富の集中がもたらす「本当の格差」という記事をみた。ここ
最近、世の中のことについて感じることがある。
普通の人が、みんなが?長生きするようになった。
個人にとって長く生きることの意味って何だろう?
普通の人は、生きることだけで精一杯だった。
だから、親から受け継ぐものも、子どもたちに残すものもない。
学ぶことがあるとするとそれぞれが生きる中で学ぶしかない。
短い人生の中でそういうのは質的・量的に限られている。
そして、せっかく、個人として習得した、経済的・非経済的蓄えは子どもたちに
伝えられることなく意識されることなく個人の死とともに消滅する。
人の寿命が延びるにつれ、生きることに精一杯だった普通の個人も
人生の終わりころに自分の人生等を客観的にみる精神的・経済的ゆとりを持つに至る。
しかし、伝えるほどには、大きいものではない。
だから、最近では終活などといって、せっかくのものをすべて整理
してしまえということになる。
富の集中が起こるのは、累積できるからだ。
累積できるのは、最初からそのつもりだからだ。
それは、教育というか、習慣、しきたりというか伝える意識の仕組み
ではないかと思う。
世の中は普通の人たちの働きで成り立っている。
一部の人たちが、その一番いいところを、まずとってしまう。
しかも物凄い量、ほとんどを奪い取ってしまう。
そういう仕組みになっているから、誰も何も感じない。
そして、残ったものの、わずかなものを、大多数の普通の人が
奪い合う。騙しあいで奪い合う。
それが普通の人の生活だ。
だから残るものもない。
だから一部の人というのは、力(富及び権力)を益々蓄積する。
普通の人は、そのために嬉々として働いているのである。
本来的に人間の社会は不平等なのである。
いや生き物の世界は食うか食われるかの強いものが勝つ世界なのだ。
人間はそれをそれらしい理屈をつけて胡麻化しているだけなのではないだろうか?
そんなことを考えていると家族が核ではないかと思う。
わかっていたら、もっと違った生き方をしたかもしれない。
いや、したと思う。