前回は薩摩軍が侵攻してきた時に沖永良部島で和睦交渉をした那覇の国司の婿のことについて書きました。
今回は、この婿殿のことだと思われる伝承についてです。
1968(昭和43)年に発行(初版は昭和31年)された沖永良部郷土史資料には次のような記述があります。
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一説によれば慶長14年2月下旬薩摩の琉球を征するや途次大島徳之島に立ち寄りて之を降せり。当時徳之島にありし三島大親の亀津仮谷を包囲せり時に世之主は沖永良部に帰島せし留守にて世之主の子の掟役佐武良、弟の思真良兼薩摩と防戦して討死せり。尋で沖永良部を征するや世之主とても衆寡敵せざるを知り遂に自殺せりと。
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薩摩軍と大島・徳之島が防戦をしたが、薩摩軍が大勢でやってきたため沖永良部の島主であった世之主はとても防戦など無理だと判断し自害したというのです。
1400年代初頭に沖永良部の島主であった世之主も、親元の北山が中山に滅ぼされて、中山からの和睦船を誤認し自害した。この時と同じように、島主が自害してしまったという話しなのですが、これはどちらも口碑伝承であって、事実であったと証明する当時の記録や証拠はありません。
ただ一つ、今回のテーマにしている「世之主の墓:ウファ」と伝わる大きな琉球式の古いお墓があるのみ。
このお墓に眠る世之主が、当家のご先祖様であるという伝承で、当家が代々お墓に関わってきていたそうです。
沖永良部郷土史資料に書かれている薩摩侵攻時に自害をした人物は、その時の島主であった思鎌戸のことでしょう。
そして、何とこの郷土史資料には上記の「自殺せりと。」の後に続きの記述があり、以下のように書かれています。
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延享年間与人西平なる人の調書なるものあり。
世之主由来与人西平調書
沖永良部琉球支配の時琉球国は勿論両先島道の島々に至る迄女にぬる久米という役目仰せ建てられ置き節々貢物積み渡り上納仕りぬる久米代り合ひの節は琉球諸司代へ訴え出跡殿仰付けられ御教書御朱印頂戴仕り来り候由今に御教書を所持する久米罷居候然処昔は上城村の沖ぬる琉球都会の節年頃14才に相成候娘一人召列渡られ候処生付紅顔美麗気量勝れ候に付国王様の御気に叶ひさせられ御所望につき差上帰島仕候其後右腹に王子御誕生成人の後徳之島大島喜界島まで被成下沖永良部内城に居城構へられ世之主と奉称候処仔細ありてご切腹なされ候由慥かなる書留は御座なく城滅亡の時五・六才又は七・八才に相成候者共親の物語を承り居候と申すを与人西平承はり書留候までに御座候
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この文書を書いた「西平」は1744年に薩摩時代の与人に命じられた「仁志平」
のことではないかと言われています。
そう、この文書の言う「世之主」とは当家のご先祖様である北山王の二男であった世之主ではなく別の時代の世之主のことではないかと以前にも書きました。(この文書については、Vol.126で書いておりますので、詳しくはそちらを参照ください。)
いままさしく、そのことが分かった気がします。
この文書に書かれている「世之主」は薩摩が侵攻してきた時の島主であった世之主。もっと言えば「思鎌戸」の可能性があるということです。その思鎌戸が自害したのではないかということです。
思鎌戸は沖永良部の島主でしたが、徳之島の東ケ主が急死したために、急遽2島を兼任することになったのです。そして徳之島では東ケ主の後妻と縁組し、その子孫の方が現在もおられます。
その子孫の方々の記録だと思いますが、「世之主徳之島由緒記」によると思鎌戸は1612年9月15日に歿したようです。
死亡の原因が老齢によるものか、病気によるものか、自害によるものかは定かではありません。
ただ、1608年に徳之島も兼任するようになって東ケ主の後妻と縁組した後に、子供を数名授かっていますので、老齢で没するような年齢ではなかったと思われます。しかも5・6才または7・8才の子供がいたわけですから、尚更老齢ではないでしょう。そうなれば、病気か自害だということになります。
思鎌戸は沖永良部にも子供がいたといいます。上記の年齢の子供が、薩摩が島にきた時に僧侶を呼びにいった王子だったのかもしれません。
このような一連の流れから見ていくと、何か見えてきた気がします。
次回に少しまとめてみようと思います。