徳之島の出身である坂井友直先生がお書きになった「奄美郷土史選 第1巻・2巻」という本があります。入手はしていたのですが、ふだんなかなかゆっくり本を読む時間が取れず日々が過ぎていたのですが、この日曜日に気合を入れて丸一日つぶして集中して2冊を読み終えました。
読み終えた感想は、これぞ欲しかった情報!もっと早くに読んでおけば良かった、、、
情報不足や理解不足で整理しきれていなかったこと、気になっていたことなどが、一気に解決というくらい充実した内容でした。
読みながら必要な情報はどんどんメモを書いて付箋を貼っています。
そもそも坂井先生とは?この本に書かれているのは?といったことを、さらっとご紹介しておきます。
坂井友直先生のプロフィール
1875年(明治8年) 8月1日 徳之島で生まれる
1890年(明治23年) 島の小学校の教員となる 16歳
1915年(大正4年) 小学校の校長になる 41歳
1917年(大正6年) 「徳之島少史」発行 43歳
1920年(大正9年) 村長になる 46歳
1923年(大正12年) 県議会議員に当選 49歳
1926年(大正15年)「首里之主由緒紀」発行 52歳
1931年(昭和6年) 「喜界島史」発行 57歳
1933年(昭和8年) 「沖永良部史」発行 59歳
1936年(昭和11年) 「奄美民謡をめぐる伝説全集」第1編を発行
「更生の伊仙村史」発行 62歳
1937年(昭和12年) 「奄美人国記」第2巻発行 63歳
1939年(昭和14年) 月刊誌「力戦」を発行 65歳
1940年(昭和15年) 奄美大島の名瀬で没す(転居して居住していた) 66歳
同年に過去30年に渡り収集した奄美郷土史料をまとめ
、完全な奄美史刊行を発行予定であったが、その志を果
たすことなく他界
小学校の先生をされていたのですが、徳之島や奄美諸島の歴史に興味を持たれ、ずっと研究をなされおり、後半は研究や執筆に専念されていたようです。
先生の本は自費出版されていて、発行部数も少なかったため、当時でも非常に入手が困難だったようです。発行からかなりの年数も経過しているので、現代では手に入りにくい幻の本であったようですが、先生の最後の意思を次いで、娘さんが1992年(平成4年)に取りまとめたこの本を発行されたのだそうです。そのおかげで、私は先生の研究された内容を読むことができました。
2冊の本には、徳之島の歴史を中心に、沖永良部をはじめ奄美諸島の歴史について調査した内容が書かれています。
驚きの情報
この本には、私が知りたかった徳之島の士族(大屋子)についても書かれていました。この件については別記したいと思いますが、何と何と、予想もしていなかった尚寧王の娘についても書かれていたのです。
私はVol.129の記事で、琉球の尚寧王には娘がいたようであるということを書きました。その情報は、薩摩が琉球侵攻の時に沖永良部にやってきた時の記録です。その時の沖永良部の島主のことを、那覇の国王の婿殿と書いていたからです。
尚寧王には琉球正史では子供は一人もいないようになっています。もし本当は子供がいたのだったら、なぜそれを隠しているのかは不明なのですが、子供がいたという事実が本当であれば、当家のご先祖様にも関わってきます。
那覇の国王の婿殿が当家のご先祖様の可能性があるからです。
しかし、この薩摩の記録には、娘の情報などは何も書かれていませんでした。なかなか新たな情報が見つけ出せずにいたのですが、この本には以下のことが書かれていました。
①4代目首里之主は、沖永良部之主も兼任しており、中山王尚寧の婿の子供と記されている。
②5代目佐武良兼の妻は、尚寧の娘であったようだ。
①の4代目首里之主は沖永良部にいた首里之主:思鎌戸です。徳之島の大屋子が急死したので兼任していたのです。薩摩侵攻時に沖永良部で薩摩と対応した島主です。上記では尚寧の婿の子供となっているので、それが誤記入なのか調査が必要です。
②は五代目、、、は徳之島の三代目の東之主の長男である五代目の大屋子のことです。その嫁が尚寧王の娘だというのです。まさかここに娘が登場とは、驚きました。
この内容からいくと、娘は2人いたことになりますね。それ以上の記述はないので情報はここまでですが、実は尚寧王には殷氏真鶴金(殷氏二世庸昌長女)との間の落胤(認知していない子供)が允氏具志堅家太宗・具志堅親雲上用易であるという伝承があるようです。この娘二人もそうだったのか?だから家譜や記録にないのか?
娘2人が一挙に登場してきて、新情報と思いきや、一挙にまた謎も深まりました。これがご先祖調査ですね。
手掛かりを調べてみたいと思います。