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先祖を探して

Vol.231 「後蘭孫八」の屋敷

世之主の四天王の1人であった後蘭孫八の子孫の方は、昭和の始め頃までずっと後蘭城の跡地に居住されていたそうです。
その屋敷のことについて、お爺様が記録されていました。



この人は平家の落武者ではないかとの話。
世之主渡海の前に、この島の後蘭村に居を構えていたのである。世之主四天王の1人。
東方に後蘭田園の水はけ口があり、これをせき止めればたちまち湖になる。屋敷の東方から北、西と水となる。
屋敷の後方に抜け穴湖となったところに船で逃げようと準備なりしか、西方は堀となる。田園(外堀)を抜ければ内堀(田)を経て屋敷に通じ、正門は南面してうねりくねりて、挟少なる一人歩きの容易な長い通路で長い。重点的に南を警戒して構築され、□座等の構栄から見て、相当な無法者であることが思考される。
着物、帯などの遺品があり、毎年7月7日の虫干しの時でないと拝見できなかった。
家の礎は鳥島産(硫黄鳥島)の引きうす石(丸形)で全部同じ物であった。
その当時からの物であれば、鳥島を経てこの島に渡り、先方で礎の石たるべく目をつけていたのかも?
後代になりて取り寄せたものかは若者も知らない。


西側の内堀跡(現水田)には、養魚していたと語り伝えているが、現在は水稲田となっている。
この人が世之主の申し出により築城のことを三ケ年も費やして施工したのである。石の無い土地に沢山の石を運んで石垣を積み、東北方の挟谷に逃れる□道をこしらえるなど、西北は越山に続き西に深い渓谷ありて、南に一、二の砦を要し、東南より東北に□る□□に面し容ならざる要宮の土地である。


第二次世界大戦の際に、駐屯部隊が陣地構築をするなどの今川を考えると、何の役にも立たない仕事を何年も□りてやったが、昭和20年8月15日敗戦終止符で鉄炮の一発も打たずに放重して駐屯部隊は引き揚げてしまった。
その時の兵隊の行動たるや兵隊様々であった。

*□は欠落箇所

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孫八屋敷のこと、世之主城の築城のこと、第二次世界大戦時の世之主城跡(現:世之主神社)のことまで書き連ねていますが、当時のことを知る貴重な記録だと思います。
以前に孫八の子孫の方に屋敷についてシェアしたところ、初めて聞いた話が盛り込まれているとおっしゃり、大変感激されていました。
随分と工夫を凝らした屋敷だったようですね。さすが築城の名手と言われた人の屋敷です。屋敷はもう現存していませんが、様々な工夫の跡は見れるかもしれませんので、島に行った際にはぜひ探索に訪れたい場所の1つです。
以下の資料は、先田光演先生の「世之主伝説」の書籍からの抜粋です。
島に探索に行かれる方には、とても参考になる資料だと思います。






そして硫黄鳥島産の引きうす石ですが、いつの年代の物だったのか気になったので研究家の先生にお尋ねしたところ、比較的新しい時代に作られた可能性があるということでした。
硫黄鳥島の人々が硫黄だけでは生活が苦しく、近代になって福産品で石臼をつくり輸出したようです。それが孫八家にあった可能性があります。
しかし現物がもう存在しないので定かではありませんが、その可能性が高いということです。その石が後蘭の城跡の森の中のどこかに残っていないか探索するのも楽しそうですね。

様々な歴史のお話がある大変に興味深い沖永良部島です。


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