よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

近江八幡プチ歩き(滋賀県近江八幡市)

2012-01-28 15:57:23 | ウォーキング
先日親戚の不幸があり、朝一番の新幹線で滋賀県近江八幡近くまで行きました。
葬儀の後、帰りの新幹線まで時間がありましたので近江八幡の町歩きをしました。
私、親戚があるといっても近江八幡は初めての町でいつかは歩いてみたい所でした。

近江八幡の町は、今から約400年前に豊臣秀吉の甥「秀次」によって、織田信長亡き後の
安土の町を再建するかたちで城を八幡山に築いてから始まりました。
秀次の楽市楽座政策により信長が全国から安土に集めた多くの商人たちもここに移り住み
本格的な商業都市が出来ました。
天正16年(1590)に秀次が移封されてから京極高次が城主になりますが、わずか5年後の
元禄4年(1595)には廃城となります。
江戸時代になるとここは幕府直轄の天領として治められ将軍家の通行手形をもった商人たちは、
各藩の関所を優位に超え全国を商い、江戸や大坂にも出店を設けました。
「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」といった三方よしや、「てんびんの詩」の
舞台がこの近江八幡です。
今でも近江商人のルーツを引き継ぐ会社は、西武鉄道、ふとんの西川、伊藤忠商事などが
あります。


近江八幡駅からバスに乗り資料館前で下車し町歩きの開始です。
町は碁盤の目のように区切られ一見別な時代に来たような錯覚します。

歩いているとヴォーリズの像がありました。
ウイリアム・メレル・ヴォーリズは、県立商業学校の英語教師として招かれ、彼は終生この町に
留まり、建築設計事務所、製薬会社、学校、病院などの事業を展開しました。
メンソレータムでおなじみの近江兄弟社も彼がかかわりました。


少し先に行くと掘割があります。これは「八幡掘」と言って八幡の城下町と琵琶湖を結ぶ一大運河で大津、堅田と並んで琵琶湖三大港の一つに数えられました。
湖上を往来する北陸と関西の物資を満載にした全ての船はこの八幡浦に寄港し町は大いに
賑わいました。
今も残る土蔵や倉庫群は往時の繁栄を物語っています。
また、川の両側には櫻が植えられ春には桜の名所です。

八幡掘の先には「日牟禮(ひむれ)神社」があります。
千年以上の歴史を誇るこの神社は昔から近江商人の絶大な信仰を集めてきました。
鎌倉時代の木像神座像をはじめとする重要文化財などが多く保管されています。
座議長まつり、八幡祭りなどが有名です。

日牟禮神社の先の山が八幡山で昔お城があったところです。
今は山頂までロープウエイがあります。

白雲館
明治10年(1877)に八幡東学校として建築された白雲館は、八幡商人や地域住民の人々の
熱意と協力で当時6000円の費用をかけて建設されました。
開校時の児童数は男115人、女117人計232人と記されています。
学校として使用された後は役場、郡役所、信用金庫、と経て平成6年に建設当初の姿に
復元されました。

西川庄六邸(非公開)
黒塀に見越しの松・・・・何か「お富さん」に出てくる光景ですね。
2代目西川利右衛門の子「庄六」を初代とし蚊帳、綿、砂糖、扇子などを商いしました。
3代目頃になると江戸日本橋4丁目にも出店し九州島津藩の御用商人になるなど
西川利右衛門に次ぐ豪商となりました。
8代目は文人墨客との関わりも深く、一燈園「西田文書」氏らとの交流もありました。
現在も東京、大阪、京都に本支店を持つ「メルクロス株式会社」として活躍中です。


森五郎兵衛邸(非公開)
初代五郎兵衛は伴傳兵衛門家に勤め、別家を許され煙草や麻布を商いました。
やがて呉服、太物など取り扱いを増やし江戸日本橋や大坂本町にも出店するなど
活躍しました。昭和6年(1931)村野藤吾設計により東京日本橋室町に7階建ての近三ビル
(屋号 近江屋の近、三左衛門の三により命名)を建築し現在も「近三商事」として健在です。

西川甚五郎邸(非公開)
ふとんの「西川」の基礎を築いた人物です。

西川太郎右衛門邸(安南屋)
慶長8年(1603)西村家2代目の次男として生まれ20歳のとき角倉了以の朱印船で長崎から
安南(ベトナム)に旅立ちます。安南で商いに取り組みました。
帰国の為長崎に帰ってきますが日本は鎖国の世であり上陸は許されず安南の地で没しました。

伴屋右衛門邸
屋号:扇屋。寛永年間に東京日本橋に出店し麻布、畳表、蚊帳を商いました。
5代目は18歳で家督を継ぎ大坂淡路に出店。学問にも興味を持ち本居宣長、上田秋成、与謝野蕪村
らと親交があり国学者にもなりました。



一通り歩いてみると「朝鮮人街道」という石碑を目にしました。
これは、江戸時代将軍が変わるたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する「朝鮮通信使」は
役人の他に文人や学者など多いときには500人規模でした。
1年もの歳月をかけたと言われています。
行程はソウルから江戸まで約2000kmになりますが、近江八幡を含む彦根から野洲までの
一部の地域で朝鮮人街道と呼ばれています。

通りには、和菓子屋さんやバームクーヘンで有名な店などがありました。
30分ぐらいの町歩きでしたが次回は時間をかけてゆっくり廻ってみたいと思います。