12/22 倉敷より8:08の伯備線で前日ゴール地清音駅へ。清音8:15着。
今日は街道歩きの前に横溝正史が戦時中疎開していた真備町岡田・金田一耕助の誕生地へ向かう。(12/25金田一耕助の誕生地に行ってきました。参照)
岡田から戻った時は、もう10:30近くなっていました。川辺橋を渡り高梁川に沿って歩き途中ワタナベ工業の所から右折するのですがどうも道を間違えたみたいです。
途中、町の人に尋ねると曲がる所を間違えたみたいです。地図を見ながらようやく山陽道に戻りました。2kmぐらいロスしました。
清音小学校近くに「藤原為定 宝篋(ほうきょう)印塔」があります。塔を建てた藤原為定という人物についてははっきりしたことが分っていません。
この塔は石灰岩を使用しており、相輪と宝殊がなくなっていますが嘉歴3年(1328)の銘文が残っています。(案内文より)
この近くに「軽部神社」あります。近くの方に場所を教えて頂き神社に行ってきました。清音小学校から約1km強あったでしょうか?
歩いていると「福山」が見えてきます。これが「太平記」に出てくる「福山の合戦跡」です。標高は300mぐらいで手軽に上れる山だそうです。元旦の初日の出を見にたくさんの方が来られるそうです。
「軽部神社」は、別名「おっぱい神社」と呼ばれています。
延宝六年(1678)建立。昔、境内に垂乳根の桜と呼ばれる、枝垂れ桜があったことから、乳神様として庶民の信仰を集めました。
安産や母乳の出を願うため乳房を型取った手作りの絵馬が数多く奉納されており、女性達の信仰を集めています。(総社市案内文より)
本殿の中を覗くとたくさんのおっぱいの絵馬があります。見ているとなんだか恥ずかしくなってきます。(笑)
時刻は12時近くになってきました。軽部神社から引き返し再び山陽道に戻ります。
山田池から右折すると「山手」に入ります。山手に入って一番びっくりしたことは、案内板の少ないこの山陽道でたくさんの街道案内板があることです。
街道歩く者としては本当に助かります。
先を進むと「山手の一里塚」があります。左、やかげ、右、おかやま。この一里塚に一里松と呼ばれ親しまれてきた大松がありましたが、昭和30年ごろ枯れたそうです。
「吉備考古館」というのが右側にあります。今回はパスしましたが、ここには縄文土器、弥生土器、陶棺、石斧などの出土品が展示されているそうです。
総社市山手支所前に着きました。支所前には「祈り」のオブジェが・・・・・・山手村が平成17年に総社市に合併したときの記念に陶芸家児島塊太郎さんが造られました。
時刻は1時半近くになりました。お腹も減ってきましたので近くの中華そばのお店へ。私は早く食べてこの裏にある「作山(つくりやま)古墳」へ。
作山古墳は、前方後円墳で全長285m、後円部174m、高さ24m、前方部長さ110m、同幅174mの規模で全国的に見て第9位、岡山県内では全長350mの造山(つくりやま)古墳に次いで2番目です。
5世紀中ごろの築造で被葬者が吉備に君臨した大首長であることが想像されます。
再び街道に戻りました。
右側に「角力取山(すもうとりやま)古墳」というのがあります。面白い名前なので行ってみました。角力取山古墳の向いにあるのが「ギリギリ山古墳」
「角力取山古墳」は、古墳時代中期5世紀頃、沖積地に築かれた全国でも珍しい方型古墳(高さ7m、南北30m、東西37m)でかつての地域の支配者であった豪族の墓陵といわれています。
古くから古墳の西側に土俵を設け、氏神御崎神社の秋祭り最終日に奉納角力が行われ、戦前まで続いたことから「角力取山」と呼ばれています。
古墳の上にある「大松」は高さ20m、目通り周囲5m、樹齢約400年で昭和5~6年ごろまでは4本の巨木がありましたが半世紀の間に3本が枯れて老松1本になった。(以上案内板より)
また、この先には「宿寺山古墳」もありました。このあたり一帯5~6世紀にかけての古墳がたくさんあるようです。
「宿」の地区に入ってきました。その名の通りこの辺りは宿場町として栄えていました。三宅酒造は、明治時代の酒造機具、酒造りの模様が展示されているそうです。
「備中国分寺」が左側に見えてきました。備中国分寺は、2年前の瀬戸内倉敷ツーデーマーチで一度訪れていますが、何度見ても飽きませんね。
「備中国分寺」は国分尼寺とともに鎮護国家を祈るために天平13年(741)に聖武天皇の勅願によって建てられた宮寺です。
寺域は東西約160m、南北約180m、周囲には幅1,2m~1.3mの築地土塀がめぐらされており南門、中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が配置されていました。
中世には廃寺となり、その後江戸時代中期に至って日照山国分寺として再興されました。
更に街道を進むと岡山市に入りました。「いなり道」という道標があります。その先には「日時計」が・・・・・
「造山(つくりやま)古墳」駐車場に着きました。先ほどの古墳も作山古墳でしたが、地元の方は、前者を「さくやま」後者を「ぞうざん」と呼んで分けているそうです。
造山古墳は、前方後円墳で5世紀初頭の築造、全長360mは岡山県下で1番、全国でも第4番の規模です。その規模から被葬者は畿内政権と肩を並べるほどの権力をもった
