ウィリアム・シェークスピアは、欠点の多い人間が、本質的に、ユートピア的で完璧な世界を生み出すことができない理由を見事に捉えた台詞を『サー・トマス・モア』のなかで書いている。
それは、
「というのも、他の凶漢どもが、勝手気ままにおなじ暴力を振るい、おなじ理屈をこね、おなじ権利を盾にとって諸君を食いものにしてしまうからだ。
いちどそうなると、人間は、貪婪な魚みたいに共食いを始めることになるだろう」
というものである。
シェークスピアが書いた最初と最後の戯曲が、共にトマス・モアの生涯と功績に基づいたものであったことは、あまり知られていない。
『サー・トマス・モア』はシェークスピアが数名の作家と共に書いた、初期の伝記的戯曲であり、『テンペスト』はモアの『ユートピア』を見事なまでに痛烈に皮肉った作品となっている。
冒頭に挙げた台詞に表れているように、若い頃のシェークスピアが、すでにこの世に幻滅を感じていたとするならば、老いたシェークスピアは完全に絶望していたと言える。
シェークスピアは、『テンペスト』を人類やアメリカンドリームの可能性に対するモアの楽観的な見方に逐一反論する形に仕上げている。
『テンペスト』は『ユートピア』と同様、北アメリカ沿岸沖に在る島が舞台になっている。
しかし、シェークスピアは、新世界で新たなスタートを切ることによって、旧世界で積み重ねられた多くの罪や不正をきれいさっぱりなくすことが出来る、という考えを、容赦なく揶揄したのである。
モアが描いた新世界は、秩序があり、理性的で、寛容で、バランスがとれていて、人に対する善意に溢れた、豊かで繁栄した穏やかな場所である。
一方、シェークスピアが描いた新世界は、不毛で、荒涼とし、激しい感情と復讐の企みに駆り立てられている場所であり、旧世界とほとんど変わらない。
新世界が旧世界と変わらないのは、どこに行こうと、人間はそれまでと変わらない哀しい限界を抱えているからであろう。
さて、国外追放となったプロスペローは、無邪気な娘ミランダと2人だけで流れ着いた荒れた孤島で、恨みを抱えながら暮らしていた。
成長したミランダが知る人間は、父親と、島で生まれた異形の奴隷キャリバンの2人だけであった。
プロスペローは、シェークスピアが描くディストピアを体現したような存在で、人間の魂の奥底をのぞき込んでは、情欲、貪欲、陰謀、裏切りばかりを見出している。
他方、ミランダは、人間の表面的な部分に目を向け、美しく希望に溢れたすばらしい新世界だけを見ている。
ミランダには、モアのように、未来に対してユートピア的理想がある。
一方、プロスペローは、未来は過去から逃れられないというシェークスピアの幻滅したディストピア的視点を持っているのである。
シェークスピアの悲観的な未来像は、アメリカ人による探検と開拓の現実にずっと近かったようである。
『テンペスト』は、それが書かれる3年前に起きた実際の出来事に基づいていた。
食料が不足していた新たな植民地バージニアのジェームズタウンに向かった物質補給船の一団が、バミューダ沖で沈没した事件である。
すぐに、難破した船の生存者の間で、政治的分裂や争いが起き、不正が横行するようになった。
ちなみに、モアとシェークスピアの間の時代に地図を作り上げ、新世界の大部分を征服した勇敢な探検家たちは、大概は冷徹であり、ときには残酷なところもある人間であった。
ユートピアを創るという夢を抱いていた者もいたようだが、それを成し遂げた者は皆無だった。
新世界は、新しい人間も、社会ももたらさなかったのである。
新世界は、旧世界の問題すべてがそのまま持ち込まれただけの世界だったのである。
北アメリカ大陸は、間違いなく例外的な場所ですばらしいチャンスに恵まれていた。
しかし、そこに入植した人々の例外的な高潔さを引き出すことはなかったのである。
シェークスピアは、モアが考えた人間像の、より信頼できる象徴としてミランダという人物を創り出した。
ミランダは、子どもの頃から島に閉じ込められ、外界の状況を知らなかったために、はじめて触れる外の世界に心を奪われる。
だが、この新世界に対する彼女の驚きは、皮肉には事欠かないシェークスピアの戯曲のなかでも、最も皮肉に満ちたもののひとつである。
ミランダが出会った人々は、立派でもなければ、人間そのものが美しいわけでもない。
彼女は、若すぎてそれが理解出来ないながらも、自分でそれを学ばなければならない。
その人たちの本当の姿を知っているプロスペローは、彼女がはじめて触れるものに抱く幻想をやんわりと打ち消す。
あらゆることを目にして苦しんできた賢明で年老いたプロスペローは、モアやミランダとは異なる視点を持ち、人間の動機の誠実さを疑っている。
ミランダのような見方をすれば、一時的には楽しい気分になるが、 将来起きることに目を向けないままになってしまう。
一方、プロスペローの悲観主義はツラい気持をもたらすかもしれないが、意思決定のためのより安全な道標になるのである。
では、奴隷キャリバンは、こうしたことすべてにどう関わっているのだろうか。
彼は、野生そのものの生き物で、激情に駆られ、残忍さを隠さない。
社会が行うことが出来る最善の行為は、人間の最底辺にある感情を抑えることではないか、と私は、思うことがある。
なぜなら、自然状態にある人間は粗野であり、高潔ではないからである。
私たちは、いくら不完全な社会制度であっても、解放された状態にある人間の本能から生じる嵐のような混乱のリスクを冒さずにそれを変えることは出来ない。
シェークスピアは、ホッブズが登場する前から、ホッブズの思想を持ち、ルソーが出てくる前からルソーを非難していた。
そして、すばらしい新世界、が堕落し、大量虐殺、宗教戦争、革命、さらに傷だらけのアメリカンドリームに対する感情をうまく利用したトランプ大統領といった、世界規模の恐怖に至ると予見する先見の明を持っていた。
シェークスピアの『テンペスト』は、モアの『ユートピア』を逆転した作品である。
ミランダの言う美しく「すばらしい新世界」は、やがて、オルダス・ハクスリーが描く悪夢のような『すばらしい新世界』になるのかもしれない。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
「三島由紀夫の最後」について、少し違った角度で描きたいと、そちらばかり、考えているあいだに、日記が不定期になってしまいました^_^;
暑くなってきましたね。
体調管理には気をつけたいですね( ^_^)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。