よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

ビワイチ徒歩の旅4日目「近江舞子~近江高島」(滋賀県大津市~高島市)

2023-03-08 05:16:23 | 琵琶湖一周徒歩の旅

3/4~5に行われる「京都ツーデーマーチ」に合わせ、前日の3日、ビワイチ4日目「近江舞子~近江高島」まで歩いてきました。

博多発8時の新幹線で京都へ。ホテルに荷物を預け、京都から湖西線で前回ゴールの近江舞子駅に移動しました。

12:10 近江舞子駅からスタート。前回、雨のため行けなかった琵琶湖八景の一つ「雄松崎」に向かいます。

 

比良川河口の北側にあり、東方の琵琶湖中に張り出した弦月状(げんげつじょう)の砂州(さす)。北比良の山々を背後に、約3kmにわたって白砂青松(はくしゃせいしょう)が続く

眺めは素晴らしく、古くから風光明媚(ふうこうめいび)の地として知られています。琵琶湖八景にも、「涼風(りょうふう)・雄松崎の白汀(はくてい)」として取り上げられました。

深浅が急で、魚が手に取れそうに見える青く澄みきった湖水が、遠くどこまでも広がっています。(滋賀県観光情報より)

琵琶湖周航の歌2番の歌詞に出てくる「雄松崎

 松は緑に 砂白き 雄松が里の 乙女子は 赤い椿の 森陰に はかない恋に 泣くとかや 

私は、記憶がありませんが、姉が言うには、よく母がこの歌を口ずさんでいたとか?

 

 

 

このあたり別荘が多いです。

 

 

国道161号線は狭く、歩道がないので迂回します。

北小松駅で休憩。

 

休憩後、再スタート

 

岩除地蔵尊・・・北小松の国道沿いの北はずれに鎧岩(よろいいわ)と言われる険しい崖があり、その崖の下に安置されている。この崖は落石が多くあり、通行に大変危険な所でした。

落石等から身を守っていただこうと、崖の下にお地蔵さまを安置し、「岩除地蔵尊」と名付け、守り本尊として崇敬するようになる。(びわ湖大津トラベルガイドより)

 

高島市に入りました。高島市は、2005年(平成17年)高島郡内のマキノ町、今津町、新旭町、安曇川町、高島町、朽木村が合併してできた「市」です。

私の手元にある五十数年前の母方の戸籍謄本には、まだ高島郡高島町となっています。

 

高島のマンホールは、ガリバー、松、菊がデザインされています。

   

近江で一番古い神社「白髭神社」です。

白髭神社は、近江最古の大社で、社記によると垂仁(すいにん)天皇の25年(第11代・2000余年前)、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が社殿を御創建(御再建とも)、

天武(てんむ)天皇(第40代)の白鳳(はくほう)3年(675)勅旨(ちょくし)を以て「比良明神(ひらみょうじん)」の号を賜るとある。
 当社の縁起(えんぎ)は謡曲(ようきよく)「白鬚」<観阿弥(かんあみ)作>にも謡われ、日本全国に約300の分霊社(ぶんれいしや)が祀(まつ)られている。
 御祭神の猿田彦命(さるたひこのみこと)は、天孫(てんそん) 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 降臨(こうりん)の際に先頭に立って道案内をされた神で、導き・道開きの神として知られている。

当社にお祀りされている猿田彦命は白髪で白い鬚を蓄えた老人のお姿で、御社名の由来にもなっている長寿神である。(白髭神社HPより)

  

 

境内には、紫式部の歌碑があります。「三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 都恋しも
この歌は「源氏物語」の作者紫式部が、この地を通ったときに詠んだものです。平安時代の長徳2年(996年)越前の国司となった父藤原為時から船路にて湖西を通り越前に向かいました。

途中、高島の三尾崎の浜辺で、漁をする人々の網を引く見なれぬ光景に、都の生活を恋しく思い出して詠んだのがこの歌です。紫式部の若き日を偲んで、白鬚神社の境内に歌碑が

建立されています。

 

湖面に白髭神社の鳥居があります。ここには横断歩道がなく、以前は、道路を横切る参拝者が多くいて事故が絶えませんでした。

そこで鳥居に行けないようにし、代わりに境内に展望台を設けました。

 

