よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

長崎街道を歩いています№15「桂川~直方」

2011-12-28 18:11:47 | 長崎街道歩き
12/23 前回に引き続き長崎街道を歩きました。
博多駅から福北ゆたか線に乗って前回ゴール地の桂川(けいせん)駅に8時43分到着。
この桂川という地名なんですが、どうして「かつらかわ」でなく「けいせん」なのか
いろいろ調べてもわかりません。

桂川に着くと先ず行ってみたいのが「王塚古墳」。
ここには6世紀ごろの古墳があって石室に絵が描かれているものです。
このような装飾古墳は奈良「高松塚古墳」が有名ですが、高松塚古墳は7世紀の作品です。



『王塚古墳』は六世紀中ごろに作られたと考えられる、前方後円墳です。
 昭和9年に福岡県嘉穂郡桂川町大字寿命で、採土工事中、偶然発見され、多数の馬具、武器、銅鏡、装飾品、土器類を出土しています。  
最大の特徴は装飾壁画の壁面に赤・黄・緑・黒・白で描かれた靫(矢筒)・盾・騎馬・星・双脚輪状文・
わらび手文・三角文などの文様がところ狭しと配列されています。
その豪華絢爛さはわが国における装飾古墳の頂点として昭和27年に国の特別史跡に
指定されています。

古墳の横には王塚古墳展示場があります。
入場料300円を払い館内へ。
館内は撮影禁止のため写真を撮ることができませんが、石室の中は馬、○や△など幾何学的な
模様の装飾が施されていました。この模様は今でも通用するようなデザインです。





6世紀の装飾古墳は九州にたくさんあり、それが東の方に普及していきました。
歴史好きの私は胸が高まります。

王塚古墳をあとに、街道に合流します。
寿命(じゅめい)という地に来ました。ここには寿命古墳群という看板があります。
昔はこの一帯、「穂波」の王がいたのでしょうね。
この「じゅめい」という地名も珍しいですね。



街道は国道200号線の陸橋を渡り「天道(てんとう)」の町へ。
この天道は少し前まで嘉穂郡穂波町天道でしたが、2006年飯塚市に合併しました。
天道の町は昔ながらの町が多く、歴史が感じられます。



天道宮があります。
由来を見てみると
「古老よりの伝えによれば、61代朱雀天皇の承平、天慶の御代、平将門 藤原純友の反乱(承平、天慶の乱)の際源満仲勅命を受けて先ず将門を東国にて討ち、のちに純友を現在の大将陣に対陣し決戦を挑む  満仲勅命を奉じ朝敵を討ち祖神の加護を信じ戦うべしと部下に命じて大将陣の麓に祭る天照大神に祈願し全軍玉串を襟にさして戦い撃滅するを得たりと云へけり、即ちこの頃天道神社ありしものと考えられる、今より約1000年以前のことなり 」



穂波川を渡ると「飯塚宿」に入ります。
「飯塚」という地名がどうしてついたのか、二つの説があります。
一つは、神功皇后がこの地方を お通りになったとき、従軍兵士の論功行賞をなされ、おのおの郷土に帰されたが兵士たちはなお皇后の 徳を慕って飯塚まで従い「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と深く歎き慕ったといわれ、名づけてイヅカ (飯塚)の里と伝えられたといわれています。

また、一つには聖光上人が、当市太養院において旧鎮西村明星寺虚空蔵の再興と三重の塔建立のため、民を集めて良材を運ばせたときに炊いたご飯があまって小山をつくり、それがあたかも塚のようであったので「メシノツカ」すなわち飯塚と呼ばれるようになったとも伝えられています。





飯塚は人口13万人の筑豊第一の都市です。明治時代から石炭で今日の日本経済の礎を
築いた所でもあります。今はもう炭坑はありませんが町にはボタ山が残っておりかつての繁栄を
物語っています。
また、飯塚には九州を代表するお菓子屋さんがあります。
ひよこ、千鳥饅頭、さかえや・・・・・注)千鳥饅頭、創業は佐賀県
長崎街道によって運ばれた砂糖がこの地で饅頭として生まれました。
この饅頭は炭鉱従事者に愛され、今日に至っています。


飯塚宿は現在商店街になっており古い建物はありません。
所々に中茶屋跡、問屋跡などの石碑が建っています。



この商店街に長崎街道のからくり時計があります。
現在時間が11時45分。毎正時に始まりますのでそれまでここで時間をつぶします。
※このからくり時計をYou Tubeにしました。(ちょっとぶれましたけど)