吉備の大王の墓と想像されています。古墳は一般公開されています。
矢部地区に入ってきました。ここからはまた倉敷市になります。
寶泉寺の横に「鯉喰神社」があります。何か面白い名前ですね。由来を見てみますと
吉備の国平定のため吉備津彦命(きびつひこのみこと)が来られた時、この地方の温羅(うら)が村人たちを苦しめていた。
戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと温羅はついに矢尽き刀折て自分の血で川へ鯉となって逃れた。
すぐ命は鵜となり鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。それを祀るため村人たちはここへ「鯉喰神社」を建立した。
足守川に差し掛かりました。この橋を渡るとまた岡山市になります。
橋を渡って右の方にいくと「明治天皇惣爪御立所跡」という石碑が建っています。そこから下ると惣爪の説明がありました。
「惣爪塔跡」古来「石の釜」と呼ばれている、塔の中柱の礎石(心硬)である。長径2m、短径1,5mで上部には直径16cmの円孔をうがち更にその底に子孔があり仏舎利を納めてあったもの。
奈良時代前期この硬石の上に建っていた塔のほか、金堂、講堂、などの建物が並び一大伽藍が営まれていたことが想定される。
惣爪地区を過ぎしばらく歩くと「板倉」の信号があります。ここが「板倉宿」です。
鯉山コミュニティハウスの所が「板倉宿本陣」になります。ここには板倉宿の案内看板が立っています。
板倉宿は、岡山城下町の西部、東は西辛川村、南は宮内村、西は加茂村、北は立田村と接している。村内を東西に走っている旧山陽道から、松山往来が北西へ、庭瀬への道が南に分かれている交通の要地で、
近世山陽道の宿場であった。「和名抄」には賀陽郡板倉郷と記されており、その郷名が村名になったものと思われる。
寿永2年(1183)木曽義仲の軍勢を迎え撃って敗れ、板倉川の川辺で自刃した妹尾兼康(平安物語)の墓がいまも村内に残されている。「寛永備中国絵図」では、
高885石余、うち725石余、庭瀬藩戸川氏領、160石、吉備津神社領。枝村として杉尾を記している。
板倉宿は、備前国との国境近くにあり、隣接する宿場は東に岡山宿、西に川辺宿(現、吉備郡真備町)がある。寛文~延宝年間(1661~81)宮内村にあった本陣(中田家)を
板倉村の東方(ひがしかた)家に移して造られた宿駅である。
「筑紫紀行」に「板倉宿町屋七、八町ありて茶屋・宿屋多し例の芸子(げいこ)・遊女ありとぞ」とあるように、江戸末期ごろは、隣の宮内とともに歓楽街としても栄えたようである。
文化3年(1806)の「旅宿軒数書上」には本陣は1軒で間数8間、畳数99畳。脇本陣は1軒で間数5間、畳数41畳。宿になれる家70軒、うち間口が2間の家53、3間の家10軒、4間の家6軒、5間の家1軒、
また宿内総家数は252戸。うち板倉184戸、宮内68戸と記している(「吉備郡誌」)。板倉宿が繁栄したのは、吉備津神社への参拝者が多かったほか、
宿場の位置が山陽道と松山往来の分かれ道の起点(真金十字路)にあり、南に行けば庭瀬陣屋町があるという交通の要地であったからである。
宿場の東端に真金一里塚(国指定史跡)がある。道を挟んで南北一対の塚があり、北塚に松、南塚にエノキが植えてあった。現在も、塚から西にかけての地域に宿場町の面影を残している。
宿場の名物にアメがあったが、これが吉備団子のもとと考えられる。
明治8年(1875)宮内村・川入村と合併して真金村となった。川入村は同14年分村した。同37年中国鉄道吉備線が開通し、真金駅が設置された。
現在のJR吉備線吉備津駅である。真金村は昭和4年(1929)町制をしき、同35年高松町と合併、同46年岡山市に入った。いまも昔の板倉宿場町の面影を残しており、
吉備津駅は、宿場見物の観光客や吉備津神社の参拝者でにぎわっている。 (岡山市HPより)
板倉宿を過ぎるとJR吉備線の踏切があります。街道はこれを渡るのですが今日はこの吉備津駅でゴールになりますので渡らずまっすぐ行きました。
吉備津駅16:36着。
本日(12/22)のGPS
備中国分寺は2年前、ちょうど東北大震災から1週間後に行ってきました。この国分寺でカンパがあっていましたので少々寄付させていただきました。
それにしても五重塔は素晴らしいですね。
桜の時なんかいいでしょうね。
豊岡まで何回乗り換えられましたか?
私も次回は兵庫県に入りたいと思います。
それにしても九州から遠くなりました。(笑)
仕事で五重塔を眺めながら横を通り過ぎたことがあって、
ずーっと気になっていました。
素晴らしいの一言に尽きます。
軽部神社のおっぱい守り祈願に圧倒されます。
奈良・飛鳥のような雰囲気の古都の香りが漂っているところですね。
今日は山陽本線を一路、鈍行列車の旅
車窓の風景を楽しむ旅(若干、爆睡タイムも有)でしたが、やはり歩くと色々な物が見れますね
若干の寄り道も、その街を知るには大切ですよね
電車に揺られながら、この辺まで歩かれたなんてすごいなぁと思ってましたよ