よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

第24回城下町小田原ツーデーマーチ1日目「石垣山一夜城と箱根湯元温泉街」(神奈川県小田原市)

2024-11-22 06:19:45 | ウォーキング

11/16(土)6年ぶりに「城下町小田原ツーデーマーチ」に参加しました。久しぶりの遠征です。

この大会2012年に初参加し、2018年20回大会で2回目 そして今回3回目の参加です。

本来は2日間の参加を予定していましたが、11/18~11/23まで地元のウォーキングのイベントがありますので1日だけの参加です。

 

集合場所は、小田原城城址公園銅(あか)門広場。皆さんに分かるようにトレードマークの「風車の弥七」でスタート待っていると懐かしい歩友さんの面々が・・・・

地元の協会の役を引き受けていますのでなかなか遠方には出られませんので歩友の皆さんとは久しぶりの再会です。

今日の石垣山一夜城と湯元温泉街のマップ

9:00 北条手作り甲冑隊の「檄」でスタート。JWA畑会長も甲冑隊の衣装で挨拶。

 

 

銅門の所では、「北条太鼓」の勇ましい太鼓の音で応援されています。

 

銅門を潜ると、スタート印を押してもらいます。

 

小田原城を後に、石垣山一夜城へ向かいます。

 

 

 

早川観音を過ぎるといよいよ「石垣山一夜城」に向かう長い(約2km)坂道です。

 

12年前初参加の時は、この坂道そんなに「苦」とは思いませんでしたが、やはり歳のせいか、ペースが落ち、もう休み休み登っていきます。

途中には、この石垣山合戦に参加した武将の紹介看板があります。

昔の人は、この坂なんともなかったのだろうか????

 

 

スタートしてから約1時間半で「石垣山一夜城跡」に着きました。ここがチェックポイントです。

 

石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と

呼ばれるようになりました。

この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。

秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。

この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されており、平成29年4月6日に日本城郭協会より「続日本100名城」に選定されました。

この地は国立公園区域及び国指定史跡に指定されています。

 

一夜城を過ぎてもまだ坂道が続きます。

 

一夜城から310m地点でやっと下り坂です。

 

 

このあたり「早川石丁場群関白沢志支郡」と称しています。

早川石丁場群は、早川へと注ぐ関白沢の東側を中心とする地域にあり、江戸城の石垣を造るための石を切り出した「石丁場」の跡が残っています。江戸城の築城に際しては、神奈川県西部から

伊豆半島を中心とする地域に所在する箱根火山により生成された安山岩という石材が多数使用されました。各大名家は、自らが命じられた江戸城の石垣普請用の石材を入手するため、各地で石丁場の確保に努めました。
市内では、久野や石橋などにも大名家が確保した石であることを示すために記した刻書を確認することができます。
早川の石丁場は、石垣用の石材の中でも「角石」と呼ばれる石垣の角の部分に使われる大きな石を専用に採取した特別な石丁場であり、御三家(尾張・紀伊・水戸)などの大名家の関与が想定されます。ここで切り出された石は、早川を下り相模湾から海路、遠く江戸まで運ばれました。現在、早川などに残る石は、何らかの理由で江戸城まで運ばれなかった石と言うことができますが、

今でも「矢穴」と呼ぶ、石を割る際に掘られた穴や刻印が確認され、往時を偲ぶことができます。(小田原市HPより)

 

 

案内板には、「石曵道(いしびきみち)から早川の河口に運んで「石船」で江戸城まで運んだと記されていますが、当時はクレーン等がなくどのような手段で河口まで運んだのでしょうか?

丸太を使って転がしていったのかな????

 

地球博物館が見えてきました。ここで休憩します。 

休憩後再スタート。

 

小田急の線路を渡ると速いウォーカーとすれ違います。この後のルートは、湯本駅の先の「石畳」を折返します。

 

箱根町に入りました。

ここは、6年前東海道(京都~日本橋)を歩いた時に通っています。

今日は、紅葉見学でしょうか、車の渋滞が続いています。

 

久しぶりの長距離でまた、石垣山の山登りで疲労困憊の状態です。

マップをみるとアジサイ橋からチェックポイントの箱根町庁舎に抜けれます。ショートカットしてみました。

 

2回目のチェックポイントは、箱根町庁舎です。

 

チェックポイントから三枚橋に向かいます。ここも東海道を歩いた時に通りました。

 

鈴廣かまぼこの里で休憩。

お正月の箱根駅伝では、鈴廣の前が中継点です。

 

 

今日は、ウォーキング参加者には、店内で10%引きですが、観光客などで溢れ、買ってもレジまで約30分かかるそうです。

鈴廣かまぼこは、小田原駅前にもありますのでそちらで買うことにします。

 

 

松永記念館、ここは5kmコースのチェックポイントです。

松永記念館は、戦前・戦後と通じて「電力王」と呼ばれた実業家であり、数寄茶人としても高名であった松永安左ヱ門(耳庵)が、昭和21年に小田原へ居住してから収集した古美術品を一般公開するために、昭和34年に財団法人を創立して自宅の敷地内に建設した施設です。昭和54年に財団が解散し、その敷地と建物が小田原市に寄付されました。(小田原市HPより)

松永安左ヱ門は、九州電力の前身の東邦電力を設立した人で九州の電気事業に大きく貢献した方です。

 

 

三淵邸・甘柑荘

三淵邸・甘柑荘は、板橋地区に所在する歴史的建造物で、初代最高裁判所長官・三淵忠彦が昭和初期に建て、晩年を過ごしました。
NHK連続テレビ小説『虎に翼』ヒロインのモデルとなった三淵嘉子は、忠彦の長男・乾太郎(けんたろう)と再婚した後、この邸宅を別荘として愛用していました。
建物は、茶室を備えた数寄屋建築で、忠彦の意向で玄関と床の間を排するなど、簡単で清楚に作られています。
板橋地区の歴史的風致を構成する優れた意匠が認められることから、令和6年(2024年)5月に本市の歴史的風致形成建造物に指定されました。

 

小田原には薄皮で餡子たっぷりな「あんぱん」があります。ここは、柳屋ベーカリー、駅前には守屋パンがあります。

買ってみたかったのですが、この時間売り切れでした。

 

ゴールの小田原城が見えてきました。

 

13:50 ゴールしました。

 

今日のGPSです。

久しぶりの長距離ウォークでしたので疲れました。

2日目は、地元のウォークの行事がありますのでパスします。

長文をお許しください。

 

 


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