№41からの続きです。
遊行寺境内から県道30号線「遊行寺」交差点に出ます。遊行寺坂は、箱根駅伝では、往路3区の下り、復路8区の登りと勝敗を分ける難コースです。
途中に江戸見附がありました。遊行寺の坂は、長く続く坂道、駅伝のランナーもかなり、しんどい坂でしょう。
一里塚跡・・・・・江戸時代は、もっと崖上にあったそうです。
横浜市戸塚区に入りました。国道1号線と藤沢バイパスが合流する所では、かなりの交通量でした。
「お軽・勘平戸塚山中道行の場」の碑があります。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」のお軽・勘平の戸塚道行に因んで作られました。当時、戸塚は山の中だったようです。
歌舞伎では、七代目市川団十郎、三代目尾上菊五郎などの名優の演技と清元の名調子から当時江戸では、大変な評判でした。
大坂上の信号から街道は、横浜新道と旧1号線と分かれます。
大坂 ・・・・・かつては、二つの坂から成り立っていたようで「新編相模国風土記稿」によれば、一番坂登り1町(110m)、二番坂登り三十間(54m)と書かれています。
大坂では、嘉永6年(1853)に仇討があったという記録があります。(説明文より)
大坂の碑の向かい側には、「石仏群」があります。多分庚申塔ではないでしょうか?
第六天神社・・・・・初めて聞く神社です。西日本には、なかったような気がします。
戸塚町の信号の所が「上方見附」です。ここから戸塚宿です。
冨塚八幡宮 ・・・・源頼義、義家父子が社殿を創建したと伝えられ、戸塚の総鎮守となっています。山頂の古墳は、冨属彦命の墳墓とされており、「冨塚」と呼ばれ、これが戸塚の地名の
起こりとも言われています。境内には、芭蕉の句碑「生きて出でけむ 鎌倉を 初松魚(はつがつお)」 ※初鰹は、当時鎌倉で水揚げされ戸塚を通って江戸に運ばれた。
戸塚宿は、本陣2、脇本陣3、旅籠75、家数613軒、人口2903人の規模でした。江戸から十里(40km)、小田原から十里(40km)の位置にあり、江戸から出発した旅人は、ここが最初の宿泊地でした。
戸塚駅前に着きました。西口の方に「清願院」があります。徳川家康の死後、側室だった「お万の方」が尼となり、当寺に入りました。
屋根には、徳川の家紋「三つ葉葵」がありました。
境内には、芭蕉の句碑など貴重な句碑が残っています。
心中句碑・・・・・・「井にうかぶ 番(つがい)の果てや 秋の蝶」
戸塚の遊女おやまと旅籠屋の息子清三郎が恋仲となりますが、この世では結ばれぬ間柄を悲観して天神塚の井戸に身投げした。
芭蕉句碑 ・・・・栗という文字は、にしの木と書て 西方にたよりありと 行基菩薩は 一生杖にも柱にも此の木を用給うふとかや 世の人の見つけぬ花や軒のくり・・・・・
※栗という文字は西の木と書くので西方浄土につながる木として敬われた。高僧・行基は杖や柱にも栗を用いたといわれる。
奥の細道の文章つきの句碑になっています。
時間も16時を廻りました。今日の歩きは、ここまでとします。明日は、戸塚~川崎まで歩く予定です。
江戸日本橋まであと5宿、約40kmになりました。
また戸塚の七福神巡りも、夫の仲間達と歩いてから新年会をするの恒例になりつつあります。
清源院も建て替えが終わりとってもキレイになりました。
往路は下り、復路は上りですのでこのあたりデッドヒートが繰り返されますね。
清願院は、きれいになっていましたが、建てかえられたのですか?