こちらです。コピーしてご覧下さい。
http://youtu.be/rbf1t6gzYyU

からくり時計を見て再び街道歩きを続けます。
飯塚宿は商店街端が東構口になってます。

片島という地区に入ってきました。
国道から少し離れていますが旧家が立ち並んでいます。



時間も1時を過ぎました。
今日も一応軽い食料は持って来たのですが、風が冷たく何か温かいものが食べたくなります。
国道の方を見るとチェーン店のチャンポン屋さんがあります。
お昼はこのチャンポンで温まろうと思います。

30分ぐらい休憩しまた歩き出します。
幸袋(こうぶくろ)いう所に来ました。
ここは炭鉱主で有名な「旧伊藤伝右衛門邸」があります。
一度紅葉の時期に来たことがありますがとにかく広い家でした。
年が明けて3月のひな祭りのころには伊藤家のお雛様が一般に公開されます。



街道は遠賀川沿いに歩きます。
川からの風が強く寒く感じます。
鯰田、目尾、を過ぎると小竹の町に入ってきます。

ここで以前にも書いたと思いますが、長崎街道を歩いた象の話を。
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享保14年(1729)3月ベトナムから入ってきた象が将軍吉宗公献上品として
長崎~江戸まで354里(約1400km)約80日間の旅に出発しました。
象は象使いの人と一緒に一日約4里ぐらいを歩きました。
ここ飯塚には10日目の3/23に入っています。
象は今では動物園に行くと必ず見ることができますが、当時としては珍しい動物として
沿道には見物客が殺到していたのではないでしょうか?
史料によれば、「江戸への献上の象、享保14年3月に罷登る、日本にてめずらしきけだものにて、
登り候節は宿々に見物の者、夥しく出候、前もって道筋往還念入りに作り、喰うもの用意、
真笹、芭蕉、ひいな草、久年母、まんじゅう用意致候、宿々、泊まり宿拵え致し置き罷登り候節、
象使いとび口を持ち象に乗り通り候」

万年代記帳では
「象、通り申す事、3月23日飯塚へ泊まり、小竹休み、木屋瀬泊まり、
水を飲むこと一日に五斗宛、足に関節なし、指無して爪あり、爪大栗のごとし」※福岡県史料より

飯塚では明正寺に宿泊しています。
この象、長崎街道を小倉まで行き、そこから船で本州に渡り京都に行きました。
京都では中御門天皇ともお会いし、「広南従四位白象」という称号を与えられています。
5月25日には江戸に到着し江戸城浜御殿にて将軍吉宗と対面しました。
それから10年ぐらい浜御殿で飼われていましたがある日飼育係が象に殺されるという事件が
起こり、中野の源助というお百姓さんに払い下げされました。
源助さんは象小屋を建てて皆さんに見物させていましたが、1年後栄養失調で亡くなりました。
その骨は中野の宝仙寺に保存されているそうです。
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小竹の町に入ると冷たい小雪がちらついてきました。
遠賀川からの風が冷たくポケットから手袋を出します。
寒いので足は急ぎ足になります。
「郡境石」があります。
読むと「北鞍手郡」「勝野村」と書いてあります。
その先にはお酒屋さんの所に「休憩所」があります。
先ほどの象の話、小竹で休憩となっていますが、ここで休息したのでしょうね。



小竹駅に着きました。時計を見ると2時半。
寒いのでここまでにしようかな?などと思いますが、次回の行程を考えると今日どうしても
直方まで行かないと今後の街道歩きの日程に影響がありますので寒さを我慢しながら
歩き出します。
勝野駅を過ぎ、直方の町に入ってきます。

直方は元和9年(1623)筑前藩の支藩「東蓮寺藩」として四男高政が入封しました。
その後藩名を直方藩と改めました。
元禄元年(1688)福岡藩三男黒田長清が直方藩4代藩主となり、御館山に新館を造営し
新町、門前町を開きました。
然し長清の嫡男が福岡藩の養子になった為、享保5年長清の死とともに直方藩は100年の
歴史に幕を閉じました。



直方も炭鉱の町、多賀神社の近くには石炭博物館があります。
また、商店街の入口には、筑豊炭鉱御三家の一つである貝島太助の像が建っています。

私事ではありますが、子供の頃、よくお土産で四宮成金饅頭を頂きました。
これは直径20cmぐらいあったでしょうか、大きなお饅頭でした。
子供の頃は、一度でいいからこのお饅頭を一人で全部食べてみたいと思っていました。
然し、母は子供たちにきれいに3等分(3人姉弟でした)していました。
この直方の商店街に四宮の成金饅頭がありました。
即、お店に入り普通サイズの饅頭を買って帰りました。
今は、辛党なので、もう20cmのお饅頭は食べることが出来ません。
あっ、そうそう成金饅頭という名は、炭鉱で当たり一躍大金持ちになった人がいたから
そういうネーミングになったそうです。



