩のためJR香椎駅へ。今日3回目の休憩です。
万歩計を確認すると内殿橋から約20km。道を間違えたので本当は
約25kmぐらいです。




※写真説明 左上、池の向こうは九州産業大学、左下、香椎跨線橋
        右上、博多バイパス(松崎)付近 、右下、筥崎宮前信号

15分ぐらい休憩し、15:00JR香椎駅を出発。
JR鹿児島線沿いの細い道を歩きます。
ここは、交通量も多く、おまけに歩道帯もありません。
香椎宮に行く道と交差し踏切になっています。
そこを横断するのですから、危険です。
ここは、ちょっと考え、遮断機が下りるのを待ち横断しました。

踏切を渡ると、右側にはマンションが・・・・
30数年前までは、国鉄の車両区で広い敷地にレールが沢山敷かれていたと
記憶していますが、昔の面影は全然ありません。

変わったことといえば、この先多々良中学のところが3号線博多バイパスに
なっており、細い道が片側3車線の広い道路になっていました。
まるで浦島太郎の心境です。

火の見下の信号で3号線バイパスと別れ旧道に入ります。
多々良川の大橋を渡り、都市高速の下を通ると流通センターに入ってきます。
ここは35年ぐらい前に建てられ、今では倉庫会社などが沢山入っています。

街道は、原田橋を渡り、箱崎宿へ入る。
箱崎の街中を通り今日のゴール地、筥崎宮へ。
16:17到着。
本日の歩行距離、引き返したりしましたが約32km。
本当でしたら内殿橋から27kmぐらいです。
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本日の交通費
JR 博多~福間 @450 、バス福間~内殿 @190
地下鉄箱崎~博多@200
昼食代 
ラーメン@450 、コーヒー代@150、おやつ@380


唐津街道を行く№6(畦町宿~青柳宿)

2012-01-06 08:58:28 | 唐津街道

2月7日の日曜日に唐津街道「畦町宿~青柳宿~箱崎宿」まで
約30km歩きました。
当日は天気も良く、絶好のウオーキング日和でした。

朝、6時50分に自宅を出発、地下鉄、JR、バスに乗り換え、前回ゴール地の
上西郷小学校に着いたのが8時17分。
簡単なストレッチのあと、いざ出発。
内殿信号の県道を古賀方面に向かいました。
今日は前半、ならの木坂という急な峠があるということを地図などで
予備知識を入れていました。
県道を右に入るとならの木坂に入ると地図には書いてあるんですが、
行けど右に入る道がない。結局、旦ノ原井戸まで来てしまいました。
そこでもう一度地図を見直すと内殿の信号をすぐ右に入って内殿橋を通らないと
行けなかったのにまっすぐ来てしまいました。
どうしようかと惰性で歩いていると高速道路古賀PAの入口まで来てしまいました。
「ちょっとコーヒータイム」と家内に言い、古賀PAで今日最初の休憩。
こちらは、てくてく街道を歩いている・・・・ここは、現代の街道の高速道。
その高速道PAで休憩しているなんて何か滑稽で可笑しい。

家内は、もう戻るのはイヤというが、折角の街道歩き、少しでも昔の人と同じ道を
歩いてみたいので、ここは家内を説き伏せ戻ることにしました。
これが、今日の前半だったから戻る決心がついたのですが、終盤だったら
おそらく戻らなかったでしょう。

万歩計のメモリーをチェックし、今来た道をUターン。
内殿橋は信号のすぐ近くにありました。
橋を渡ると険しい山道になってきます。
山道の脇には「唐津街道」の小さな標識があります。
そういえば、昨年放映された、シンクロの原田早穂さんも「山陽道てくてく旅」で
この坂を苦労して登られていました。
ちょっと、ミーハーですけど、今私は原田さんと同じ道を歩いている。そう思うと
何だか元気が出てきました。
坂を下ると県道に合流し、しばらく歩くと先ほど休憩した古賀PAの入口に到着しました。
時間は10時20分。ここで1時間のロス。




※写真説明 左上、ならの木坂、右上、旦ノ原井戸、
        左下、唐津街道道標、右下、福岡県馬術競技場のお馬さん
     
街道は古賀市に入りました。
古賀市は昭和30年ごろ、周辺の小野村、青柳村、古賀村が合併して出来た町で
平成になり市制になりました。

県道を青柳宿に向かって歩いていますが、この道路は歩道がなく、交通量も
少ないため車はスピードを出しています。道路の側道を歩いているんですが、
時々、車のけたたましいクラクションに道路の隅の方に追いやられます。
私も車の運転はしますが、よほどのことがない限りクラクションは鳴らしません。
道路は皆のもの、もう少しゆとりを持ってくれたら・・・と思いました。

話は横道にそれましたが、ガードレールの左側に唐津街道の道標があります。
それには、青柳宿1里、畦町宿2里と書いてあります。
青柳宿まであと1里(4km)です。

左側にドーム型の建物が見えてきました。
中に入ってみると、「福岡県馬術競技場」でした。
そうそう、原田早穂さんもここでお馬さんに乗られましたね。

競技場の道をまっすぐ行くと地図では、また道標があるようになっています。
この道標、探してすぐ、あったのですが、誰か心無い人が白いペンキでいたずら書きをして、
反対側は見にくくなっていました。
写真に収めたかったのですが、あまりに見にくいため、写真は断念しました。
青柳宿までは、あと半里(2km)です。