白髭神社から、鵜川四十八体石仏群に向かいます。

鵜川四十八石仏群は、白髭浜付近で国道161号線を逸れ旧西近江路を北進すると、草深い山中の墓地に、高さ1.6m、花崗岩の阿弥陀如来像群が見られます。東を向いて静かに並んで座る

石仏は、大きさも少しずつ異なり、慈愛に満ちた顔・あどけない顔・ユーモラスな顔など、姿もそれぞれ異なっています。近年までは、室町時代後期に観音寺城(現安土町)城主の

佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため、観音寺から見てちょうど対岸に1553年に建立したとの説が有力でしたが、京都冷泉家の冷泉為広の「為広越後下向日記」の記載から1491年には

既に存在が知られており、さらに地元の古文書「小松之庄与音羽新庄与境論目録=伊藤家文書」に1436年の境界争いの記録に「四拾八躰」の文字が見られることから、従来の説を100年以上

遡ることが分かってきました。その由来は、再び謎に包まれることになりました。
現在、鵜川には33躰安置されており、13躰は江戸時代に移されて大津市坂本の慈眼堂に、残り2躰は行方知れずになっています。(滋賀琵琶湖観光情報より)

 

 

乙女ヶ池  『万葉集』の歌の中では「香取の海」として登場する乙女ヶ池は、歌が詠まれた当時は、びわ湖の入江として山麓まで水面が広がっていたと考えられています。

また、天平宝字8年(764)に勃発した藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の最後の戦闘場所になったことでも知られています。(びわ湖高島観光より)

 

乙女ヶ池から近江高島駅に向かいます。近江高島駅前には、大きなガリバーの銅像があります。

  

旧高島町は、未来を担う青少年に夢と冒険心を与える施策として、ジョナサン・スウイフトの「ガリバー旅行記」をヒントとした「ガリバー青少年旅行村」を1987年(昭和62)に

開村しました。

 

大溝城は新荘城(現新旭町)にいた信長の甥、織田信澄(のぶすみ)が、安土・桃山時代に築城したもので、商家や寺院などを移して城下町を造りました。本丸の南東の乙女ヶ池は

琵琶湖の内湖で、古地図によると、大溝城は城堀を内堀とし、乙女ヶ池を外堀とする水城であり、「鴻湖(こうこ)城」とも呼ばれました。江戸時代に分部光信が城主になると、

この地を陣屋として12代光謙(みつのり)の明治維新までその支配が続きました。

  

母方の先祖のお墓詣りへ

高島駅から少し山の手側に行ったところに「大善寺」があります。ここが私の母方のお墓がある所です。

ちょっとわからなくなりましたので町の人に聞こうと思いますが、人が歩いていません。ホント静かな町です。

何分か歩き回りましたが、やっと畑作業をされている方を見つけ、「大善寺」を教えてくれました。

 

 

お寺の裏側に母方のお墓があります。

私、母方のお墓を訪ねるのは初めてです。お墓を見てみると宝永年間のお墓や嘉永年間・・・・のお墓でした。宝永年間というと今から約320年前です。

明治の初めの当主が15代。

私が子供のころ聞いた話では、「母方」は、兵庫県三木城の城主別所長治の家臣で、秀吉の三木城兵糧攻め(1578~80)に遭い、長治公が自分の首と家臣の開放を条件に

兵糧攻めを解いてもらいました。その後、ここ滋賀県高島にたどりついたのでしょうか?

 

古い戸籍謄本を見てみると「士族」と書いてあります。(現在では記載されません)高島にも大溝城がありますのでこの城の家臣だったのでしょう。

祖母が結婚しての戸籍の住所がこの右下の家です。(表札がありませんので一族の方かどうかわかりませんでした)

このあと祖母は、戸籍を京都市二条駅近くに移しています。

 

古い戸籍を頼りに母方のルーツを訪ねましたが、NHKのファミリーヒストリーみたいにうまくいかないですね。

これで今回のビワイチ徒歩の旅の一つの目的「母方の先祖のお墓詣り」は達成しました。

次回は5月ごろ高島から今津~マキノぐらいまで歩こうと計画しています。

今日のGPSです。

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