10/5(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「旧唐津街道深江宿を往く」でした。
集合場所は、JR筑前深江駅、参加者36名。
今日は、朝から細かい雨が降っており大降りにならないかと心配しています。
コースは、深江駅スタート~鎮懐石神社~マルキョウ~旧唐津街道~深江神社~正覚寺~交流プラザ二丈館~曲り田スポーツ公園~松末稲荷神社~JR一貴山駅ゴールの約10km。
9:30スタート
先ずは「鎮懐石八幡宮」へ
約1800年前の仲哀天皇9年(西暦200年)、神功皇后(息長足日女命)は応神天皇を懐妊しながらこの地を通って戦地に兵を出された時に、卵型の美しい二個の石を肌身に抱き、出産の延期を
祈って御腹と御心を鎮懐(しずめ)られた。
願いは叶って帰国後、宇美の里で応神帝をご安産された。帰路、神功皇后が経尺の璧石を、子負ヶ原の丘上にお手ずから拝納されてより、世の人は「皇子産石(みこうぶいし)」
「子産石(こうぶいし)」と呼び崇拝するようになった。(鎮懐石八幡宮HPより)
この神社には、九州最古の万葉歌碑があります。
奈良時代の歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)の歌が収められています。
聖武天皇の御代726年(神亀3年)山上憶良は筑前国主に任ぜられ、福岡に赴任しました。筑前箕島の住人 建部牛麻呂(たけべのうしまろ)から鎮懐石伝承を聞き、長歌および反歌に詠じて、
その台詞に石の形状、所在地ならびにその縁起を述べています。
年号「令和」の元になった太宰府での梅の宴で詠まれた「初春の令月にして気淑く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす」は、大伴旅人か山上憶良の作と言われていますが、
若し、山上憶良の作でしたら、ここ鎮懐石八幡宮で詠まれたすぐ後の作になるそうです。
境内は、桜の名所です。下記の写真は、2010年3月末旧唐津街道を歩いたときの写真です。この時は桜が満開でした。また、玄界灘に沈む夕日のスポットとしても知られています。
スーパーマルキョウで休憩。
休憩後再スタート。マルキョウの裏の方から深江神社の方に向かいます。深江神社の前が旧唐津街道「深江宿」です。
深江宿は、慶長4年(1599)より唐津領、元禄4年(1691)幕府領、更に享保2年(1717)から中津領(大分県)の飛び地になりました。(糸島市荻浦~深江までが中津領)
深江神社は、建久8年(1197年)、高祖城主・原田種直が原田家再興のため、竈門(かまど)神社と太宰府天満宮を上深江片峯に勧請(分霊をまつること)し、
建仁3年(1203年)に現在地に奉遷されたのがこのお宮の始まりと言われています。
深江神社が有名になったのは、朝鮮出兵(文禄・慶長の屋久)のため肥前名護屋城にいた太閤豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)公が、天正20年(1592年)に参拝され、茶宴を催された時に
淀君御懐妊の知らせが届いたことを受け、秀頼の産宮として、時の領主小早川隆景(こばやかわ たかかげ)に命じて社殿を再興され、第二鳥居は、その小早川隆景が奉納したもので
「安産の鳥居」とも言われています。
神社から深江小学校の方に入った所に「太閤お茶会跡」の木碑が立っています。
深江神社前の旧唐津街道は、旧家が立ち並んでいます。
太閤秀吉は、京都上洛の際、先ず深江に停泊し、それから名島に向かったそうです。常夜灯の近くに梅屋宿場跡があったそうです。
交流プラザ二丈館で休憩。ここは、糸島市に合併する前の二丈町役場でした。
曲り田スポーツ公園でトイレ休憩。休憩後田園地帯を歩きます。
松末(ますえ)稲荷神社は、目隠し女相撲が有名です。毎年12/8近くの日曜日に行われ、恵比須様の面をかぶって相撲を取ります。
詳細は、こちらで→ふいご大祭・目隠し女相撲 | つなぐ糸島 | 糸島観光サイト produced by 糸島市観光協会 (kanko-itoshima.jp)
松末稲荷神社から旧唐津街道の戻ります。
12:00 JR一貴山駅にゴールしました。途中細かい雨に遭いましたが、大降りにならずにゴールできました。
本日のGPSです。