高速のガードを抜け、右側の交番の横を抜けると「青柳宿」に着きました。
宿の入口の案内看板を見ると
「慶長10年(1605)にお茶屋(本陣)を中心として作られ、以後3期40年かかって
広げられました。その後元禄時代初期(17世紀末)に街並みが完成。
総延長444m、100軒前後の家々が軒を連ね、明治時代まで裏糟屋郡の
中心地として栄えました。
青柳宿は江戸時代2回、明治時代に1回の大火に見舞われ、現在は鈎の手形往還や
西構口に宿場の面影をわずかに残しています。」

旧お茶屋さん(本陣)は、通りの突き当たりにありました。
私達は図々しく、この家を尋ね、この家に残っている宿板を見せていただきました。
この宿板は、黒田藩、薩摩藩、唐津藩の3枚がありました。
宿板の長さは90cm、幅30cmぐらいのものでした。
お茶屋さんの前に昔の佇まいを残している醤油屋さんがあり、
中に入るとまるで江戸時代にタイムスリップしたみたいでした。
私は、大きなメーカーの醤油はあまり買いません。
どちらかというと、地元の醤油を主に買います。
また、地方に行けば、必ずその地の醤油屋さんを訪ねていきます。
値段の割には、美味しいお醤油があります。
これが、楽しみなんです。隠れた醤油コネクターかな?(笑)




※写真説明 左上、青柳宿入口 右上、青柳宿街並み
        左下、太宰府神社通路、右下、黒田藩宿板

宿場の西には、構口(かまえぐち)跡、青柳村役場跡、太宰府通路の石碑
などが残っていました。                          (続く)
(内殿橋から青柳宿まで約7,5km)

※「構口」・・・・街道の出入り口にあります。



唐津街道を行く№5(畦町宿~青柳宿)

2012-01-06 08:43:32 | 唐津街道

卯建(うだつ)、バンコが残っている宿場「畦町宿」

原町宿を過ぎ、大穂に入る。橋を渡ると道が二手に分かれている。
左は川沿いの道、右手は先で大きな道に交差する。
もう一度地図を確かめ、右側の道を選んだ。
地図では、峠を下った所に「太閤水」があると書いてあるが、峠を上っても
下っても太閤水がみつからない。
民家に聞こうと思っても近くに民家がなく、ただひたすらに歩き続けた。
旧道は、福津市(旧福間町)に入った。
いくつかの峠を下った所に「太閤水」があった。
※(太閤水は、若松の所で説明していますので省略します。)
太閤水は、若松に次いで2箇所目。

月の森池の廻りを通っていくと、「許斐(このみ)窯」が見えてきた。
この先の、畦町橋を渡ると「畦町宿」です。


※写真説明 左上、太閤水、右上、月の森池
        左下、天満宮の変わった形の蘇鉄、右下、畦町宿の町並み

畦町宿は、福津市の案内板によると、
「畦町は、昔(藩政時代)筑前黒田藩が指定した27宿駅の一つであった。
慶長5年(1600)、関が原合戦後、黒田長政が筑前の国主として
入国するまでは、まだ人家も少なかったが、寛永19年(1642)、
唐津街道の整備に際し、青柳(古賀市)と赤間宿(宗像市)との間、
約4里(16km)が遠すぎるということで、当時の鳥ノ巣村と本木村の
一部を街道沿いに集め、宿駅として新たに成立したのが、畦町村である。
当時100余軒の戸数があり、480余人が住んでいた。
街道を行き交う人も多く、商家が圧倒的に多かった。
南北に通じる町並みの入口の両端には、関所のようにして、
「構口(かまえぐち)」があり、御制札所や役人詰所があった。
宿場町として栄えた畦町村も明治年代以降は宿場廃止や鉄道、国道開通
など交通路線の変革とともに宿場の機能を失った。
今では、この宿場と折りも古い家は建て替えられ、昔の家並みは少なく
なったが、「杉ぼて」や「卯建(うだつ)」など江戸時代のたたずまいが
残っている所もあり、宿場町の名残が感じられる。」



※写真説明 左上、バンコがある民家、右上、旧造り酒屋
        左下、卯建のある家、右下、旧庄屋跡。(今は石碑が建っている)

町の中を歩いてみると、民家にバンコ(縁台、ポルトガル語)があり、
今は留め金か何かで閉まっていますが、ここで将棋や碁などを
していたんでしょう。
また、左下の写真のように防火の為に隣に火がうつらないようつけた壁、
卯建(うだつ)、旧造り酒屋には、今はないけど、杉ぼてなど
懐かしく、江戸時代にタイムスリップしているような感じだった。
注)卯建(うだち)・・・梁の上に建て棟木を支える短い柱。又は江戸時代の
             民家で、建物の両側に「卯」字形に張り出した小屋根付きの
             袖壁。装飾と防火を兼ねる。
             卯建が上がらないというのは、裕福なところでないと、卯建が
             上げられなかったことから転じています。

注)石碑の高村翁(医師)は、健康保険の基になった定例医として村の医療に
  携わった方です。

懐かしい畦町宿をあとに、街道は上西郷小学校の方に向かった。
ここを左折すると青柳宿の方になるが、今日の行程はここまでとする。
ここまで26386歩(約20.6km)7時間15分