薩摩軍が1609年3月に奄美・琉球に侵攻してきた時の記録が「琉球軍記」の中に書かれています。この記録は、侵攻したあとそう遠くない日に書かれた記録だといわれています。
和泊町誌をはじめ、様々な書籍でも沖永良部島に侵攻してきた日のことが引用されて書かれていたのですが、どうしても気になることがあって原文を読みたいと思っておりました。やっと探して、手に入れることができました。
私にとって大変都合の良い有難い書籍で、原文・読み下し文・現代語訳と3つ揃った貴重な本でした。
何を調べたかったのかといいますと、以前のブログでも書きましたが、薩摩が侵攻してきた時に、沖永良部島で薩摩軍と対応した人のことです。
様々な書籍を読んでみましたが、「那覇の国王の婿殿」や「那覇の国司の婿殿」と書かれており、実際にどちらが対応したのか?国王の婿と国司の婿では大きな違いがあるなと思っておりました。
更には、アンマメグゥという島唄では、当家の先祖である平安統が薩摩軍と対応したと謡われています。
こんな風に色々と書かれているので、まずは国王の婿なのか?国司の婿なのか?そこを確認したくて原文が見たかったのです。
ワクワクドキドキしながら届いた本を読み進めていきました。
原文はこちらになります。
琉球軍記 薩摩軍談:山下文武著
言葉を失いました。だ、だ、大事なところが欠落してる、、、
原文の方は意味は正確には読み取れませんが、漢字だけ追えば意味がだいたい分かる。ここの「永良部島の主ハ那覇の国司の婿□□か、臣下を召し寄せ」(青マーカー)の文です。婿の後が二文字欠落している、、、これは意図的な欠落なのか?
さらに、これまで見たことなかったような記述(緑マーカー)があります。
「永良部島の王子威以使僧降参史仕候」
永良部島の王子ですよ!王子ってどういう意味なのでしょうか。
読み下し文と現代語訳を読んで、正しい意味を理解しました。
沖永良部の島主は那覇の国司の婿殿で間違いありません。そして、沖永良部の王子が僧侶を遣わして和睦を交渉したのです。この時に、国司の婿殿であった島主と王子が同席したのかは分かりませんが、アンマメグゥという歌にはこう謡われています。共通語訳で書きます。
シマジ(現在の知名町住吉)のヒジカマ(島役人)とヒャントーシ(島の統括者:平安統)のおかげで、戦いをさけることができ、島は平穏であった。
僧侶というのは、この歌でいえば島役人のことだったのでしょうかね。当家のご先祖様である平安統が対応したと謡われているので、那覇の国司の婿殿というのは、やはり平安統ではないでしょうか。
王子とは平安統の子供で、僧侶を呼びに行ったということではないでしょかね。
そして、この那覇の国司の婿は思鎌戸(幼名)だったとも言われています。思鎌戸=平安統ということになります。
国司ということですが、通常は国司は王ではありません。ではなぜ国司が那覇の国王=琉球王であったかといいますと、薩摩は琉球王を王とは呼ばせず国司と位置付けたのです。もちろん明国との冊封については国王の肩書のままですが、対大和においては国司という位置づけにさせたのです。
よって、この琉球軍記には国司という記述になっていると思われます。
薩摩侵攻時の交渉をしたのが、那覇の国司の婿殿であった平安統(幼名:思鎌戸)である可能性が高いことが分かりました。
次回は、この件が世之主の墓につながるかもしれない理由を書きたいと思います。
*那覇の国王の婿については、Vol. 106-107、アンマメグゥについてはVol.61に書いております。