直方駅には4時5分到着。電車の中で食べた成金饅頭は懐かしく美味しかったです。
今回は、GPSもちゃんと動いてくれました。
桂川から直方まで27kmでした。





この街道歩きもあと木屋瀬、黒崎、小倉になりました。
あと2日で完歩出来そうです。
1月の連休ぐらいにゴールしたいと考えています。














 


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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
知らないことばかり (kumasan77)
2011-12-28 22:42:45
今日も初めて見聞きすることばかりで、詳しく書いて下さって有り難うございます。
知っているのは飯塚の千鳥饅頭本家のことだけです。(千鳥饅頭は製造後3日目あたりが一番しっとりとして美味しいことも体験しました。)
王塚古墳も歴史地図を見るとはっきりと出でいますし、見事なものですね。
飯の付いた地名はこちらでも「飯盛山」「飯豊山」などあります。
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ありがとうございます (ふくさん)
2011-12-28 23:44:22
わが街をかくも詳細にわたりご紹介戴き、有難うございました。私も知らないことがあり、歴史好き勉強熱心なよっくんさんならではの文章で、感心します。
直方駅は旧舎はもう取り壊されていましたか?風格のある大きな駅舎だったのですが、歴史的建造物でもないとの理由で、取り壊されました。また駅前のロータリーの中心にはその昔は炭鉱夫がピックを持った力強い銅像があったのですが、今は少し離れた河辺館の隅に移設されています。
しかし健脚ですね。素晴らしい!
寒さが厳しくなりますが、頑張ってください。
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kumasan (yokkun)
2011-12-29 08:37:20
コメント有難うございます。
今、千鳥饅頭は、千鳥屋、千鳥饅頭、・・・・
など別会社があり大阪、東京にもあります。
ひよこは福岡と東京です。
時々、東京から出張で福岡にこられる方が
お土産としてひよこを持ってこられます。
それも「東京土産」として。(笑)
王塚古墳は、見事な装飾古墳でした。
茨城にもあるそうです。


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ふくさん (yokkun)
2011-12-29 08:42:40
コメント有難うございます。
とうとう直方まで来ました。
今回は事前に地図をチェックしていましたので
道を間違えることはありませんでした。
そうでしょう、直方駅は新しくなっていました。駅前にはマンションでしょうか、大きな建物が工事中でした。
次回は多賀神社でお参りし木屋瀬に行こうと
思ってます。
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このあたりはどこか懐かしい町並ですね。 (ぶたころ)
2011-12-30 07:07:21
よっくん しゃん

おはようございます。

このあたりはどこか懐かしい町並ですね。

旅人ならではの細かな発見盛りだくさん。
お疲れ様です。
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ぶたころしゃん (yokkun)
2011-12-30 08:18:09
コメント有難うございます。
街道歩きは、教科書では教えない歴史が
たくさんあり、楽しいですね。
又、旧家があり今でも手入れがよく行き届いて
います。
やめられませんね。(笑)
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だんだん近づいてますね。 (とほ娘)
2011-12-30 12:33:20
ゴールにだんだんと近づいてきていますね。

「寿命の古墳」、地名だったのですね。
時代が経ってしまって、古墳にも寿命があるのかしら・・などと、思ってしまいました。

おまんじゅう、普通サイズでも、大きくて食べ甲斐がありそうですね。
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とほ娘さん (yokkun)
2011-12-30 19:13:42
コメント有難うございます。
とほ娘さんのブログ覗いていますよ。
コメントを書こうとするんですがどうもうまく
送信できません。私のパソコンの調子が悪いからかな?

「寿命」という地名珍しいでしょう。
この辺りには他に「楽市」という地名もあります。
あと2日でゴール予定です。
一応8日か9日を予定しています。
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飯塚 (はなまりん)
2011-12-30 21:23:47
今年も大変お世話になりました
もう飯塚まで 来られたのですね
飯塚商店街 成金饅頭 懐かしく拝見しました
自分たちが歩いた地名が出てくると 何とも言えず嬉しいです
一月連休のゴール予定なんですね
お会いしたいのですが 夫新年あいさつのため
上京しています とっても残念です
来年もよろしくお願いいたします
良いお年をお迎えくださいね
カブさんにも くれぐれもよろしくお伝えください
返信する
はなまりんさn (yokkun)
2011-12-31 07:08:11
コメント有難うございます。
いよいよゴールが近づいてきました。
予定としては1/3日と連休でゴールしたいと
思ってます。
最初は道を間違えてばかりいましたが、ちょっと利口になったのか、今では事前に地図のチェックしています。
今年一年大変お世話になりました。
来年はお祝いしますので是非博多へいらっしゃってください。
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