最初に住んだ場所
沖縄を船で出発した後に向かった先は宮崎県でした。なぜ宮崎だったかというと、当時は移住となると身元引受人のような人が必要だったらしく、宮崎にはお爺様の妹夫婦が既に暮らしていたのだそうです。そこを一時期の引受先としてまずは移り住んだのです。
宮崎といっても当時の住所で宮崎県児湯郡富田村というところで、相当な山深い場所だったらしく、小学校や中学校までは歩いて片道1時間半もかかるような場所だったそうです。毎日の通学も相当に大変で、半年ほど生活をしてからいよいよ北九州に向けて出発したようです。
この時に三女の叔母だけは中学の卒業まではここに残ろうかという話になって、一人だけ宮崎に残ったそうです。通学のために自転車を買ってもらったそうですが、練習中に畑に突っ込んでケガをしたりで散々だったようで、自転車は諦めたというエピソードがあったようです。この叔母も途中でホームシックとなってしまい、結局は卒業を待たずに両親のいる北九州に向かったとのことでした。
北九州での暮らし
北九州では北九州市門司区葛葉という街に住みました。この葛葉という場所は、山の上の方にある場所です。北九州は山肌から下の方に平地が広がっておりその先に海があります。この海の見える山肌の地に家を購入して住み始めたのだそうです。
この家ですが、ちょうど移り住む少し前に土砂災害で家の半分ほどが土砂で埋まってしまっていた物件だったとか。そこを綺麗に掃除して住むようになったそうです。
庭には井戸があって、そこも埋まっていたそうですが、お爺様が作業をして使えるようになったそうです。この作業中に上から石が落ちてきてお爺様にケガをさせてしまうといったアクシデントもあったようですが、お爺様も井戸も何とか無事だったとのことです。
この頃の生活はとても厳しかったようです。両親は働きに出たそうですが、その時にお爺さまの六女はまだ2歳頃です。妹の面倒を見るために、義母や三女の叔母は学校をよく休んでいたそうです。
また、島から出てきた子供たちにとって、北九州での学校生活はとても苦しかったようです。まず言葉が全く通じない。お互いにコミュニケーションが取れないのだそうです。
現代はテレビもありますから、島育ちであっても本土の言葉は聞く機会があるので理解できますが、当時はそんなものもなく育っているので、理解ができ話せるのは島言葉のみ。言葉が分からないので、イジメにあったりと随分と辛い生活をしていたようです。
また靴を履いて生活するのも初めてだったそうで、それ自体も初めは気持ち悪い感じがしたそうです。昭和28年当時、島ではまだ裸足の生活だったのですね。
義母の唯一の良い思い出
お爺様は時代や年齢もあってなかなか職につけず、得意であった大工仕事の日雇いなどで生活をつないでいたそうです。そんなある日に、なぜかお爺様は住宅販売の営業の仕事についたとか。
島言葉を話すお爺様、大人なのである程度は本土の言葉も理解し話したとは思いますが、営業の仕事なんて相当に厳しかったはずです。もともとお爺様は生真面目で寡黙なタイプですので、営業職として活躍できるような方ではありません。義母達は「なんで爺ちゃんはあのとき営業の仕事なんかしたんだろうね?」って首をかしげております。そんなタイプのお爺様でしたから、もちろん営業成績はゼロです。まぁきっと注文さえ取れれば、収入が魅力的な仕事だったのではと思います。もしかしたら一攫千金って感じで、家族のためにチャレンジしたのかもしれませんね。
そんなある日の事、なぜが小学生だった義母が、お爺様の仕事に同行したのだそうです。義母はお爺様とは何も話さずに、ずっと後ろをとぼとぼ着いて歩いてまわったのだそうです。お爺様はとても厳しい人だったので、義母は父親ながらも少し怖いと思っていたらしく、まだ小学生だったということもあって、会話も殆どなかったようです。
そんな付き添いの営業をしていた時に、なんと契約が1件取れたのだとか!
どういういきさつだったのかは分かりませんが、これは付き添った義母のおかげだったのかもしれませんね。家族中が大喜びしたこの時のことを、義母はとても思い出深く覚えているそうです。
お爺様はその後はこの営業はもうやめたそうです。やはり一攫千金だったのか!?
そんな生活が北九州ではあっていたそうです。次回はお爺様の晩年についてです。