長男がいなくなった島での生活
長男が島を出て北九州のパン屋さんで住み込みでの生活を始めたころ、島で生活をしていた家族は、農林水産試験場の宿舎から内城の家に戻って生活をしていました。
内城の家には高齢だった義経お爺様の両親が2人で暮らしていたそうですが、その頃には二人とも他界していたようです。
屋敷のあった場所はVol.7や23で書きましたが、石垣と防風林に囲まれた家で、庭には果物の木が沢山あったそうです。牛や豚を飼っていて、家の前面にあった畑では、牛を使って畑作業をしていたそうです。その畑となっていた土地は、以前は少し窪地で斜面になっていたそうですが、現在は埋め立てられており、平坦な土地になっています。
戦時中から戦後の生活での中では、食べる物も少なくなって蘇鉄を食べていたこともあったそう。
神主をしていたお爺様が執り行っていた神社や世之主の墓での祭り事も、この頃には随分と規模を縮小して家族だけで執り行っていたそうです。
そんなある日に、子供たちは突然島を出る話を聞かされたのでした。
島を出る
昭和28年のある日、その時はやってきました。義母はまだ小学生だったので、その時のことは詳しく覚えていなかったそうですが、中学生だった叔母は、当時のことを覚えていました。しかし時期がはっきりしなかったのですが、戸籍を見ると10月に宮崎から北九州に移動がされていたので、宮崎には半年ほどいたといいますから、おそらく昭和28年4月頃に島を出たのだと思います。
「明日島を出るから」と、両親からの突然の知らせに叔母はかなり戸惑い、急いで親しい友人にお別れをしたのだそうです。正直、この先何がどうなるのか全く分からない状況であったようです。
旅の経路は
沖永良部島からはまず船で沖縄に向かったそうです。当時は沖縄に行ってからパスポートを作っていたようで、パスポートの取得手続き、予防接種などで2~3週間が必要だったそうです。
その間は、お爺様の知人が沖永良部から沖縄に渡って旅館を経営していたらしく、そこに家族で滞在していたそうです。
パスポートの取得や予防接種などが順調に進み、出発の日時を調整していた中でまたまた事件が起きます。
当時中学生だった叔母が旅館の前で転んでしまって、足に数針を縫うケガをするというアクシデントが起こってしまたのです。その治療が必要で、しばらく沖縄に滞在となってしまったのだそうです。
ケガが落ち着いてきたある日、いよいよ九州に向けて出発となったのです。
この当時、家族は両親と子供7人で合計9人の旅です。長女は既に結婚しており、長男の叔父は既に北九州にいましたが、それでもまだ7人の子供がいました。この総勢9名の旅費、現在でも結構な金額になると思いますが、当時はもっと割高だったのではないかと思います。
もちろん島を出るにあたって、家屋敷、畑など持っていた財産は全て売り渡していますので、それで旅費を作ったのでしょう。
もう、もしかして二度と帰ることがないかもしれない島をあとにして、覚悟と決心の渡航だったようです。
次回は九州に到着後の話です。