沖永良部島は、昭和の時代に農地の改良のために世之主神社(古城地跡)の北側(神社の裏側)にある直城と呼ばれていた小高い山を削り、客土として利用しました。そのため、山は削り取られ畑となってしまい、今ではもう昔の面影はなくなってしまっているそうです。周辺道路も整備され、現在では山深いという雰囲気はあまり感じませんが、昭和初期ごろまでは、世之主神社付近は山深く、道も細く険しくて、前から牛を連れた人が来ると、行き交うのがとても難しかったそうです。島に住む叔母の話では、付近にはツツジがたくさん咲いていて、黒い石がたくさんあり、それが太陽にあたるとキラキラと光って、とても美しかったそうです。
山深く暗いイメージがあったのですが、そんな美しい景色や海を一望できる景観の良さもあって、ここに城が建ったのでしょうね。
その気になる昔の古城地付近ですが、沖永良部歴史民俗資料館にイメージした図がありました。
今とは随分と雰囲気が違いますね。お爺様の書と照らし合わせてみると、世之主神社(古城地跡)と北側にあった直城の間の谷間あたりに当家のご先祖様一族が代々住んでいたようです。(場所はお爺様の書から推定したところですので、おおよその場所です)
明治31年の大型台風の被害にあうまでは、500年ほどこの地に居住していたことになります。
*直城・・・世之主の次男(3歳)と長女(5歳)が乳母と徳之島に逃げて、帰島後に生活したところ。城を直したので、直城(なおしぐすく)
*長女の家・・・長女は身分が高かったので似合いの結婚相手がおらず、一生独身で過ごし、その家が明治期まで残っていたそうです。男子禁制の場所になっていて、叔母の話では親族の長老の女性が、月に1回足を運んでお参りしていたそうです。
*上花城・・・分家した当家が住んでいたところ
宗の本家の屋敷は「宗の四間殿内」と呼ばれていたそうです。四間とは間口が四間(1間=約1.8m)あるお屋敷だったのでしょう。殿内(とぅんち)とは琉球時代の琉球士族の内、総地頭職にある親方家を指す尊称だそうです。王族である御殿の下に位置し、高い格式を誇る家柄であったようです。
その古い時代の屋敷が明治31年まで存在していたなんて、、、本当に台風さえなければ、、、悔やむところですね。
この歴史資料館の図のおかげで、少しだけ昔にタイムスリップしてイメージできた気がします。
お城は父王である北山王の居住地であった、琉球の今帰仁城の作りに似てると言われています。世之主の城跡には城壁がまばらに残っているので、復元計画などもちらほらあるようですので、いっそのことお城まで復元して欲しいですね。