ふくおかウォーキング協会楽しいウォーク「博多じょうもんさん福重市場を訪ねるウォーク」これもコロナで緊急事態宣言が発出されたのでボツになったウォーキングです。
本来は、1/13に行われる予定でした。下見は、昨年12/3に行ってきました。※じょうもんとは、博多弁で「上等」という意味。
集合場所は、大濠公園能楽堂。
大濠から鳥飼を通り、城南区役所へ。この辺りは、旧国鉄筑肥線が通っていました。旧鳥飼駅のあった所です。
旧筑肥線は、1983年(昭和58年)福岡市地下鉄と相互乗り入れの為、姪浜~西新~鳥飼~小笹~筑前高宮~筑前簑島~博多の区間が廃止されました。
鳥飼から祖原公園に向かいます。下見の時は、入口だけでしたが、後日行ってきました。
祖原公園では、冬桜?が咲いていました。
祖(麁)原公園には、元寇遺跡があります。
鎌倉時代中期、1274年(文永11)10月、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)とそれに属した高麗王国の連合国は、日本を侵攻するため、朝鮮半島を出航しました。(文永の役)
対馬、壱岐、平戸島、鷹島、能古島に襲来した元軍は、博多湾に現れ、今津、百道原に上陸します。これを迎え撃った日本軍は、赤坂、鳥飼の一帯で元軍と交戦し、元軍は麁原(現在の祖原)に
陣を構えました。その後、元軍は侵攻を断念して日本から撤退します。この文永の役後、鎌倉幕府は、再度の元の襲来に備えて石築地(元寇防塁)の築造をすすめ、1281年(弘安4)5月、
再び日本に襲来した元軍を退けました。(弘安の役)ここ麁原山(祖原山)(33m)は、元寇の記憶を今に伝える大切な役割を担っています。(説明文より)
今から約750年前、この地で壮大な戦が繰り広げられたのですね。今は、静かな住宅地になっています。ここ麁原山(祖原山)からの眺めも素晴らしいです。
この祖原を調べていると、祖原、鳥飼には、炭鉱があったと記されていました。
現在の城南区鳥飼一帯の地下に石炭層があることは明治20年代から知られていた。現在の早良区昭代一丁目にある「祖原(そはら)公園」の東南に位置していた「西新町炭鉱」は明治末期から
採掘が始められるが、出炭量は年産2~3万トンと小規模であった。1912(大正元)年、同地域に新たに有望な炭田が発見され、1914(大正3)年に「福岡鉱業株式会社」が設立となり、
既存の「西新町炭鉱」の鉱区を含む「福岡炭坑」が開かれた。現在の城南区鳥飼四丁目の「福岡市立鳥飼小学校」付近に新たな坑口(「東坑」と称された)が開かれ、翌年から本格的に採炭が
始められた。旧「西新町炭鉱」は「西坑」と称された。「福岡炭坑」では1917(大正6)年に「第二坑」(現・西区姪の浜付近)を本格的に稼働、翌年に「第三坑」(現・西区小戸付近)で
採炭を開始している。出炭量は「第一次世界大戦」に伴う好況で増加し、「第一坑(東坑・西坑)」においては1916(大正5)年~1918(大正7)年に年産約12万トンとピークを迎える。
その後、「第一坑(東坑・西坑)」の出炭量は減少し、1923(大正12)年~1925(大正14)年には年産約4万トンとなり、1927(昭和2)年の年産約1万4千トンを最後に出炭量の記録は
なくなっている(正確な閉坑時期は不明)。(「戦前期の城南地区の産業~福岡城南このまち」から抜粋)
祖原公園から再び歩き始めます。
旧筑肥線跡地を通り、小田部に出ます。ふと、右側を見ると「将軍神社」(宇賀神社)。名前が珍しいので調べてみると、祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。
倉稲魂命は、稲に宿る精霊を意味するそうです。このあたりは、小田部大根が有名ですのでそういったのが起因するのかな?
小田部大橋を渡ると西区に入ります。
「博多じょうもんさん」は、JA福岡市が運営する産直店です。地産地消 や、食における「安全」と「安心」への関心が高まり、 食品における残留農薬や添加物の基準があらたに設定される 中、
JA福岡市では、環境に十分な配慮をもって管内で生産された青果物を 「博多じょうもんさん」ブランドとして認定し、地域の皆様にお届けしています。
※店内の写真は、省かせていただきます。
博多じょうもんさん市場から室見川の遊歩道に出ます。
ゴールの姪浜駅に到着。約2時間40分のウォーキングでした。
この日のGPSです。
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